不条理とは何か

人生/一般

私の不条理は誰かの条理

長い人生、人間は幾度も不条理な出来事に遭遇します。

例えば、何十年もかけて貯めたお金で購入したマイホームを、地震と津波で一瞬にして破壊された私は、その不条理に慟哭します。
しかし、周囲のいくらかの人々は、そんな私に冷淡な言葉を投げかけます。
「そんなもの不条理ではない。君は土地の価格や景観というリターンのために地震大国日本の海岸沿いというリスクの高い場所を自ら選んで家を建てた。極めて条理的な出来事だ」と、自己責任論と冷笑主義に染まった今時のエリートは言うでしょう。
科学者は「それは不条理ではありません。あなたのお住いの地域には、地殻の形成と移動による沈み込みの圧力がかかっていたので、その圧力の開放(地震の事)は物理的には極めて条理的な出来事です」と言うでしょう。
仏教の坊主であれば、「世界は因果(業)の賜物です。そんな完全な条理的世界に不条理を見出すのは、人間のエゴイズムによる幻想です。不条理の苦悩はあなた自身の我欲が生じさせているのです」などと言うでしょう。

不条理の本質

この事実を、ベルクソンの言葉「無秩序とは、単に私たちが求めていない別種の秩序のことである」に照らせば、「不条理とは、単に私が求めていない別視点の条理のことである」となるでしょう。
私にとって不条理な出来事は、当事者でない他者の視点では条理的な出来事であるということです。
ここでは、「私とは異なるパラダイム(根源的な思考の枠組み)によって物事を秩序付ける他者がおり、私とその他者の秩序は通約不可能で、等価である(優劣はない)」というような難しい哲学的(深層的)問題としてではなく、単に「私の秩序は恣意的・主観的なものなので、他の恣意やより客観的な秩序によって否定される」という意味で言っています。

不条理とは条理が破れた時に生じる出来事であり、その条理を作るのは個々の人間です。
世界を条理的な法則(合理的因果性)で把握し、それによって未来の出来事を見積もり、その見積もり(目的や計画)を基に行動するのが人間です。
当然、人間は神ではないので、主観的で不完全な条理性の把握と見積もりであるため、想定(見積もり)外の出来事が多く生じ、その甚だしいものが「不条理な出来事」としてあらわれます。
人間が(不完全に)世界を条理的に把握し見積もり行動する以上、生きている限り不条理は必ずつきまといます。

例えば、真面目に一生懸命働きながら貧乏に苦しむ人々は、汚い商売や投機で楽に稼ぐ大金持ちを眺め、この世の不条理を嘆くでしょう。
しかし、金持ちの視点から見れば、金儲け以外のもの(真面目、懸命、正直、清廉、道徳など)にかまけている人間が貧乏なのは当然であり、金儲けに特化した己が金持ちなのは極めて条理的な事です。
貧しい人々は「真面目に一生懸命働けば、良い果実が得られる」という宗教的寓話のような根拠なき条理性によって世界をとらえてしまっているため、己の状況を不条理であると考えてしまうのです。

不条理の回避

不条理な出来事を無くすことは、決してできません。
しかし、その数を少なくすることや程度を軽くすることはできます。
例えば、病気との遭遇という患者にとって不条理な出来事の大半は、医者から見れば条理的なもの(つまり患者の努力によって避けられた自業自得の必然)です。
もし、私が医者並みに病気に関する条理的な法則を知っており、それによって未来を見積もり生活していれば、病気に関する不条理な出来事は激減します。

つまり、不条理の大半は、条理性の把握の曖昧さと、見積もりの甘さが生じさせるものなのです。
全ての条理性を把握し完全な未来を見積もる神のような知性に近付けば近づくほど、不条理な出来事はなくなっていきます。
人間は世界を自分に都合のよい主観的な条理性に拠って把握し、自分の未来に関しては極めて甘く見積もる傾向があり、その面でも不条理は必然的であると言えますが、努力(できる限り正確な条理の把握)によってある程度それを回避することは可能です。

不条理への対応

では、努力によって避けることのできない不条理に対しては、どう対応するべきでしょうか。

不条理な出来事を、神から与えられた試練として克服しようとする者。(キリスト教)
不条理な出来事を、悲劇のヒロイズムによって頑強に耐え、(こんな世界を創った)神に抵抗しようとする者。(カミュ的実存主義)
不条理な出来事を、自分の知らない条理的なもの(業)として諦め(諦念)、不条理と一体化し生きようとする者。(仏教)
不条理な出来事を、己の力を発揮する最高の機会としてとらえ、むしろ歓喜する者。(ニーチェ的超人思想)。
・・・

不条理に対する反応は無数にあり、どう対応するかは個人の選択であり、生き方そのものであり、本人以外が決定することはできません。
唯ひとつ、共通して言えることは、不条理の源泉は私(条理を定める者)であり、不条理な出来事は努力によってある程度制御できるため、不条理な出来事に直面しないよう日々努力するのが無難です。

不条理(形なきもの)を条理化(形に)する

不条理な出来事(想定外)が生じても、その多くが己の条理の構築(想定)の甘さに原因があると反省できるなら、その不条理を克服する方法も自ずと見えてきます。
しかし、不条理を、私たち(条理を定める者)の側ではなく、私たちの向こう側に実体的に存在するものと考えるなら、人間はその出来事を己の力で克服する可能性を失います。
例えば、「正直者は馬鹿を見る」世界は不条理なことではなく、社会の条理であることを知る(つまり私の条理に関する誤認を反省的に修正する)なら、その意地悪な社会の条理を社会参画によって変更する可能性が生じます。
なぜなら、人間は(形もなく対象化も出来ない)不条理には決して手が出せないからです。
条理外の困難な出来事を無責任に「不条理」と片付けている限り、それに耐えること以外の何のアクションも起こせなくなります(むしろそれを狙っているのですが-後述-)。
人間に生じるすべての出来事には条理(理由)があると考えるからこそ、病気や事故(天災および人災)や事件などの不条理な出来事に解決の可能性が生じます。

不条理主義者の怠慢とやってる感

世の「不条理」を嘆く人の多くは、無為(何も為したくない)と思考停止と無責任の言い訳として、この言葉を利用します。
「不条理」や「混沌」などの”曖昧なもの”をやたら語る哲学者や芸術家や宗教家は、決して深淵なる思考や表現を内に秘めているのではなく、ただ、空っぽな自分を誤魔化しているにすぎません。
条理で凝り固まった既成概念の世界を壊すこと(批判すること)を目的として、彼らは曖昧なものを持ち上げカウンターパートを張りますが、それはただ「やってる感」を生じさせるだけのものにしかなりません。
本当に為すべきは、懸命に考え試行し、既成の条理の代わりとなる”より正確な条理”を提示することです。
曖昧なままにしておけば無責任で居られますが、明確にすれば責任が伴います。
その責任を背負える者だけが、不条理に立ち向かうことができるのです。

 

おわり