現実社会という夢の国
ディズニーランドは、現実の国、現実のアメリカ全体がディズニーランドであることを隠すために存在する。監獄が、社会全体が日常の至る所で監獄的であることを隠すのと同様に。~ボードリヤール著『シミュラークルとシミュレーション』
現代社会がもはや虚構的なもの(現実と虚構の区別が崩壊している)であるにもかかわらず、ディズニーランドという虚構の領域を明示的に設定することによって、その外側にある社会が本物の現実であるかのように錯覚させるのです。
監獄も同様の機能を持っており、社会全体が監視・規律・管理が浸透している巨大な監獄であるにもかかわらず、私たちは自由だという錯覚を生じさせるためのものでもあるのです。
特異な場所の機能
この局所化による隠蔽構造は、様々な領域にあります。
参考に、カッコ内はその現象を研究した学者です。
「劇場」・・・実際は社会全体が巨大な劇空間であり、人間は日常的に社会役割を演じ生きている(ゴッフマン)ことを隠蔽し、「演技していない素直な私」という錯覚を生じさせます。
「精神病院」・・・人は皆、種類の違うキチガイ(パスカル)であるにもかかわらず、精神病院の壁によって正常と異常の境界を社会的規範によって設け、「私たちは正気の人間である」という錯覚を生じさせます(フーコー、中井久夫)。
「美術館」・・・日常的な物事に美的価値や表現可能性があるにもかかわらず、それを隠蔽し、「芸術は特別な作品の中に存在する」という錯覚を生じさせます(プリュデュー、ダントー)。
「キャバ・風俗」・・・一般の恋愛や男女交際に存在する経済的交換・利害計算・感情の演出などが隠蔽され、その外側にある「私の恋愛の純粋さ」という錯覚が生じます(ヴィヴィアナ・ゼライザー、エヴァ・イルーズ)。
「被差別部落」・・・一般的な人間がもつ穢れや暴力性などを隠蔽し、「私たちは清浄で善良で真っ当な人間」という錯覚を生じさせます(河合隼雄、メアリー・ダグラス)。
挙げればきりがないので以下のように定式化します。
ある隠したい性質を特定の領域に局在化し、その領域を例外として表象することによって、社会全体に浸透する同じ性質を否認する。
この局所化による隠蔽には、主体の不都合な属性を他に帰属させる「自己正当化作用」と、権力に不都合なものを主体に対し隠蔽する「支配維持作用」の二種があり、時に共犯的に作用します。
特異な場所への再入場
私たちはディズニーランドで夢の国を楽しんでいるというより、現実と言う名の悪夢の国の苦しみを浄化している、とも言えます。
私たちは劇場で演技を楽しんでいるというより、演技のプレッシャーから解放された第三者として一時の休息を得ている、とも言えます。
私たちはキャバクラで、むしろ素直な恋愛を楽しんでいるとも言えます。
人間は己の「真っ当でない部分」を、外部化した特定の領域に囲い込み、己の「真っ当さ」を(自己欺瞞的に)保証しようとします。
しかし、形の上では排除された「真っ当でない部分」は本人の内の欲望として残り続け、その欲求解消のために、外部領域に立ち入り、日常では否認しているものを例外として心置きなく享受するのです。
「排除による自己正当化」と「例外化による欲望の解放」が相互に支え合う循環構造であり、その媒介となるのが、ディズニーランドであったり、キャバクラであったりする訳です。
Who is the monster?
私はディズニー(セル)アニメオタクなので、最後にウォルトの言葉とディズニー映画を紹介します。
「人生は光と影から成り立っている。もし影など存在しないかのように装うなら、私たちは不誠実で、偽りに満ち、甘ったるい人間になってしまうだろう。」
(Life is composed of lights and shadows, and we would be untruthful, insincere, and saccharine if we tried to pretend there were no shadows.)「幻想があるのはここ(ディズニーランド)ではない。こここそが現実なのだ。」
(The fantasy isn’t here. This is very real.)
「幻想は、あそこにある。ディズニーランドの門の外、人々が憎しみを抱き、偏見を持っている世界にあるのだ。それは本当の現実ではない!」
(The fantasy is – out there, outside the gates of Disneyland, where people have hatreds and people have prejudices. It’s not really real!)
ちなみにこの排除構造の問題を明確に主題化したディズニーアニメが『ノートルダムの鐘』(1996年公開)です。
「誰が怪物で、誰が人間なのか?(Who is the monster and who is the man?)」というクロパン(道化)のセリフからはじまりまり、「何が怪物を作り、何が人間を作るのか?(What makes a monster and what makes a man?)」というクロパンの言葉で終わります。[註1]
つまり、「Who」から「What makes」への変化は、「モンスターはカジモドではなく、フロロー」あるいは「モンスターはカジモドでもフロローでもなく、聴衆(+鑑賞者)」と言いたいわけではなく、この構造そのもの(真っ当でないものとして排除することで自分の真っ当さを守る仕組み)が問題だと、言っているわけです。
ユゴーの絶望的な原作エンドとは異なり、アニメ版のラストでは少女が大人の作った自己欺瞞的境界を破り、大団円で終幕します。

少女とクロパン・トルイユフー
おわり
註1…日本語字幕版ではこの重要な違いが訳し分けられておらず、冒頭も結末も「誰がモンスターで 誰が心ある人間か」となっており、気付くことはできません。特定の人間に責任を負わす結語は、原作および映画の主題と正反対に思えます。むしろ「誰がモンスターで 誰が心ある人間か」という境界設定が問題だから反省しましょう、というお話だからです。
