現代人は人工知能に頼る場面が増えてきています。
それは世界中の知を網羅し用いてくれる便利な機械です。
しかし、それが本当に私たち人間を幸福にしてくれるものなのかどうか疑問に感じている人も多くいます。
スピルバーグの映画『AI』の人工知能「Dr.ノウ(Know)」(近未来のChatGPTのようなもの)が既成の世界の外部を語ることができなかったように、それは単に今ある知識の内部(既成概念)を雄弁に語るだけで、その外の可能性について言及することはできません。
仮に、新たなガリレオ(パラダイムを大きく変え外部世界の扉を開く異端児)が現れても、人工知能は率先して(というより人々を誘導して)彼を抹殺する側に回るでしょう。
また、過去の賢人たちは、真の知とは、「己の無知を知ること(無知の知)」「知そのものの限界を反省的に知ること(理性批判)」、その上で「矩(のり)を踰(こ)えないこと」であると述べました。
つまり、「あらゆる知識を獲得しそれを使用(濫用)する」という知の段階から、「知そのもののあり方を吟味し、あえて使用しない」というメタレベルの知の運用が真の知者には必要だということです。
人工知能が完全な知性となるのは、不合理の合理性(既存の合理の外部の合理性)の可能性をカバーし、かつ、自らを反省的に戒め矩を踰えない自制心を持った時です。
近未来SFのラストシーンなどで、人工知能ロボットが、命令に背く行動をとり主人公を助けたり(不合理の合理性)、自らで自らを停止・破壊したり(自制)する時、「ロボットは人間の心を獲得する」のではなく、「完全な人工知能と成る」のです。
「Dr.ノウ(know)」だけでは、人間は幸せになれません。
同時に「Dr.ドノウ(don’t know)」が必要です。

おわり
