はじめに
学問的に「論理的」とは、妥当な推論によって、真理性を保つ(誤謬を排除した)言葉の繋がりを指すものです。
しかし、私たち一般人の言う「論理的」とは、むしろ以下のニーチェの言説のようなものとなっています。
真理とは、それなしには、ある特定の種類の生物が生きることのできないような、誤謬の一種である。
生にとっての価値が、最後には決定する。(遺稿 34[253])
思考することは偽造的な作り変えであり、感じることも偽造的な作り変えであり、意志することも偽造的な作り変えである。
そこにはすべて、何かを自分たちと同じものにしようとする「同化」の力が働いている。
つまり、生はそのような偽造装置によってのみ可能である。(遺稿 34[252])
つまり、ある者が己の利得のためにひねり出した誤った理屈が、人間が通常「真理」と呼んでいるものです。
思考も感性も意志も、そのような真理(己の利益)に基いた偽造的なものです。
[ニーチェはもっと深い意味で言っていますが、ここでは敢えて通俗的に解釈します。]
私たち凡人の論理
欲望・利害・生存上の必要など
↓
それに適合する解釈を作る
↓
その解釈を「客観的・論理的真理」とする
↓
その「真理」が、もとの利害や生のあり方を正当化する
というのが、一般人の論理です。
私たちの言動は極めて非論理的でありながら、論理に信頼を置いているという、矛盾構造があります。
やたら論理にこだわり、仰々しく論理的に振舞いながら、言説内容そのものは非論理的です。
それは、「論理性」が私の「非論理性」のアリバイとなるからです。
論理性は、私の欲望や利害などを隠蔽すると同時に無罪証明を与える重要なものです。
ここでは「論理」は推論技術というより、自己の我欲に正当性を付与する権威記号になっています。
勿論、私は意図してそうしているのではなく、自己欺瞞あるいは無意識あるいは無知として為している、さらに強く言えば、それが人間の”普通”なのです。
アリバイ作り
自己の非論理性を隠蔽するための論理性を強化するために、私たちは日々アリバイ作りに勤しんでいます。
あまり自身の利害にかかわらない低利害領域において論理性を発揮することで信用保証を獲得し、高利害領域での非論理性のアリバイを強化します。
利害の薄い領域において正直に論理に従う
↓
「私は論理的な人間だ」という自己像が形成される
↓
利害の大きい領域で我欲が結論を先取りする
↓
その結論を誤謬的推論(詭弁)によって事後的に正当化する
↓
その誤謬が、先の蓄積された論理の信用によって保証される(私自身および他人の両者の眼に対して)
論理は低利害領域において真理探索の手段であると同時に、「私は欲望ではなく理性によって判断している」という自己像を維持する道具、自己欺瞞を成立させる防衛機制となります。
低利害領域「証拠 → 推論 → 結論」
高利害領域「我欲 → 先取り的結論 → 証拠の選択 → 誤謬推論(詭弁) → 先取り的結論の正当化」
というように、利害領域の違いによって、論理は探索装置から弁護装置へ機能転換します。
勿論、これは意識的に為されるというより、論理的でいても心理的コストのない場所では論理に従う、論理に従うと自己の利益を失う場所では論理を回避する、という、無意識的な防衛です。
人は論理を捨てることによって欺瞞的になるのではなく、論理を選択的に誠実に使用し、その実績を担保として、重要な領域での自己欺瞞のアリバイとして用いるのです。
意味ある論理の領域
真理のためなら死ねるソクラテスのような知の聖人に成れない私たち凡人は、強く己の利害に関わる領域においては論理的であることはできません。
純粋な学問領域において論理性が保たれやすいのは、非論理的であることを(ある程度)許さない制度的な拘束が設けられているためだけでなく、特定の結論と自己利益との結合が弱いためです。
例えば、ある教授が、
・幾何学の論証については極めて厳密
・自身の離婚問題では自己正当化だらけ
・他人の政治思想には鋭い矛盾を発見
・自分の政治思想の矛盾には鈍感
となるのはよくある話で、対象との利害的距離によって、論理の機能が変化するのです(探索装置⇔弁護装置)。
つまり、論理が機能する領域とは、自己の利害と関わらない領域です。
それが、我欲を本質とする人間の性(さが)であり、変えろと言って変えられるものでもありません。
せいぜい、この事実を理解した上で自身の論理の運用そのものを監視することしかできませんが、無意識的なものなのでその監視すらすり抜ける可能性が大です。
真に論理的であるために
「何が語られているか」を問うプラトン的発想だけでなく、「誰がどのような意志によってそれを語るか」を問うニーチェ的発想が、重要だと言うことです(詳細はドゥルーズ『ニーチェと哲学』第三章)。
真に論理的であることを求めるなら、言説内容の論理を発話者の動機付けで補正する必要があるのです。
言説内容の論理性 + 発話者の動機・利害による歪みの補正
= より高次の合理的認識
己の利害に躍起になっている者(他者および私自身)の理屈が論理的である可能性は低く、仮に利害から離れた第三者が論理的に説得しても、納得することはまずありません。
世の九割九分はそのような無益な議論です。
( ˘ω˘ )そっ閉じ、してカフェで美味しいコーヒーでも飲みましょう。
おわり
