ステータスとは何か

人生/一般

二つの人格

人間は個人であると同時に社会人であり、二つの人格をもっています。
後者の社会的人格は社会のヒエラルキー(階層秩序)に従う「地位(ステータス-立つ位置-)」によって評価されます。
この階層秩序は相対比較的なものであり、私の上の誰かと私の下の誰かによって、私の立ち位置が決定されます。
ですから、社会的人格である私は、常に「誰より上」あるいは「誰より下」かを意識しながら生きていくことになります。

インターネットの普及によって、爆発的に比較対象が拡大し、常時その膨大な誰かを観ることのできるようになった現在、より一層その相対比較的な姿勢が強くなってきています。
最近は現実でもネット空間でも、常に誰かを見下す態度や言説に溢れ、人々は必死で自分の社会的立ち位置(ステータス)を確認する作業に病的なほどの労力を割いています。

下見て暮らせ

多くの場合、「上見て暮らすな下見て暮らせ」の精神で、誰かを見下すことに特化することで自分の社会的優位性を確認し安心しようとする差別(他虐)的な態度が取られます。
昔からよくある年収や職業や学歴などの明確な根拠のあるマウンティンングでは済まず、今や、ほとんどどうでもいい些事にまでそれは及んでいます。
一重の女性を見下し、ボディバッグを持ったおじさんを蔑み、迎え舌で食事をする外国人観光客を晒し笑い、所有するスマホのメーカーで村八分にします。
もはやそこには根拠すらなく、中身のない形骸化した見下しの形式のみがあります。
それは、先に見下した者勝ちの、多くのオーディエンス(賛同者やいいね)を獲得した者勝ちのゲームと化しています。
他者に対する根拠なき見下しと不寛容は、根拠をもてない無能で不安な人々にとって、自身の心の安定を図るために必須の態度です。

反対に、「下見て暮らすな上見て暮らせ」の精神で、誰かをうらやむことで自分の社会的劣位性を確認し自ら不安になろうとする被差別(自虐)的な態度を取る人もいます。
人は基本的にはそれら両方の態度を備えているので、時に下に対する蔑みを、時に上に対する羨みをもちます。
ただ、上に対する羨みのエネルギーは、下に対する蔑みに転化されるので(逆はない)、比率としては蔑みの方が圧倒的に大きくなります。

差別の必然性

社会的人格の価値が社会内での階層秩序的な相対比較によって決定される以上、このような態度は避けられません。
仏教思想をベースにする槇原敬之の『世界に一つだけの花』風に、個人的人格(オンリーワン)に全振りし、社会的人格(ナンバーX)を無視して生きることも可能ですが、それはそれで別の形で病的な人格形成となってしまいます。
社会に生き、社会的人格をもつ以上、差別は必然であり、避けることはできません(避ける必要もない)。

純粋な差別

本来、「差別」は、「差を設けその差に従い別(わ)ける」というもので、別に善くも悪くもない単なるひとつの認知の枠組みにすぎません。
日常的に言われる「差別」とは、この「差を設けその差に従い別ける」という枠組みに、ネガティブな態度を加えた特殊なものであり、純粋なものではありません。
ですから、反対に、ポジティブな態度を加えた特殊な「差別」もあるわけです。
ネガティブな態度の差別は、ポジティブな態度の差別に変換可能であり、その場合、「羨み⇒憧れ」「蔑み⇒情」のようなものに成るでしょう。

ポジティブな差別

私は、上の誰かを羨むことによってではなく、上の誰かに憧れる(目的的視線)ことによって、自分の社会的位置(上から順に数えた相対位置)を確認することができます。
私は、下の誰かを蔑むことによってではなく、下の誰かに情(保護的視線)をもつことによって、自分の社会的位置(下から順に数えた相対位置)を確認することができます。
喩えるなら、自分より上に居る先輩に憧れ追いかけながら、同時に自分より下に居る後輩を引っ張っていくような姿勢です。
自分より社会的に優っている人が居ても憧れの先輩を見るような目的論的な眼差しで見ることにおいて、自分より社会的に劣っている人が居ても可愛い後輩を見るような保護的な眼差しで見ることにおいて、自身の社会的地位(社会階層内での立ち位置-ステータス-)を確認することが可能です。
このようなポジティブな差別もある訳です。

ふざけんじゃねぇ!

「あ、ざけんじゃねぇよ!テメーのステータスの確認のために「情」を利用してんじゃねぇ!下の者を可愛がることで自分の優位性を確認するなんてクズのやることだ。それならまだ、見下してくる奴らの方が余程マシだ!」と吼えるロックな少年もいるでしょう。
ただ、これはネガティブな差別の心性(蔑み)を、ポジティブな差別(情)の心性に投影して(半ば意図的に)混同してしまっているだけで、単純に誤りです。
彼は、隠れた前提として「下から順に数え相対位置の確認をすること(いわば純粋な差別)」そのものに事前に悪い価値付けをしてしまっており、そのネガティブな差別の心性をベースにポジティブな差別を語るという、自己言及的な誤謬を犯してしまっています。
もし、彼がポジティブな差別を自身で体験し、自己言及的ナルシズムの殻の外に出ることができれば、自身の誤りに気付くことができるでしょう。

ふざけてません

差別問題の本質は、階層的相対比較にではなく、それに付け加わる(ネガティブな)眼差しにあるのです。
純粋な「差別(差を設けその差に従い別ける)」そのものに、善いも悪いもなく、差別を悪いものにしているのは私自身の態度なのです。
ネガとポジがトレードオフの関係にあるように、私がポジティブな態度の差別を採れば、ネガティブな差別はおのずと消えていきます。
上の人に憧れ、下の人に情をもつことによって、自身の社会的位置を確認する人々が増えれば、蔑み(時々自虐)に特化した現代のふざけたステータスバトルも少しは落ち着くでしょう(希望的観測)。

おわり