エイジズムとは何か

人生/一般

エイジズムとは

「セクシズム」が性別カテゴリーに基づく、「レイシズム」が人種カテゴリーに基づく偏見・差別であるように、「エイジズム」とは、年齢カテゴリーに基づく偏見・差別を指します。
元は高齢カテゴリー(老人)に対する差別の問題として用いられたロバート・バトラーによる概念ですが、現在は一般化され対象は全年齢に拡大しています。

カテゴリーの類型化(タイプ化=○○とはこういうもの化)に基く攻撃性(つまり差別)は二種に分かれます。
例えば、セクシズムが、女らしくない女を叩く際は、女という類型から外れたことに対する制裁です。
例えば、レイシズムが、黒人らしい黒人を叩く際は、黒人という類型そのものに対する蔑視です。
前者は「類型化⇒規範化⇒規範の逸脱に対する制裁」、後者は「類型化⇒その属性そのものの劣位化」、という異なる差別構造です。

 

差別の自己再生産と自己成就

やっかいなのは、これが同時に働く矛盾規範状態になっているということです。
セクシズム⇒「女らしくなければ女のくせにと叩かれる。女らしくても女だから低く見られる」。
エイジズム⇒「オッサンらしければダサいと叩かれる。しかしオッサンらしくなければ若作りと叩かれる」。
レイシズム⇒「黒人らしくしていると黒人だからと叩かれる。しかし黒人らしくなければ黒人を捨てたと叩かれる」。
類型規範に従えばその規範ゆえに劣位化され、類型規範から逸脱すれば逸脱したことを理由に制裁される、という二重拘束自体が差別を永続化させる機能となっているのです。
どちらに動いても「○○は問題だ」という結論が実証されてしまう、反証不可能な逃げ場のない評価体系になっているのです。

また、社会学で言う自己成就的予言(マートンの頁を参照)がここでも機能し、差別的偏見によってその偏見が自己成就的に実証されてしまいます。
「高齢者は新技術に弱い」⇒機会を与えない⇒本当に使えなくなる⇒「やはり高齢者は弱い!」。
「若者は責任感がない」⇒責任ある仕事を任せない⇒責任を学ぶ機会がない⇒「やはり若者は未熟!」。

 

社会的な時計

このエイジズムの前提となる年齢規範を分析したのが、ロバート・バトラーに先行するバーニス・ニューガーデンです。

人間には、生物学的加齢だけでなく「社会的な年齢」があります。
社会には、「何歳なら何をしていて当然か」という暗黙の時間割表や社会的時計が存在するということです。
年齢規範とは単に「平均すると30歳くらいで結婚する」という統計的記述ではなく「30歳くらいまでには結婚しているべきだ」という強い社会規範・拘束です。
それは「年齢相応の行動についての社会的ルール」であり、結婚、出産(親になる)、退職などの人生の移行スケジュールからの逸脱には否定的な制裁が伴います。
単なる子供から大人という社会化ではなく、20代には20代の役割、50代には50代の役割、高齢者には高齢者の役割というように、人間は年齢役割へ社会化され続けるわけです。
「もう○歳なんだから」「その歳でそんな服を着るな」「そろそろ結婚しろ」「その年齢なら管理職で当然」「もう老人なのだから無理をするな」という形で、年齢ごとに社会化圧力が更新され続けるのです。

ここから「早すぎる」「遅すぎる」という考え方が生じます。
人生の出来事自体が問題なのではなく、いつ起きたかが社会的評価を左右することになります。
例えば、18歳で結婚、25歳で結婚、45歳で結婚は、同じ「結婚」ですが、社会的意味が異なってきます。
ある出来事が社会的時間割表に合えばオンタイム(時宜に適う)、外れればオフタイム(時期外れ)と認識されます。
人間は単に私は何歳かを意識しているのではなく、無意識のうちに私は予定通り進んでいるかの社会的時計で測っています。
35歳未婚、40歳非正規雇用、50歳子供なし、といった事実そのものから苦悩が生じるのではなく、「35歳なら結婚しているはず」「40歳なら仕事が安定しているはず」という社会的時計との比較によって苦悩が生じている可能性が高いのです。

これは、外的年齢規範 → 内面化 → 自己規律 → 他者への規範執行 → 再生産、という形で社会人を量産していくシステムです。
一般論としてまとめるなら、「暦年齢から社会的役割を自動的に演繹する社会体系」と言えます。
そして、この規範化された年齢の類型に基き偏見が生じ、差別が行われます。

 

年齢化される私

この年齢の規範化を文化的に分析したのが、マーガレット・ガレットです。

普通なら、人間は生物学的に老い、社会がその結果に対応する、と考えます。
しかし、実際は逆の因果関係も働いています。
身体が時間とともに変化する⇒社会がその変化に「若い/中年/老人」「成長/ピーク/衰退」などという意味を与える⇒その文化的意味を本人が内面化⇒自身が「私はもう○歳だから」と自分を理解し、それに基づく行動をとる。
人は「年を取る」というより「年齢化される」と言った方が実態に近いのです。
「エイジ(年齢)イデオロギー」があり、それは特定の年齢観を私たちに学習させ、別の理解可能性を見えなくするような体系です。

たとえば、子供=未熟、若者=成長・可能性、中年=ピークを過ぎ始める、老人=衰退、という図式などです。
勿論、これは自然そのものではなく、自然についての文化的解釈にすぎません。
欧米社会には非常に強固な人生物語があり、それは、子供⇒成長⇒青年⇒成熟(ピーク)⇒中年⇒老年⇒衰退、という「衰退物語」です。
そして、この物語に基き、現実の現象は因果的に説明される(解釈される)ことになります。
例えば、青年の場合、失敗の原因は経験不足に、老年の場合、失敗の原因は加齢に原因が帰属されます。

年齢は身体の中だけにあるのではなく、社会制度・言語・経済・物語などの中にも存在するのです。
45歳の人間に身体的・能力的変化がなくても、求人で不利になり、ファッションが年相応で評価され、性的魅力が落ちたと言われ、柔軟性や情熱がないと思われます。
彼は、社会的にはすでに「年齢化」されているからです。
身体的・能力的に実際に衰えたから社会的価値が落ちるだけでなく、社会的価値を下げられることによって「自分は衰えた」と経験するのです。
「中高年は生産性が低い」という文化的説明が与えられ、社会も本人もそれを自然な衰退と解釈してしまいます。
「自分は何歳に感じるか」という自己感覚は、身体感覚だけでなく、社会的年齢カテゴリー、他者からの視線、メディア、将来についての物語、モノ(消費文化)などによって社会的に形成されているのです。
つまり、エイジアイデンティティーは純粋に内面的なものではないのです。
最近、問題になったトランスエイジ(暦年齢と主観的年齢の齟齬に苦しむ)も、取り込まれた年齢イデオロギーと内面的なエイジアイデンティティーの齟齬から生じる苦悩とも捉えられます。

社会には、人生とはこういうものだという巨大なモデルがあります(先のニューガーデンの問題意識)。
例えば戦後の典型例なら、学校⇒就職⇒結婚⇒子供⇒昇進⇒退職⇒老後ですが、これは単なる平均ではなく、個人が「自分は順調か?正常か?」を評価する物差しとなっています。
勿論、こうした支配的な人生モデルは自然なものではなく、文化ごとに異なる「ライフコースの想像的体系」です。
その想像的モデルのために私たちは年齢を「演じる」のであり、それぞれの年齢に応じた特徴的な所作言動の記号で扮装することによって、社会から与えられたエイジパフォーマンスを遂行するのです。

 

善いエイジズム(年齢区別)と悪いエイジズム(年齢差別)

年齢によって人に異なる役割や規範を求めること自体は、不当ではありません。
個人の利益と社会の運営のために一定の年齢区分には合理性があるからです。
一方、その機能的な合理性を越境し、年齢を個人の人格や自由を侵害するような判断基準にまで広げ、「その歳ならこうあるべきだ」と強要する時、年齢は単なる目安からイデオロギーへ変わります。
正当なエイジズムは具体的な機能に限定されますが、悪いエイジズムは年齢規範そのものを目的化し、個人差を無視して社会的役割への同調を強いるものとなります。
後者は、機能的だった規範が機能を失っても残り結果的に抑圧化と成っている場合もあれば、その機能性が特定集団の利益に基づく妄想的なもので実体的には非機能的になり抑圧化している場合などがあります。

問うべきは、1.その年齢規範には実質的な機能・根拠があるか、2.その年齢規範は過剰に拡張・強制されていないか、の二点です。
これらを基にした具体的な以下の十の問いに、あなたに与えられる年齢規範が耐えられるかどうかを検証してから、それを受け容れるか拒否するかを決定すべきでしょう。

・その年齢規範は、社会が変わった現代でも機能している?
・その年齢規範は、単なる根拠なき思い込みや慣習ではない?
・その年齢規範は、本当に個人と共同体全体の利益になっている?
・特定の世代・組織・階層だけの利益のための年齢規範ではない?
・本当に年齢そのもので測る必要がある領域?能力や状態を直接見た方がよい領域ではない?
・その規範は必要分で留まっている? 過剰な命令となって個人の自由まで支配していない?
・ベターがマスト、推奨が義務、普通(多数)が正解になってない?
・規範から外れる選択可能性(自由)を奪ってない?
・自分が反対側の年齢カテゴリーにいても、その規範を公平だと思える?
・その規範は、個人差を十分に許容している?
・規範を守ること自体が目的化していない?

 

おわり