人間とは何か

人生/一般

 

人間の定義

「人は女として生まれるのではなく、女になるのだ」とは、ボーヴォワールの言葉ですが、それをより一般化すると「人は人間として生まれるのではなく、人間になるのだ」と、より根源的なサルトル的考え(人間の本質は相対的で変更可能なものである)に至ります。

時代や場所や文化や所属集団などによって、人間の定義(人間の本質「何であるか」)は異なります。
私たちは、その人間の定義に適合することによって、はじめて「人間」に成れるのであり、適合しない場合は「ひとでなし(人間で無い存在)」として扱われます。
ですから、私たちは、日々、必死で人間に成るための努力をしています。

例えば、戦時中のドイツ人は血統を人間の定義として採用したため、ユダヤ人は「人でないもの」として殺処分されました。
反対に、民主主義的人権を人間の定義として採用した戦後の人々は、人を害虫のように扱う戦時中のドイツ人を「人でなし」として糾弾しました。
私たちは、そのように状況によって変化する、明文化されない不文律的な人間の定義を半ば無意識的に共有し、自身はそれに合致しようと必死になり、それから外れる他者を迫害します。
もし、私が当時のドイツに生きて居れば、必死で愛国者に成ろうとしたでしょうし、一生懸命ユダヤ人を迫害したでしょう(人間で在るために)。

人間に成れない妖怪たち

しかし、現代においては、多くの場合、それ(人間の定義)は血統や肌の色のような先天的なもの(露骨な差異)ではなく、居住地、服装、生活習慣、所作言動、職業などの後天的なものに基いています。
例えば、もし私が、祖父の世代の真似をして、一週間に一回しか風呂に入らないなら、学校や職場で人間ではなく野生動物のように見られ村八分に合うでしょう。
もし私が、遊牧民に憧れ、定住地(住所)を持たない生活をすれば、戸籍なき非人間として扱われるでしょう。
私たちは、人間に成れるよう(というより人間の定義から外れて迫害されないよう)、一生懸命、受験勉強し、コミュニケーション能力を鍛え、人として扱われる職業を目指し、ファッションに気を遣い、衛生観念を持ち、恋人を探し、婚活をし、家を購入し、ひとでなしの妖怪ではなく、立派な人間に成れるよう、人生を費やしています。

人間に成るための難度は、個々人の状況により異なり、そこには極端な不均衡が存在し、意識的な努力なしに人間に成れる幸運な境遇に生まれる人も居れば、死ぬ気で努力をしても生涯人間に成れない不運な境遇の人も居ます。
トイレで用を足せる、という当たり前のことすら困難な文化あるいは個人的教育環境に育つ人も少なからず居ます。
もし、人間で在る(人間の定義に合致している)ことに何の不自由も感じていない人がいれば、それだけその人が幸運な境遇で育ったということです。
問題となるのは、人間の定義から外れ、人間に成れなかった妖怪人間たちです。
私が毒親に育てられた貧しい被差別民であり、まともな教育の機会も社会化のためのリソースも持たないなら、人間に成りたいと願いながら死にゆく悲しき妖怪人間として人生を終える確率が、極めて高くなります。


『妖怪人間ベム』

人間の相対的定義と普遍的定義

ここで考えるべきは、本当に「人は人間として生まれるのではなく、人間になる」のかどうか、なぜ「人は人間として生まれているのであり、すでに人間になっている」という可能性を人々は無視するのか、という問いです(勿論、それは社会が後天的に定義する人間に成ってもらわないと社会が維持できないからですが)。
ある動物の生の本質は、その動物の持つ先天的な機能(才能)を十全に開花させた状態であると考えられています(進化論を正しいものと仮定すると必然的にそうなる)。
鳥は持って生まれた翼で大空を飛び、馬は持って生まれた疾足で草原を駆ける時、その本質を開化させるものです。
もし、そうであるなら、人間の定義(本質)とは、時代や文化などの相対的なものによって決定されるものではなく、人間が普遍的に与えられた機能(厳密に言うと普遍に見えるくらい長期間の相対、つまり文化や歴史レベルではなく生物学的進化レベルのスパン)をフル活用している状態を指すものと言えます。
よく動き(身体的才能)、よく考え(思考的才能)、よく笑い(感情的才能)、よく感動し(感性的才能)、そのような様々な人間のもって生まれた能力が発現する時、人は「人間に成る」のではないかということです。

むしろ「人でなし」とは、社会的(相対的)な人間の定義によって、自然的(普遍的)な人間の定義を抑圧された人間のことを指すとも言えます。
(社会的定義の)人間に成るための受験勉強や就職活動などにおいては邪魔になる、物事に感動する心や、物事を考える頭脳(社会で要求されるのは能動的な考える力ではなく、受動的なインプットする力)を捨て去る時、私は同時に人間を捨てているのではないかということです。
人は既に人間(普遍的定義としての人間)になっているのに、人間(相対的定義としての人間)になろうとして、二重の意味で人間に成りそこなっている、地獄のような状況にあるのではないでしょうか。
子供の頃に既に持っていた普遍的な人間の本質(活発な行動力、尽きない知的好奇心、豊かな感情、素直な感性など)を捨ててまで、相対的な人間の本質を獲得しようとし、その企てが失敗する時、私は普遍的定義としての人間にも、相対的定義としの人間にも成れず、人間の原型すらとどめない(”妖怪人間”以下の)完全なる”妖怪”になってしまいます。

人間の創造主は私自身

私は、個人であると同時に社会の一員であるため、社会の要求する人間の定義を完全に無視する訳には行きません。
私の命は、私だけのものではなく、社会に支えられながら維持されている命であり(例えば主要なインフラひとつの停止で私の命は簡単に途絶えます)、その要求にある程度は応えねばなりません。
だからといって、私は社会を維持するための自動機械ではなく、かけがえのない個人であり、持って生まれた人間の本質を実現する可能性を捨てるわけにはいきません。
相対(社会)的な人間の定義と普遍(自然)的な定義が一致することは原理的にあり得ず、必ずバッティングします。
その時、私はどのようなバランスでそれらを調整し、人間を定義付けるかによって、私の生き方そのものが決定されます。

また、相対的な人間の定義は無数にあるため、私はその選択においても、決断しなければなりません。
人間を「ホモエコノミカス(経済的存在)」として定義付ける資本主義社会において、貧乏人は負けた犬畜生として扱われます。
しかし、私は、人間を「ホモアマンス(愛する存在)」として定義付け、お金より愛を選び生きることもできます(愛は経済と同様に文化的な発明です)。
そして、その相対的な人間の定義(愛がなければ人間じゃない)のために、自己の普遍(自然)的な人間の定義を犠牲にすることもできるのです。

現実に「人間」は存在しません。
もし、存在すると思うなら、それはその人がその人自身の持つ人間の定義を堅固に絶対化しているだけのことです。
私は、私自身の選択によって、人間を定義付け、それにより「人間」が創り出され、私の人生そのものを創造することになります。
私は「人間に成る」という努力以前に、「人間を創る」という極めて重要な仕事(選択)を為さねばならないのです。
はじめの言葉を厳密に言うなら、「人は人間として生まれるのではなく、自ら人間を創り、人間に成るのだ」となるでしょう。


『ピノキオ』

おわり