若さ(老い)とは何か

人生/一般

 

人間の理想の可能性は、生まれた時に最大値で、音声ボリューム記号の長い直角三角形のように、年を取るにつれて徐々に小さくなっていくと考えられています。
子供の頃は皆、野球選手や航空機パイロットなど様々な理想をもっていますが、年を経ると共に理想をもつことが少なくなっていきます。
人間の(理想の)現実化能力は、子供から大人に成るにつれ大きくなっていき、働き盛りの40代くらいがピークの長い菱形を描き、老いるにつれ徐々に小さくなっていくと考えられています。
つまり、老人は、理想をもつ力も、それを現実化する能力も低くなっています。

また、人生という直線の始点から終点へ移動する点のように、徐々に前(未来)の長さが短くなるにつれ、後ろ(過去)の長さが長くなっていくと考えられています。
それによって直線的時間として捉えられた人生の比重が変わっていきます。
必然的に、未来が長ければ長いほど(つまり若いほど)未来の事を考えやすく、過去が長ければ長いほど(つまり年寄ほど)過去の事を考えやすくなります。
若い人は未来の希望で頭がいっぱいなのに、老いた人は過去の追憶ばかりになります。

山川啓介作詞 『宇宙刑事ギャバン』

このように考えると、どうやら老いとは「徐々に希望(理想)を失っていくこと」とも言えるようです。

高度成長期の日本人に感動を与えた、ひとつの詩があります(サミュエル・ウルマン『青春』)。
それによると、青春とは特定の年齢を指すものではなく、それは理想を持って情熱的に生きる心のあり方を指すのもだと言います。
理想を失う時に人は老いるのであり、希望ある限り若く失望とともに老いるそうです。

最初に述べたように、人は年を取るにつれ様々な制約(時間、健康、お金等の)が生じ、希望や理想を抱けない状態になるはずであるのに、ウルマンは老いても希望をもつことを謳います。
よく考えてみれば、主婦で時間がなくても台所で小説を書いて成功した女性作家も居れば、片腕がなくてもプロゴルファーになった人も居れば、超貧乏な家庭から億万長者に成った人も多く居ます。
年齢的な老いによる状況変化と失望の間の結び付きに必然性はなく、それは単なる個人の心的傾向(恣意的な連想)にすぎないことが分かります。
年を取って「俺にはもう希望がない」と言う老人は、「俺は貧乏育ちで希望を持つためのリソースが無いから何もしない」と言う若いニートと、同類な訳です。
それは年齢の問題ではなく、当に心のあり方です。

勿論、人間の生き方は人それぞれです。
死ぬまで青春を謳歌し続けること(未来を追い続けること)も、過去の記憶に浸りながらゆっくり余生を過ごすことも、等価であり、そこに優劣はありません。
しかし、心穏やかに過去の記憶に浸れる人は、充分に素晴らしい青春を送った人に限られます。
ロッキングチェアにもたれパイプを燻らせながら、遠い日を懐かしむような贅沢な時間を得られる人が、一体どれほどいるでしょうか?
多くの人にとっての過去は、上手くいかなかった人生の、後悔や恨みや羞恥などに苛まれるネガティブなものであり、追憶はむしろ苦しみの源泉となってしまいます。
ですから、ウルマンのような生き方(一生青春)は決して特別な人(意識高い系)の為のものではなく、むしろ普通の人にとっての選択肢であるように、私には思われます。

サミュエル・ウルマン『青春(YOUTH)』

青春とは、人生の一期間ではなく、心の状態のことをいう。
バラ色の頬、紅い唇、しなやかな手足ではなく、強い意志、豊かな想像力、燃える情熱であり、人生の深い泉の瑞々しさのことなのだ。

青春とは、臆病よりも勇気、安心よりも冒険心が優位であることを意味する。
それは、20歳の青年よりも60歳の老人にあることも多い。
人は、単に年を重ねただけでは老いない。
理想を捨てた時、はじめて老いる。

歳月は皮膚にしわを刻み、失う情熱は心にしわを刻む。
悩みや恐れや自己不信は心をへし折り、精神は塵へと帰す。

60歳であろうと16歳であろうと、人間の心には、驚異に対する魅了、子供のように尽きない好奇心、生を興じる歓びが、宿っている。
あなたにも私にも心のうちに見えない受信機があり、人々や無限の存在から送られる、美や希望や喜びや勇気や力のメッセージを受け取る限り、あなたは若い。

アンテナを降ろし、あなたの心が冷笑主義の雪と悲観主義の氷に覆われるなら、20歳であろうと老いる。
しかし、アンテナを上げ、楽観主義の波を受信する限り、死を迎える歳であっても若くあることができる。

おわり