(2)のつづき
※見出しは、部・章・節・項・以下数字(1-1-1)の構成にしています。
第一部、超越論的原理論 第二章、超越論的論理学
第一節、超越論的分析論
二項、原則の分析論
人間の高次の認識能力の区分は、知性、判断力、理性の三つであり、一般的な論理学の区分もこれに対応するように、(一般論理学の分析論は)概念論、判断論、推理論の三つによって構築されています。
しかし、超越論的論理学は、アプリオリで純粋な認識という領域のみに限定されたものであるため、一般論理学とまったく同じ区分とはなりません。
理性の超越論的使用は、客観的に妥当なものとはならず、それは真理の為の論理学(つまり分析論)ではなく、仮象の論理学であり、それについては第二節の「超越論的弁証論」において考察します。
それに対し、知性と判断力は、超越論的分析論(真理の論理学)の対象となるものであり、その分析から客観的なカノン(規準)が導かれます。
(一項の「概念の分析論」では知性のカノンを導出しましたが、本項の)「原則の分析論」では判断力のカノンを考察します。
[超越論的な感性論および超越論的な概念の分析論で、人間の認識は現象界に限られたものであり、その外は認識不可能であることが力説されました。しかし、現象界・感性界の外にある世界(叡智界)は、認識はできずとも、理性的な推理によって思考することはできます。理性の超越論的な使用とは、現象界の外のもの(例えば神)について思考し語るものであり、それは客観的妥当性が保証されず、真理ではなくあくまで仮象であり続けます。先に述べたように「超越論的弁証論」は、理性的な推理によって生じる超越論的仮象ひいては伝統的な形而上学を批判するものです。
「超越論的論理学の分析論と弁証論という区分について」]
0、超越論的判断力一般について
知性は規則の能力であり、判断力はその規則の下に対象を包摂する能力です。
或る対象が、与えられた規則の事例であるかどうかを判別するのが、判断力です。
[対象が概念カテゴリーのどこに位置付けられるかを判断する作業。つまりカテゴリーの適用能力。]
規則は教育的に学ぶことができるため、知性を向上させることは誰でも可能ですが、判断力は教育的に学ぶことができず、個人の資質と(その補助として)具体的事例を通した訓練によって身に付けるしかありません。
医者が病理学を、裁判官が法学を、つまり規則を抽象的によく理解していたとしても、個々の事例が具体的にいかなる規則の下に位置付けられるかを判断できるかどうかは分かりません(知性において優秀でも判断力において愚鈍であれば、良い医者にも良い裁判官にも成れない)。
生得的な判断力が低い場合、実例の経験を積むことによって判断力を磨くことは可能ですが、実例に拠る判断は定式化・習慣化をひき起こし、むしろ知性の規則への正しい包摂を妨げてしまうという短所があります。
いわば実例は、判断力の低い人が用いる補助輪のようなものです。
このように、一般の論理学は(才能と実例に任せ)判断力に対し何の規則も与えませんが、超越論的論理学は判断力に一定の規則を与え、正しさと安全性を保証しようとするものです。
つまり、知性の規則が適用されるケースをアプリオリに示す(判断の規則を)与えるものです。
判断力の超越論的理説は、二つの主題で構成されます。
第一に、純粋知性概念を用いる際の感性の条件を扱う「純粋知性の図式論」。
第二に、アプリオリな総合判断における純粋知性の原則を扱う「純粋知性の原則論」。
1、純粋知性概念の図式機能について
ある対象をひとつの概念の下に包摂する時、対象の表象はその概念と同種のものでなければなりません。
例えば、経験的直観によって得られた「お皿」の表象は、純粋な幾何学的概念である「円」と同種性をもつため、「円い皿(この皿は円い、という判断)」というように、皿は円という純粋な概念において直観されます。
しかし、純粋知性概念は、経験的直観(感性的直観)とは全く異質のものであり、このような同種性によって直観を純粋な概念の下に包摂させるということが、いかにして可能なのかという問題が生じます。
つまり、カテゴリーはいかにして直観に適用されるか、という問いです。
例えば、因果性というカテゴリーは、どう考えても感覚的直観の内や現象の中に見出すことはできない、異質なものです。
この問いの解答のために、判断力の超越論的理説が必要なのです。
異質なものを繋ぐためには、媒介となる第三の要素が必要です。
その第三のものは、カテゴリーとも現象とも同種性をもち、知性的なものであると同時に感性的なものであり、しかも純粋なもの(経験的なものを含まない)でなければなりません。
このような媒介を「超越論的図式」と名付けます。
具体的に言えば、それは時間によるものです(詳細は後述)。
時間は、内的感覚におけるすべての多様なもの(表象)を結び付ける形式的条件であり、あらゆる経験的表象に常に含まれるもので、現象との同種性をもっています。
それでいて、時間は普遍的で、アプリオリな規則に基づくという点で、カテゴリーとの同種性をもっています(先に述べたように、カテゴリーが時間の統一性をもたらす)。
このような超越論的な時間規定が媒介となることによって、カテゴリーを現象に適用することが可能となります。
つまり、超越論的な時間規定が知性概念の図式となり、現象(対象)をカテゴリー(純粋概念)の下に包摂する媒介になります。
[時間は感性的な受動性の形式であり、規定は知性的な自発性の働きによるものであり、超越論的な図式が単に「時間」ではなく「時間規定」と呼ばれるのは、それが感性と知性の間(媒介)にあるものだからです。]
「図式(Schema)」と「形象(Bild)」は、共に想像力(構想力)の産物ですが、明確に区別する必要があります。
例えば、「五」という数を形象によってとらえるなら、”・・・・・”というように五つの点を並べればよいだけですが、「百」や「千」の数となると、形象そのものとして思い描くことは困難であり、ある特定の概念に従った形象(量の概念における百や千の形象)において思い浮かべるしかありません。
このような、概念に形象をもたらす想像力の一般的な”仕方”の表象を、その概念の「図式」と呼びます。
感性的概念の基盤となるのは、形象ではなく図式です。
形象は概念のもつ普遍性に達することはできず、ごく一部の領域に制限されたものです。
例えば、どのような三角形の形象も、三角形一般の概念としてふさわしいものはなく、図式に拠ってしか普遍的な三角形は得られません。
三角形の「図式」とは、思考の中にのみ存在する、空間における(三角形という)形態についての「想像力の総合の規則」なのです。
経験の対象についての形象がその対象についての経験的概念に直接関係付けられることはありません。
経験的概念は、「直観を一般的な概念に従って規定する規則としての”想像力の図式”」と関係を持つだけです。
例えば、「犬」という経験的な概念は、ある四足動物の形態を一般的に描き出すための規則(図式)を意味しています。
この規則は、経験が与える或る特殊(個別)な形態にも、具体的に思い描くことの可能ないかなる形象にも制限されることのないものです。
知性の図式機能は、人間の精神の奥の秘術であり、その全容を明らかにするのは困難です。
言えることは、「形象」が産出的想像力の経験的能力の産物であるのに対し、感性的な概念の「図式」はアプリオリで純粋な想像力の産物(いわばモノグラム-略図-)だということです。
[先述の通り、「再生的想像力」は経験的に得られた連合(連想)の規則に基づく再生的な表象を生み出すものであり、「産出的想像力」は獲得された諸表象という素材を純粋知性概念に適合する形で自発的に工作(形象的総合)し産出的に形象を生み出すものです。さらにここでアプリオリな「純粋想像力」というものが登場し、それが感性的概念の図式を描きだすことが述べられます。例えば、三角形一般である三角形の図式は、経験的に獲得された三角形の諸表象からではなく、アプリオリ(先天的)かつ自発的に内側から(純粋想像力によって)産出されるものです。形象が”産出的想像力の経験的能力”の産物であるのに対し、図式は”産出的想像力のアプリオリな能力”の産物であると考えられます(つまり純粋想像力=産出的想像力のアプリオリ面)。]
この略図(図式)に従うことで形象が可能となります。
形象は図式を介してのみ概念と結び付けられるだけであり、形象が概念と直結(一致)することはありません。
これ(犬や三角形のような感性的概念の図式)に対し、知性概念の図式は形象(イメージ)化によってとらえられるようなものではなく、統一の規則に従う純粋な総合としてあるだけです。
[感性的概念において、形象は図式の一般的特徴を分有し形象的に表示しています。例えば、「三角形」の形象は三角形の図式(一般的三角形)と一致しないまでもその特性を表示していますが、知性的概念である「因果性」は形象の中のどこにおいても形象的に表示されることはありません。知性概念は”形象(イメージ)”によってではなく、総合に際しての”形式”としてとらえるしかありません。]
以下、純粋知性概念(カテゴリー)の図式です。
・量(単一性/数多性/全体性)の図式…外的感覚がとらえる「量(quantum-外延的な量-)」の純粋な形象は空間ですが、(内的感覚を含む)感覚一般がとらえる対象の純粋な形象は時間です。知性概念としての「量(quantitas-数的な量-)」の純粋な図式は数です。数とは一と(同種的な)一を次々と加えていくという表象です。つまり数とは同種的な直観の多様の総合の統一です。この統一は、直観の感覚把握において時間そのものを産出することによりもたらされます。
[経験的直観における多様なものの結合が感覚把握の総合ですが、対象(表象)を継続的に総合(同種的な直観の多様の総合)することは、同時に時間の生成を意味します。]
・質(実在性/否定性/制限性)の図式…実在性は感覚内容一般に対応するもので(つまり何か-一般-が感覚されている状態)、存在(時間における)を指し示す概念です。それに対し否定性は非存在(時間における)を指し示す概念です。実在性は充実した時間を、否定性は空虚な時間を示します。感覚内容は度(内包量)や量(外延量)をもつため、実在性と否定性の間には移行的なつながりがあります。同一の時間、つまり対象の同一の表象において存在の感覚が無の感覚へと移行するプロセスです。
実在性(質)の図式とは、時間を充たすかぎりでの在るものの量の連続的推移(生成-否定性から実在性-、消滅-実在性から否定性-)です。
・関係(実体性/原因性/相互性)の図式…実体性の図式は、実在的なものの時間における持続性(つまり経験的な時間規定一般の基体の表象)です。時間は過ぎ去ることはなく、この不変の持続性である時間に対応する持続的な現象が”実体”であり、過ぎ去るのは変化するものだけです。実体という基体(不変の軸)があるからこそ、時間の継起性や同時性が成り立ちます。原因性(因果性)の図式は、規則に従う多様なものの継起です。ある実在的なものが任意に措定されると、常に他の実在的なものが続いて生じることです。相互性の図式は、複数の実体が各々の偶有性(実体に付属するもの)に関し相互作用的因果性(互いが互いの原因となる)をもつ、一般的規則に従う同時的共存です(実体Aが実体Bの偶有性bの原因となり、且つ、実体Bが実体Aの偶有性aの原因となる状態)。以上、順に持続、継起、同時という時間のあり方です。
・様態(可能性/現実性/必然性)の図式…可能性の図式は、様々な諸表象の総合と時間一般の条件との一致です(諸表象の総合が時間の秩序と矛盾せず時間形式上に位置付け可能である状態)。これは、或る(不定の)時間における或るものの表象の規定です。現実性の図式は、特定の時間における現実存在を示すものです。これは、この(特定の)時間におけるこの表象の規定です。必然性の図式は、全時間における現実存在を示すものです。これは、いつでも(全時間)そう在る(現実存在)表象の規定です(必然性とは、いつでも普遍的に生じる総合)。
以上のように、どのカテゴリーの図式も時間の規定に拠るものです。
量の図式は、対象の継続的な感覚把握における時間そのものの生成(総合)を表すものです。
質の図式は、感覚内容(知覚されたもの)と時間の表象との総合(時間を充たすか否か)を表すものです。
関係の図式は、時間において知覚相互がどのような(時間規定に従う)関係にあるかを表すものです。
様態の図式は、対象が時間に属するか否か、属するのであればどのように属するか、を表すものです。
つまり、図式とは、時間が規則に基づきアプリオリに規定されたもの(アプリオリな時間規定)です。
この時間規定は、全ての可能な対象に関する、時間系列(量)、時間内容(質)、時間秩序(関係)、時間総括(様態)、に関わるものです。
想像力の超越論的総合によって働く知性の図式機能は、内的感覚における直観の多様を統一することであり、それは内的感覚に対応する機能である統覚の統一にほかなりません。
純粋知性概念の図式は、客体に意味を与える唯一の条件なのです。
カテゴリーは、アプリオリで必然的な統一という根拠により、諸現象を総合の一般的規則に従わせ、現象をひとつの経験において首尾一貫的に結び付けるものです。
それは、根源的統覚におけるあらゆる意識の必然的合一のために為されるといえます。
[感性的直観と純粋知性概念を媒介するのが、想像力(産出的想像力)による図式です。これによって得られる統一は、客体と同時に主体の統一性を同時に成立させるものです。]
すべての可能な経験の限界の中に、私たちのすべての認識が在ります。
経験的な真理に先立ちそれを可能とする「超越論的真理」は、すべての可能な経験との一般(普遍)的な関係において成立します。
[超越論的真理とは、真偽そのものを成立させる真理認識のアプリオリな可能性の条件を指すものです。真偽を伴う経験的真理は、先行するこの超越論的真理(真理認識の条件)に合致することでその真理性(客観的妥当性)を獲得します。私のある認識がすべての可能な経験界と一般的な関係をもつ時、その客観性が保証され、反対にすべての可能な経験界と一般的な関係をもたない時(つまり可能な経験界から逸脱する矛盾を生じさせる認識)、虚偽であることが証示されます(いわば超越論的に偽)。認識は必ず可能的経験限界内にある→経験可能性の限界は超越論的論理学で示した規準の中にある→そこから外れる(矛盾する)ということは実在不可能な虚偽の認識である、ということです。]
感性の図式はカテゴリーを(上述のような時間規定に則し)実在化すると同時に、そのような感性的な制約によってカテゴリーを制限します。
したがって、図式はあくまで現象であり、カテゴリーに合致する対象の感性的な概念にすぎません。
例えば、「数」は現象的な量であり、「感覚」は現象的な実在性であり、「物の持続(不変)」は現象的な実体であり、「永遠性」は現象的な必然性である、等々。
このような制約を解除したとすれば、制限のない純粋なカテゴリーはあるがままの物一般にまで妥当するものとなり、図式に縛られないはるかに拡張された意味をもつことになるように思われます。
しかし、このような無制限のカテゴリーには、いかなる対象も与えられず、いかなる意味(客体の概念)ももたないものとなってしまいます。
カテゴリーに意味をもたらすのは、知性に制限を加え、知性を実在化する、感性なのです。
2、純粋知性のすべての原則の体系
ここまで、純粋知性概念を総合的判断に用いる際の一般的条件としての超越論的判断力を考察しました。
[知性は規則の能力、判断力はその規則の下に対象を包摂する能力です。]
次いで為すことは、実際のアプリオリな判断の成立を、体系的結びつきにおいて記述することです。
そのためには、カテゴリーと感性一般の関係(感性に対するカテゴリーの適用)から、純粋知性の使用の諸原則を取り出し、体系的に表す必要があります。
純粋知性の諸原則の考察に先立ち、先ずは分析判断の原則を考察し、本来の主題である総合判断固有の特性を対照的に浮かび上がらせます。
2-1、すべての分析判断の最高原則について
認識における判断の一般(普遍)的条件は、自己矛盾を含まないということです。
矛盾があれば、客体云々以前に判断自体が無意味なものとなります。
しかし、判断が自己矛盾を含まないとしても、判断における概念の結合が対象にそぐわないような形でなされる場合もあれば、判断の正しさの根拠がアプリオリ(先天的)にもアポステリオリ(後天的)にも与えられない場合もあります。
判断に矛盾が無かったとしても、偽も場合もあれば、無根拠の場合もある、消極的な条件だということです。
「いかなる物にも、それと矛盾する述語を付けることはできない」という命題が、矛盾律(無矛盾律)です。
これは論理学(一般/純粋論理学)に属する、消極的な真理の一般的基準であり、その述べるところは、矛盾は認識を破壊し無化する、ということです。
しかし、矛盾律は誤謬の排除という消極的な使用だけでなく、分析判断の際は、真理認識の為に積極的に用いることも可能です。
判断が分析的である場合、その真理性は、つねに矛盾律によって十分認識できるのです。
分析判断においては、客体の認識がすでに概念として存在しており、その概念は必然的に矛盾律によって肯定されているからです。
[先に述べたように、分析(分割)は総合と異なり、対象の認識に関わるものではなく、概念内にあるものを論理的に展開するだけであり、論理の一般的規則である矛盾律から外れることは絶対にありません。]
矛盾律は、すべての分析判断(分析的認識)の普遍的で十分な原理、真理の基準です。
しかし、矛盾律は認識が真理であるための”不可欠な条件”であるにすぎず、(総合判断含む全ての)認識の真理の根拠となるようなものではありません。
認識の総合的部門においては、この原則に背かないよう配慮する、程度の消極的なものとなります。
矛盾律は形式的で無内容なものですが(一般/純粋論理学=形式論理学は、一切の内容を捨象するもの)、不注意によって、総合的な時間的契機(内容に関わるもの)を含んだ命題として不適切に表現されるということが生じています。
それは「Aは、Bであると同時に非Bであることはできない」というものです。
時間的な前後によって、Bと非Bは両立するため、「同時に」という時間的な制約が必要です。
例えば、若年(B)と年寄(非B)という矛盾する述語は、時間経過によって両立することができてしまうため、「Aさんは、若年であると”同時に”年寄であることはできない」としなければなりません。
しかし、矛盾律は論理的な原則であるため、時間的な制約に関わってはならないはずです。
したがって、この伝統的な矛盾律の命題は、矛盾律の本意からして不適切なものであるということです。
先に矛盾律の表現を、より分析的命題の本性に沿うよう変更したのは、そういう理由です。
[アリストテレス以後の伝統的な矛盾律の記述には、「同時に」という時間的要素が含まれてしまっているため、より純粋な分析的(論理的)原理としての矛盾律の記述として(形式論理学は分析の作業)、カントは「いかなる物にも、それと矛盾する述語を付ける(帰属させる)ことはできない」と、刷新しています。]
2-2、すべての総合判断の最高原則について
一般/純粋論理学(形式論理学は分析判断のみに関わる)は、総合判断の可能性を説明することはできません。
総合判断の可能性は超越論的論理学によって説明され、アプリオリな総合判断の可能性の条件と範囲が確定されます。
知性の限界の確定は、当に超越論的論理学の目的です。
分析判断は、与えられた概念のうちに留まることができます。
肯定(判断)であれば、この概念(主語)の内に既に考えれているものを(述語として)加えるだけでよく、否定(判断)であれば、概念(主語)に反するもの(述語)を排除するだけです。
それに対し、総合判断は、与えられた概念の外に出て、この概念(主語)の内では考えられていない異なる何か(述語)を、関係付けなければなりません。
総合判断における主語と述語関係は、(分析判断のように)同一性の関係でも矛盾の関係でもないため、判断そものから真理か誤謬かを確認することはできません。
所与の概念と別の概念を比較するためには、その概念を超え出た第三のものが媒介として必要であり、そこにおいて二つの概念の総合が成立します。
その第三のものとは、心の中のすべての表象を含み総括する内的感覚、およびそのアプリオリな形式である時間です。
表象の総合は想像力に基き、(判断の為に必要な)表象の総合的統一(総合の統一)は統覚の統一に基きます。
これら三つの表象の源泉(内的感覚の形式、想像力の総合、統覚の統一)に、総合判断の可能性があります。
表象の総合による統一的な対象認識(総合判断)成立は、必然的にこの三つの要素が基礎となっています。
判断(認識)が客観的実在性をもつには(三つの要素が揃えばいいというだけでなく)、直観に対象が与えられていなければなりません。
そうでなければ、それは空虚な概念および認識であり、単なる思考による表象遊びにすぎません。
経験的なものを含まないアプリオリ(先天的)な空間と時間の概念さえ、経験の対象においてその適用が示されないとしたら、客観的妥当性も、いかなる意味も意義ももつことはできません。
これは他のすべての概念についても同じです。
また、経験は現象の総合の統一(諸現象が対象の概念にしたがい総合されること)によって成り立ちます。
この総合がなければ、経験は認識となることはなく、単なる知覚の寄せ集めになってしまいます。
[「対象(直観)なき概念は空虚、概念なき対象(直観)は盲目(寄せ集めの渾沌)」ということです。客観的な経験判断と主観的な知覚判断(知覚の寄せ集め)の違いについては、純粋知性概念、即ちカテゴリーについての註において既に述べました。]
アプリオリな総合命題は、対象と関係を持つことにおいてのみ、その客観的実在性を示すことができます。
以上のように、経験的認識の為に必要な三つの条件は、直観の形式である時間(対象の現れである現象の直観を伴う)、想像力の総合、統覚の統一、です。
したがって、すべての総合判断の最高原則は、次のようなものとなります。
「あらゆる対象は、可能な経験における直観の多様の総合的統一という必然的条件に従う」
経験一般が可能となるための条件は、同時に、経験の対象を可能にするための条件であるということです。
それゆえに、この条件が、アプリオリな総合判断において、客観的妥当性を保証するのです。
[ここで述べられていることは、図式論の結論のつづきです。認識(判断)の客観的妥当性は可能な経験界と一般的関係をもつとき保証される→経験の可能性の条件がアプリオリな総合判断の原則→経験の可能性の条件とは、対象の現れである現象の直観の多様+それの内的感覚形式(時間)による把捉+それの想像力による総合+それの統覚による統一→この認識の仕組み自体が、対象の認識(総合判断)が必ず従うべき原則→この原則に従う認識(判断)のみが客観的妥当性を保証される→認識される客観的なあらゆる対象の可能性の条件は、即ち認識主観の経験可能性条件である。]
2-3、純粋知性のすべての総合的原則の体系的な提示
純粋知性は、あるものが生じるための規則を定める(主観の)能力であると同時に、対象として現れうるものすべてが従う必然的規則となる(客観の)原則でもあります。
客体の従う自然法則は、経験的な原則より高次の純粋知性の原則を現象個別の事例に適用したものにすぎず、その必然性は経験に先立つアプリオリな根拠(純粋知性)によって規定されています。
経験的な原則と純粋知性の原則は、(概念によって生じる)必然性の有無によって見分けられます。
いかに一般(普遍)的にあてはまるような経験的命題であっても、概念による確実な必然性をもつことはありません。
しかし、アプリオリで純粋な原則であっても、純粋知性(純粋概念)からではなく純粋直観から引き出される数学のような原則(純粋知性を基礎にするにせよ)もあります。
数学の原則は純粋知性の原則には入りません。
勿論、数学的原則の可能性と客観的妥当性の基礎となる原則、即ち数学的原則の原理となっている原則は、純粋知性の原則に入るものです。
純粋知性概念(カテゴリー)が可能な経験において適用される際、その総合(判断)は、直観に向けられる数学的なものか、現象一般の存在に向けられる力学的なものかのどちらかです。
[先に述べたように、量と質のカテゴリーは、直観の対象に関わる数学的なもので、関係と様相のカテゴリーは、対象の存在の関係に関わる力学的なものです。]
可能的経験において、直観のアプリオリな条件は必然的なものですが、直観の客体である対象の存在の条件は(それ自体では)偶然的なものです。
数学的に用いられる原則は直接的な必然性をもっているのに対し、力学的に用いられる原則は間接的な必然性しかもっていません(経験における経験的な思考の条件下においてのみ必然的)。
原則はカテゴリーを客観的に用いる規則であり、原則表は以下のように、カテゴリー表に対応するものとなります。
一、直観の公理⇒量(単一性/数多性/全体性)のカテゴリーに対応
二、知覚の先取り⇒質(実在性/否定性/制限性)のカテゴリーに対応
三、経験の類推⇒関係(実体性/原因性/相互性)のカテゴリーに対応
四、経験的思考一般の要請⇒様態(可能性/現実性/必然性)のカテゴリーに対応
一と二の原則は直観的な確実性をもつのにたいし、三と四の原則は論証的確実性しかもちません。
前者を数学的原則、後者を力学的原則と呼びます。
[この総合の原則には、次のような違いがあります。直接引用します。
“結合はすべて合成かつながりかどちらかである。結合は互いに必然的に属しあわない多様なものの総合である。たとえば正方形が対角線によって分けられてできる二つの三角形がそれであり、これらの三角形はそれ自体のために互いに必然的に属しあってはいない。これらは数学的に考察されうるすべてのものにおける同質なものの総合である(この総合はさらに集合と連立という総合に分けられ、これらの集合は外延量に向けられ、連立は内包量に向けられる)。第二の結合は、互いに必然的に属しあってるかぎりにおける多様なものの総合である たとえば、偶有性が何らかの実体に属したり、あるいは結果が原因に属する場合がそうである。したがって異種なものとしてではあれ、アプリオリに結合したものとして思い浮かべられる総合である。このような結合は恣意的でないがゆえに、それを私は力学的と呼ぶ。というのは、それは多様なものの現実存在の結合にかかわるからである(この結合はさらに、現象間の物理的結合とアプリオリな認識能力における現象の形而上学的結合に分けることができる)。~石川文康訳”]
2-3-1、直観の公理
それは「すべての直観は外延量である」という原理です。
あらゆる現象は形式的に見れば、その根底にアプリオリに、空間と時間における直観を含んでいます。
ですから、現象が把握されるためには、多様なものの総合が必要です。
一定の時間あるいは空間の表象は、同質なものの多様の総合的統一の意識によって生み出されるからです。
直観一般におけるこの同質的多様の意識によって、はじめて客体の表象が可能となるのであり、この意識が「量(外延量)」の概念です。
客体の現象としての知覚は、感性的直観の多様の総合的統一によって可能であり、量の概念においてその統一は”同質な多様の合成的統一”となります。
つまり、現象が時間あるいは空間における直観である限り、時間・空間一般を規定する同じ総合に従わなければならないため、すべての現象は量(外延量)としてあるということです。
ここで述べる外延量とは、部分の表象の集まりが全体の表象を可能にする(部分が全体に先行する)ものです。
空間における直線は、頭の中で徐々に描く(部分をつなげる)ことによって(全体の)線としてとらえることが可能となります。
時間においても同様、瞬間の継続的な追加によって一定の長さの時間量が生じます。
現象は必ず空間か時間かのどちらかの直観として現れるため、現象はすべて外延量としてあります。
あらゆる現象は、感覚把握における継続的な部分の総合による外延量(部分の集積としての全体)として、認識されます。
勿論、これは外延的に思い描かれる量(外延量、単位量)に当てはまるもので、他の種類の量(内包量、数量)は別です。
延長的な数学(幾何学)は、このような産出的想像力による継続的総合に基く学です。
その公理は、アプリオリな感性的直観の条件を表現するものであり、外的現象の純粋概念の図式はこの条件の下で成立します。
(幾何学の)公理は、外延量としての量のみに関わるものです。
2-3-2、知覚の先取り
それは「すべての現象において、感覚の対象である実在的なものは内包量、即ち度(強度)をもつ」という原理です。
知覚の対象である現象は、空間や時間のような純粋な直観ではなく、感覚内容を含む経験的なものです(時間と空間はそれ自体としては知覚できません)。
現象は直観の外から得られた客観の質料(素材)のようなものを含んでおり、これにより時間あるいは空間中に存在するものが表象可能となります。
この感覚における実在としての主観的表象があるがゆえに、主観は触発されたことを意識し得、この表象を客観一般に関係付けます。
経験的な意識から純粋な意識までの間には段階的変化があるため、この経験的意識の実在的なもの(感覚内容)が減滅していけば、最終的には空間・時間におけるアプリオリな形式的意識のみが残ります。
感覚内容の量の総合は、感覚ゼロである純粋直観から任意の感覚量まで段階的に至ることが可能です。
感覚自体は主観的であり、客観的表象ではなく、そのうちに空間と時間の直観は見出されないため、感覚の量は外延的な量ではありえず、内包的な量となります。
知覚に感覚が含まれる限り、知覚のすべての客体は内包量を有し、それが感覚への影響力の度(強度)を示すものとなります。
エピクロスが「プロレープシス(先取)」という概念で考えていたような、経験的認識におけるアプリオリに規定できるような認識を、「先取的認識」と呼ぶことができるでしょう。
それに対し、現象には先取的にはとらえられない要素(知覚の質料としての感覚内容)が含まれ、それが経験的認識とアプリオリな認識の違いを生じさせます。
時間と空間における純粋な規定(限定)は先取的認識と呼べますが、感覚(内容)については先取り不可能です。
しかし、感覚内容一般(すべての個別の感覚内容が普遍的にもつ一般的内容)として、アプリオリに認識できるものがあるとすれば、それは例外的に先取的認識と呼ぶに値するでしょう。
[個々の感覚(内容)の大部分は先取り不可能ですが、一部、先取的な一般的要素を含んでいる、ということです。]
感覚把握は一瞬のものであり、部分の継起的総合によって全体を作る外延的なものではありません。
その瞬間において、或る感覚内容が在る(実在性)か、無いか(否定性=ゼロ)の問題です。
しかし、この感覚内容は、実在性と否定性の間の無数の可能な連続的状態(グラデーション)を有し、感覚には減少というものが生じます。
つまり、現象における実在的なものは、外延量とは異なる別種の量を有しています。
このような、単一性としてのみ把握され、否定性(ゼロ)に近付くことによってのみ、数多性が表わされるような量を「内包量」と呼びます。
現象におけるあらゆる実在性には内包量、即ち「度(強度)」があるのです。
[例えば、痛みの感覚は外延量を持たず、ただ単一の強度としてとらえられます。その後、或る強度の痛みが減じていく際にそれが段階的に総合されることによって、はじめて痛みの感覚は数多性をもちます。]
すべての感覚内容、つまり現象におけるあらゆる実在性は度をもち、それは減少可能な内包量としてあります。
実在性と否定性(強度ゼロ)の間で、可能な実在性の連続的な段階を形成しています。
些細な感覚(内容)にも必ず度があり、いかに度が小のもの(例えば非常に薄い赤)であっても、最小になることはありません。
量の特性は連続性であり、最小のもの(それ以上分割不可能な単純なもの)というものはありません。
(形式ではなく認識としての)空間と時間も連続量であり、二つの極(二つの点あるいは二つの瞬間)を区切った間の部分においてしか与えられません。
点も瞬間も単なる限界、つまり空間や時間を限定する位置にすぎず、この位置は、常に空間や時間を限定する直観を前提とします。
このような連続量は、「流れる量」と呼べるでしょう。
時間の連続性において流れるように(産出的想像力により)総合されることによって、生み出される量だからです。
したがって、すべての現象は連続量であり、直観に関しては外延量としての連続量、単なる知覚(感覚内容の実在性)に関しては内包量としての連続量です。
産出的想像力による現象の多様の総合が中断・分断されると(流れ=連続性の消失)、「量」としての現象ではなくなり、多くの現象の「集合」になります。
このような集合は、継続的な総合ではなく、途切れた総合を繰り返すことによって生まれるものです。
例えば、銀で作られた貨幣(当時のターラー銀貨は約30g)が13枚あった場合、銀の容量として見れば「量(銀390gという連続量)」ですが、貨幣として見れば13枚の貨幣の集合(単位の集合)であり、それは「量」とは言えず、単位を基礎とする「数」です。
すべての現象が外延的にも内包的にも連続的であるならば、「すべての変化は連続的なものである」という命題は数学的明証性をもちます。
[原著第二版213頁は、正確な読解ができないため(かつ重要な部分ではないため)飛ばします。]
知覚されるすべての実在性は度をもち、いかなる感覚にも(度と否定性-ゼロ-の間に位置付けられる)一定の度が与えられています。
したがって、現象における実在性の欠如など知覚的にも経験的にもありえず、空虚な空間や空虚な時間などの存在を経験的に証明することはできません。
実在の欠如そのものを知覚することはできず、また、欠如を想定すると現象の説明がつかなくなります。
時間と空間の直観のうちに空虚はなく、それは空虚(ゼロ)に至るまでの無限段階の異なる度(内包量)によって充たされています。
直観された現象の外延量が変わらなくとも、内包量(度)はより大きくなることもより小さくなることも可能です。
例えば、同一の体積(外延量)で異なる量(重量および抵抗のモメントによる)の物質がある場合、自然科学者は物質の体積の内に「空虚」を導入することによって、この量の相異を説明します。
[“モメント(物理学):ある点を中心として運動を起こす能力の大きさを表す物理量。力のモーメント、磁気モーメントなど。~大辞泉”
カントの場合のモメントとは、”実在を原因と見なすならば(それは感覚の原因であるか、現象における別の実在性の原因、たとえば変化の原因である)、原因としての実在性の強度は、モメントと呼ぶことができる。~中山元訳”]
自然科学者は、形而上学を否定するふりをしながら、形而上学を前提にしています。
彼らは、空間における実在的なものは、どこでも一様に同じであり、外延的な集合量によってのみ相異(空虚に対する実在の集合の数量的大きさによる相違)が生じると想定しています。
経験によってこのような想定の根拠を示すことはできず、形而上学的なものにすぎません。
自然の解明のために何らかの仮説が必要であるとしても、それが必然的にこのような想定(一様な実在と空虚)であるという誤った思い込み(形而上学的証明)とは異なる仕方でこの相異を説明するために、私は超越論的な証明を用います。
感覚内容の性質(例えば色や味)は常に経験的(後天的)なものですが、感覚内容一般に対応する実在的なものはアプリオリ(先天的)に何かを示すものです。
現象の外延量を捨象しても、ある瞬間における感覚内容だけによって、ゼロからそこで与えられた度まで徐々に増加する総合を思い浮かべることができます。
例えば、或る明るさに照らされた面を見た時、その明るさより弱い明るさで照らされた面の総合として感じることができます。
全ての感覚内容はアポステリオリ(後天的)にしか与えられないにもかかわらず、そこに含まれる度という特性はアプリオリに与えられており、量一般の性質(つまり連続性)だけはアプリオリに認識されます。
裏を返せば、現象における実在性である「度(内包量)」以外の感覚内容の性質は、経験的(後天的)にしか得られません。
[簡単にまとめます。現象(感覚内容)における実在性とは「度(内包量)」であり、度はゼロ(感覚の欠如)に至るまでの連続性ではかられる量的性質を持っています。例えば、光度100の明るさを感覚した際、99.98.97.96…0と連続的に減少する可能な明るさが了解されます。これは、単位(断続された連続性)の総合によって得られる空間的性質の外延量とは異なる了解の仕方であり、時間の連続性に基礎づけられた「流れる量」です。感覚内容の構成の大部分は先取り不可能な経験的なものですが、度という一般的要素が先行(先取り)的に含まれているため、知覚の先取といわれています。]
2-3-3、経験の類推
それは「経験は知覚の必然的結合の表象によってのみ可能になる」という原理です。
経験とは、知覚の総合によって客体を規定する経験的認識のことです。
知覚された多様の総合的統一は主体の意識の側にあり、それ(統一)が経験(客体の認識)の本質となっています。
知覚は偶然的に集まるものであり、感覚把握はその偶然的に与えられた直観の多様を単に合成するにすぎず、知覚の結びつきの必然性は、知覚自体(あるいは感覚把握)に求めることはできません。
多様なものの結びつきの関係は、時間の中での客観的存在としてのみ思い描かれるため、アプリオリな時間一般の規定によってのみ、その結合の必然性が保証されます。
経験は、知覚の必然的結合(つまり時間一般における結合)によってのみ可能となるのです。
[知覚された直観の多様を内容とし、それを客体(対象)に統一的に関係付ける認識が、経験(経験的認識)です。これは主体の側にある時間という形式の下に多様を統一することを基盤としており、経験における知覚の結合の必然性はこのフォーマットに依拠しています。]
時間には、持続、継起、同時存在、の三つの様態があり、現象が時間において示す関係はこの(経験を可能にする先天的な)規則に従い、統一的に規定されます。
[関係のカテゴリーである実体性/原因性/相互性に対応しています。]
すべての多様なものは、根源的統覚の超越論的統一に従う時間的関係によって結びつけられることにより、この私の認識に属する対象と成ります。
「すべての経験的な時間規定は、一般的な時間規定の規則に従わねばならない」のであり、経験の三つの類推とはこの規則のことです。
アプリオリな時間の規則の一般性に拠り、経験的な意識における諸現象の関係は必然的統一をもつことになります。
この時間様態の規則を、経験の類推と呼ぶのは、以下のような意図があります。
前の二つの原則(直観の公理、知覚の先取)は、数学を現象に適用することを可能にする数学的原則であり、それは現象が数学的総合の規則に従いどのように生み出されるかを示すものです。
量(外延量、内包量)としての現象の規定であり、それは構成的に現象を描き出すもので、数学的原則は構成的原則と呼ぶことが出来ます。
例えば、太陽の明るさの感覚の度(強度)は満月の四十万倍(14等級)であると構成的に示すことができます(アプリオリに)。
しかし、このようなアプリオリに規則に従わせる原則は、現象の感覚に関するもの(数学的原則)と、現象の現実存在に関するものとでは、まったく別のものとならねばなりません。
現象の現実存在そのものは構成することができず、現実存在に関してはその関係(現象相互の関係)しか、つまり統制的な原則しか示すことができないからです。
ある(知覚された)現実存在と他の(知覚された)現実存在が、どのように時間の様態によって、必然的に結合されているかということだけが、アプリオリに言えるのです。
ここでいう「類推」とは、量的な関係の同等性を示す数学的類推ではなく、質的な関係の類似性を示す哲学的な類推です。
数学的類推は項そのものを構成的に導出可能ですが(例えば 1:5=2:X の場合 X=10)、哲学的類推は項そのものをアプリオリに与えることはできず、諸々の項(知覚された現実存在)が従う統制的な関係のみをアプリオリに与えることができます。
経験における(哲学的な)類推とは、知覚そのものを生み出す規則ではなく、経験に統一性を与える規則であり、それは諸対象の従う原則として、構成的な妥当性ではなく、統制的な妥当性をもつものなのです。
第一(直観の公理)と第二(知覚の先取)の原理は数学的で構成的なものでしたが、第三(経験の類推)と第四(思考一般の要請)の原理は力学的で統制的なものです。
前者後者共にアプリオリな確実性をもちますが、その明証性のあり方において異なっているのです(前者は直観的明証性)。
どの原則においても言えることは(特に経験の類推)、それは超越論的な知性使用の原則ではなく、経験的な知性使用の原則であり、カテゴリーではなく、図式のもとに包摂されるものです。
これらのアプリオリな原則は、現象の認識の際に適用されるものであり、経験的認識の総合の統一の条件を示すものにすぎません。
カテゴリーは、感性的条件に制限されない一般的な総合の統一の機能をもつものであり、図式はその一般的なカテゴリーを限定(制限)し感性的条件のなかで利用可能にするものです。
原則は、カテゴリーに(図式を介し間接的に)基くと同時に、図式という媒介のもとに包摂されることにより、経験的認識(現象の総合の統一)を成立させます。
A.第一の類推、実体の持続性の原則
「現象がどれだけ変移しようと実体は持続し(不変)、実体の量は自然界において増減しない」
[「すべて現象は対象そのものとしての持続的なるもの(実体)と、それの単なる限定としての、すなわち対象の存在する仕方としての変転的なるものを包蔵している(第一版)」天野貞祐訳]
全ての現象は時間のうちにあり、同時存在も継起も、内的直観の持続的な形式である基体としての時間なしに思い描くことはできません。
時間そのものは知覚することができないため、知覚の対象(現象)において見出さなければなりません。
時間一般である基体(持続)およびそれに関係する変移と同時存在は、実体(持続)とそれに対する諸現象の関係(変移と同時)を通して、知覚されます。
実在的なものの基体は実体であり、現実に存在するすべてのものは、実体の規定(限定)としてのみ考えることができます。
持続(実体)と関係してのみ、現象は時間規定をもつことができます。
実体は恒常不変であるがゆえに、その量が増減することはありません。
[第一版では、「すべての現象は時間のうちに存在する。様々な現象は、継起するか、あるいは同時に存在するかのいずれかであり、時間はこのような形で、さまざまな現象の現実存在における関係を二重に規定することができる。継起する現象を規定するものとしての時間は時間系列として考えられ、同時に存在する現象を規定するものとしての時間は時間範囲として考えられる(中山元訳)」となっています。
また、実体の量が増減しないという記述は、単に質量保存の法則のような物理的な実体の量の不変性を示すものではなく、現象の世界を把握する際の先天的な基盤としての不変性を指すものです。現象は、実体のカテゴリーという知性概念、および時間(持続するもの)という直観形式によって成り立つものであり、実体の量の不変性(実体は生滅しない)は時間とカテゴリーの統一性を裏側から述べたものです。実体=持続的なもの=対象(諸現象が集約される基体)です。例えば、カントが赤子から大人に成る時、「カント」は実体で「赤子→大人」は偶有変化ですが、カントが土に還る時、「元素」は実体で「カント→土」は偶有変化です。実体は認識主体の側にある、現象を把握する際のフォーマットです。人間が主語(実体に当たる)と述語(偶有に当たる)でしか概念を把握できないように、実体とは、現象世界において持続的な基体として捉えられたもののことです。]
現象の多様を感覚把握しても、それは常に移り変わるものであるため、その根底に変わることなく常に存在し続ける(持続する)なにかを基礎としなければ、何も定めることはできません。
持続するものとしての実体(時間そのものの経験的表象の基体)があるがゆえに、諸々の時間規定における現象の時間様態が可能になります。
持続性は、現象のすべての存在の恒常的な相関者として時間を表すものです。
継起性も同時性も、時間のうちの現象の様態にすぎず、時間そのものに関わるものではありません(時間そのものを継起性や同時性として捉えれば矛盾が生じる)。
時間系列(時間の前後関係)の様々な部分を継続的に占める現実存在は時間的な量をもつことになりますが、この量を「持続」と呼びます。
もし、存在を継起のみで考えるなら、瞬間毎に消滅と生成を繰り返すものとなり、時間的な量(時間の長さ)をもつことはできません。
持続するものなしに時間関係は成立し得ず、現象における持続するもの(実体)は、すべての時間規定の基体であり、知覚のすべての総合的統一(つまり経験)を可能にする条件です。
時間のうちにあるすべての現実存在とすべての変化は、持続するもののひとつの様態です。
それゆえに、持続するもの(不変のもの)は、現象において対象そのもの、即ち実体となるのです。
それに対し、変化するものは実体の限定(規定)にすぎず、実体が存在するあり方に属するものです。
「世界がどのように変化しようと、実体は持続(不変)的であり、偶有性のみが移り変わる」という、古くからの命題は、最も高い価値をもちながらも証明されないままあります。
私たちは現象に持続性が確認できたことを根拠にして、実体のカテゴリーを適用するため、この命題(「実体は持続する」)は同義語反復命題となります。
持続するもの(実体)が存在し、変化はその偶有的な限定にすぎない、ということを、経験的な概念によって証明することはできません。
このような経験の根底にあるアプリオリ(先天的)な命題は、可能的経験の演繹(先述のカント的演繹)によってしか証明することはできないのです。
すべての時間(過去~未来)において存在し続ける実体(基体)の持続性を、古代の哲学者は「何ものも無から生じず、何ものも無に帰すことなない」と表現します。
この命題は経験領域における現象を述べるものであり、現代の哲学者のように、これを神の世界創造(無から有を生む)の否定であると案じる必要はありません。
仮に、無から新しい実体が発生するとすれば、経験の統一が不可能になってしまいます。
基体の同一性が失われ、移り変わりは統一性の拠り所を無くします。
持続性は、現象における事物の存在を現す仕方に他ならず、その基底なしには現象が成り立ちません。
実体がいかなる特有なあり方において存在しているかを示すものが実体の規定(限定)であり、それを偶有性と呼びます。
偶有性は実体の現実存在に関わる実在的なものであり、否定的なものではありません(否定は実体において何かが存在しないことを規定するもの)。
偶有性は実体の現実存在を積極的に規定するあり方です。
実体(持続するもの)は関係が形成される条件であるがゆえに、関係のカテゴリーに置かれるのです。
変化とは、同じ対象が別のあり方に成ることであり、変化するものは留まり(持続し)その状態だけが交替します。
交替は、規定(限定)という生滅可能なもののみに関わるため、逆説的な表現になりますが、「持続するもの(不変のもの)は変化し、変転するもの(生滅するもの)は変化せず、ただ交替する」と言えます。
[不変の実体がなぜ変化するのかという問題を、”変化”と”交替(Wechsel)”の違いによって説明します。変化はその基底に必ず不変を有し、不変という基底をもたない変化は変化ではなく交替でしかありません。実体の規定の変化=偶有性の交替(生滅)です。]
変化は、実体においてのみ知覚され、生成と消滅も、持続するものの規定に関わることにおいてのみ知覚されます。
この持続するものによって、状態の変化および存在-非存在(無)の移行が可能になります。
(実体の状態の)変化および(偶有的なものの)生滅は、留まるもの(持続するもの)の交替する規定としてのみ、経験的に認識することができます。
存在の生成はその存在の無(存在以前)を想定せざるを得ず、存在の無は既に存在しているものを拠り所にしなければ知覚の対象にすらなりません。
生成と消滅は、その基底にある持続するものによって繋がれ可能になるのであり、生成と消滅はその持続するものの規定の変化でしかありえません。
生成はある現象が存在すること、消滅はある現象が存在しなくなることの、時間についての経験的な表象です。
もし、規定(偶有性)ではなく、実体そのものが生滅するとしたら、時間の経験的統一のための条件である基体を失い、無数の個々の現象が、並存する無数の個々の時間のうちにあるという不合理なことになってしまいます(もはやいかなる現象も知覚不可能な混沌状態)。
持続性は、現象が可能な経験のうちで規定されうるための必然的条件です。
B.第二の類推、因果関係に基く時間的継起の原則
「すべての変化は原因と結果を結び付ける法則に従い生じる」
継起するすべての現象は変化であり、それは持続的な実体の様々な規定の存在と非存在の交替(生滅)です。
変化とは、実体そのものの継起や生滅ではなく、現象の継起(交替)です。
変化という概念は、相異なる規定が同一の主語(基体)のもとにあり、持続することを前提にするものであるため、実体が生滅してしまえば変化が成り立ちません。
ある物の状態が前の時点と反対のものとなっていることを知覚する際、異なる現象の知覚を時間において結合しています。
これは想像力(構想力)の総合能力による、内的感覚を時間関係において規定する働きです。
しかし、想像力は二つのものを結合するだけであり、その時間的前後関係(因果関係)を客観的に規定する力はありません。
客観的関係の認識の為には、二つの状態のどちらが前でどちらが後でなければならないかという必然性が必要です。
この必然性を与えるものは、知覚や想像力のうちにはなく、純粋知性概念(関係のカテゴリーの原因と結果の概念)にあります。
原因と結果(因果性)の関係の概念によって現象の前後関係を因果的に規定することで、すべての変化(現象の継起)が因果律の法則に従属し、統一的に把握され、現象の経験的認識が可能となります。
現象の多様は常に継起的に把握されます。
しかし、現象は表象にすぎず、現象の多様の継起は、客体においてもそのようになっているということは示さず、ただ心の能力によって生み出されたものであるということしか言えません。
現象の向こう側(物自体)がどうなっているかは分かりえないからです。
では、どのようにして、現象の多様の継起の時間における結合が、ただの心的な主観的構成物か、現象そのもの(ここでいう”そのもの”は、物自体の意ではなく客観的の意)における多様に基づくものであるかを、判別するのでしょうか。
私の心のうちの表象の総体が、客体の現象であり、主観的な仮象でないためには、その表象から得た概念が対象と一致しなければなりません。
認識(概念的把握)と客体の一致が「真理」の条件であるなら、ここで問われているのは、経験的な真理の形式的条件でもあります。
現象を単なる表象から分かち、客体としての現象とするためには、その現象が或る規則に従っていなければなりません。
この規則によって、現象は客体に関するものとして区別され、その多様の結合に必然性が付与されます。
客体とは、現象のうちに必然的規則を含むもののことです。
例えば、川を下る船の現象の多様を結合する際、上流の船の知覚が下流の船の知覚に先行する必然的関係を有しており、感覚把握は必ずこの順序に従います。
それに対し、大きな建物の現象の多様(上屋根、基礎、門、外壁など)を結合する場合は、どの順序でも可能です。
つまり、生起するもの(時間的な変化のこと)を知覚する場合においては、常に規則があり、知覚の順序を必然的なものにします。
感覚把握の(生起するものについての)前後関係は、現象の客観的な継起の順序(規則)に従ったものである必要があります。
単なる主観の恣意的な継起(多様の結合)は、客体に関わらない表象の戯れにすぎません。
生起する多様なものが規則に従う継起順で結合されることにより、私は仮象ではない、現象そのもの(客体)に関わる表象を得る資格を与えられます。
心のうちの継起と現象そのものの継起が対応する時のみ、現象を把握することができるのです。
何かあるものの生起の経験は、常に先行するものとそのうちに含まれる規則(後行の出来事を必然的に生じさせる)を前提にします。
この必然的で不可逆的な前後関係によって、変化(生起)していく現象という客観的な経験(主観的な総合が表象の戯れではなく、客観化される)が可能になります。
既存の原因の概念は、出来事の規則的な前後関係の観察から帰納的に抽出された経験的(後天的)なものにすぎず、それは永遠に偶然の域からでることができません。
既存の原因の概念の必然性と普遍性は仮想的なものであり、真の普遍妥当性をもつアプリオリ(先天的)なものではありません。
これは先のアプリオリな純粋表象(時間と空間)においての問題と同様です。
経験から明瞭な概念(時間や空間や因果のような)を抽出することができるのは、それが経験に先立ち経験を成立させるアプリオリな条件であるからなのです。
私の心のうちの表象が主観的な意義を超え客観的な意義をもつのは、単に私が対象と呼ぶ表象と関係することによってではありません(表象間の関係からは表象を超えるものを導き出せない)。
対象(客体)と関係することそのものによって、私の表象がいかなる新たな性質と権威を獲得するかということです。
この関係は私の諸表象に結合の規則と必然性をもたらします。
それを裏側から言えば、私の表象の(時間的)結合の秩序が規則と必然性をもつ時、客観的な意義が与えられる、ということです。
多様なものが継起し、それが総合的に知覚されたとしても、そのことだけによって客体が示されることはありません。
その継起の前後関係に規則があり、先行のものから必然的な関係によって後行のものが続くということを知覚あるいは想定した瞬間から、何かを”出来事”として、”生起したこと”として、思い浮かべます。
これにより、私は(先行の状態と後行の状態の必然的繋がりを説明するための)時間のうちの或る特定の位置を占める或るひとつの対象を設定することになります。
つまり、継起に規則および必然性が伴う時、客体が示されるということです。
何かが起こったと知覚したと同時に、その先行の(現在とは異なる、生起-変化-前の)状態が想定されており、この継起(先行→後行)関係においてはじめて現象は時間的関係へと組み込まれます。
出来事が生起する前の状態(時間)を出自とすることにより、その出来事は存在を得るのです。
ここにおいて、私の諸表象の間に順序というものが生じ、出来事は時間系列において必然的な関係と存在位置を得ます。
経験の可能性の為には知性が必要であり、知性の第一の仕事は対象の表象を明確にすることではなく、対象の表象を”可能にすること”です。
諸現象をアプリオリな時間秩序の前後関係のうちにその存在の必然的な位置付けを為す作業です。
勿論、この位置は絶対時間(そのようなものが知覚可能だとして)との関係によって必然的なものとして決定されるようなものではなく、むしろ諸現象の方が時間秩序のうちに相互の位置関係を規定することによって、必然性を得るのです。
時間における現象の系列に基き、知性は可能な知覚の系列の順序とまとまりを作ります。
内的直観の形式としての時間と同じアプリオリな順序とまとまりによって、すべての知覚は位置付けられるのです。
何かが生起するとは、可能的経験に属する知覚のことです。
可能的経験は、ある現象を時間的な位置において規定(限定)し、知覚の関連の中に規則的に常に見出される一個の客体と見なす時、現実的なものとなります。
出来事は常に先行するものを条件として必然的に生起するのであり、「充足理由律(理由・原因なしには何ものも生じえない、というライプニッツの説)」は、経験(現象の客観的認識)を可能にする根拠なのです。
まとめます。
経験的認識は想像力による多様の総合によって構成され、この総合は常に継起的にあります。
しかし継起の順序については、想像力は何も決定できず、主観的な順序に基く表象の戯れ(夢想)の域から出ません。
それに対し、客体の把握(客体に基く多様の総合)の場合、必然的な継起の順序があり、それが客体を客体と成します。
継起順序は客体において規定されるもの(正確に言えば規則的な継起順のあるものが客体)であり、客体のうちの継起的な総合の順序が想像力の継起の総合に必然性を与え、出来事と出来事の必然的関係を生じさせます。
ここに経験的判断(客観的認識)が成立し、現象は常に先行のものに条件付けられた必然的継起関係をもつものとして、想像力の主観的戯れではない客観的なものとしての権利を得ます。
この時間において規定される、先行するものと後行するものの不可逆的な必然的継起関係が、現象を(客体の)現象として知覚可能にする「因果関係」です。
原因と結果の必然的関係の原理(充足理由律)は、経験的判断の客観的妥当性の条件、つまり経験の可能性の根拠なのであり、経験のすべての対象はこれに基かざるをえません。
ここで生じる疑念は、自然における因果関係の多くは原因と結果が同時に存在している、ということです。
例えば、ボールがクッションに落ち、クッションが凹んだ場合、原因であるボールと結果であるクッションの凹みは同時に発生しています。
結果が時間経過後に生ずるのは、原因がすべての結果を瞬間的にもたらすわけではない、ということを示すにすぎません。
因果関係において問題となるのは、時間経過ではなく、時間順序(時間継起の秩序)であり、原因と結果の時間の間(経過)は消滅すること(つまり同時)がありえます。
しかし、間は消滅可能であるにしても、両者の時間的関係の順序そのものは常に存在しています。
「ボールが落ちる→クッションが凹む」という時間的順序をひっくり返した「クッションが凹む→ボールが落ちる」という関係は成立しません。
因果関係の基準となるのは時間継起(順序)であり、ここから「作用」の概念が生じます。
作用あるところ活動と力があり、活動と力あるところ実体があり、実体は現象の源泉であると、教科書的には言われます。
しかし、従来の方法(概念の分析)では、実体の本質(何であるか)を循環論(「実体とは作用を及ぼすものである」というような)に陥らずに説明することは困難です。
(現象としての)実体の本質(持続性、恒常不変性)を、作用から導き出さねばならないという難題は、ここまでの考察に基けば困難なく解くことができます。
作用は、原因の主体とその結果の関係を示し、原因→結果は生起するものにおいて、つまり時間的継起のうちの変転的なものにおいて成り立ちます。
この変転しうるものの根源的な主体は、(変転可能性の)基体となる持続するもの、つまり不変の実体です。
もし、作用の主体を変転するもののうちに求めれば、変転の根拠を求める無限遡行が生じてしまうでしょう。
生滅する変転の因果性の根拠である、生滅しない不変の根源的な主体(持続するもの)という、確かな推論によって得られる(現象としての)実体という概念なしには、説明不可能です。
何かが生ずる時、何が生起したのかではなく、生起するということ自体(ある状態の無いところから、ある状態が生ずるという問題)を探究する必要があるのです。
先に述べたように、実体は無から生起することはないため、それは実体の状態の変化であるということです。
生起を無からの創造として考えれば、経験が成り立たたず(経験の統一が崩壊するため)、現象界の出来事であることができません。
内容的な変化の可能性については、(物理学のような)経験的(後天的)な知識の獲得によって理解できますが、変化そのもの(変化という形式)の可能性については、因果性の法則と時間の条件に基きアプリオリ(先天的)に理解できます。
状態AからBに変転する際、二つの時点(瞬間)を両極(中間の限界)とする間(中間)には、時間と、量の差異(A-B)があります(先に述べたように現象は常に量を備える)。
変化の原因は、この中間の時間全体にわたり影響を示し、変化の始点Aから終点Bへ向かう実在の量の変化(漸次的な内包量-強度-変化)を、(瞬時にではなく)時間経過的に生じさせます。
すべての変化は、このような因果性の連続作用によって可能となり、この作用が一様である場合、「モメント」と呼ばれます。
変化はこのモメントの作用の結果として生み出されます。
[“モメント(物理学):ある点を中心として運動を起こす能力の大きさを表す物理量。力のモーメント、磁気モーメントなど。~大辞泉”
カントの場合のモメントとは、より一般的に”変化の原因としての実在性の強度”です。]
実在の最初の状態から新しい状態にいたる変化は、実在の無限の度(内包量)を経過し生じるものであり、そこに最小の区別(部分)などというものはありません。
これが、すべての変化の連続性の法則です。
[ここで時間的継起(因果)、つまり変化と、知覚の先取(度・内包量)、つまり連続性の問題が結びつきます。]
経験的認識が増し知覚が進歩するということは、時間における進展であり、その時間的総合によってすべてのものが規定(限定)され、進展の諸部分が与えられます。
逆から言えば、或る知覚が継起によって新しい状態へ移行するということ(知覚の産出)によって、時間を規定します。
最小の度(最小部分)などというものを含まない、ゼロから一定の度に至る連続的(無限階調のグラデーション)な度を経由することによって、知覚の量が産出されます。
このように、感性である時間には、存在するものが次の継起の状態へ進展する可能性のアプリオリな条件が含まれています。
変化の連続性の法則がアプリオリに認識されるのは、それが時間という形式に含まれるものだからです。
同様に、知性の統覚による統一は、この時間の原因と結果の系列において現象の位置の連続的規定を可能にするアプリオリな条件を含んでいます。
これに拠って、時間関係の経験的認識は客観的妥当性をもつこととなります。
C.第三の類推、相互作用あるいは相互性の法則に従う同時存在の原則
「すべての実体は、空間において同時存在するものとして知覚できるかぎり、一貫的な相互作用のうちにある」
[第一版では「すべての実体は、同時に存在するかぎり、一貫的な相互性の関係にある」となっています。]
経験的直観において、(時間的継起のような不可逆性”A⇒B”ではなく)ある物の知覚と別の物の知覚が相互(交互)的に継起可能”A⇔B”である時、これらの物は「同時に存在する」といえます。
例えば、月と地平(地球)を連続して(継起的に)知覚する場合、どちらからでも知覚可能(相互的継起)で、多様なものが同じ時間に存在(同時存在)しています。
しかし、感覚把握における想像力(構想力)の総合だけでは、この相互性は、単に月の知覚がある時に地平の知覚はなく、地平の知覚がある時に月の知覚がない、ということを示すにすぎません。
客体が同時に存在すること、およびそれが必然的に知覚の相互的継起と必然的に結びついていることを示すものではありません。
知覚の相互継起が単なる主観的妄想ではなく客体のついてのものであることを主張し、同時存在を客観的に示すためには、”別々のものでありながら同時に存在する物の規定が相互的に継起する”ということに関する知性概念が必要になります。
一方の実体の規定の根拠が他方の実体に含まれている一方向の関係は”影響の関係”であり、双方の実体が双方の規定の根拠を含む双方向の関係は”相互性(あるいは相互作用)の関係”です。
空間における実体の同時存在を経験によって認識するためには、この相互作用を前提にする必要があります。
相互作用は、経験の対象としての物そのもの(経験の向こうにある物自体のことではなく経験的な意味での対象自体のこと)を可能にする条件です。
[例えば、陸と海の形は相互的に規定し合っており、陸が凹めば海が凸みます。このように空間内のものはすべて相互関係の網の中にあります。]
同時存在は、多様なものの感覚把握の総合において、順序が問われない場合に認識されます。
それに対し、時間的継起においては、A⇒B⇒C⇒D⇒Eというように、多様が不可逆的な一定の順序によって総合されます。
もし、各実体が空虚な空間によって分断・孤立し、互いに全く作用を及ぼさないと想定すれば、同時存在は人間の知覚の対象となりえないでしょう。
時間において連続する実体の知覚が、時間的継起(A⇒B)か、同時存在(A⇔B)かを区別する目印を失ってしまうためです。
可能的経験において同時存在を認識するためには、諸々の実体の間に力学(作用)的な相互性の関係がなければなりません。
或る条件(相互作用の概念)がなければ対象の認識そのものが不可能であるとするなら、その条件は経験の対象において必然的なものであると言えます。
現象におけるすべての実体は、それらが同時に存在する限り、一貫的な相互作用の関係にあることは、必然的なことです。
「相互性(独:ゲマインシャフト)」は相互作用と共存を意味し、力学的相互作用によって場所(空間)的共存が経験的に認識可能になるということです。
[カントはここで以下のような具体例を挙げまとめます。分かり易いので直接引用します。
“わたしたちの感覚能力がある対象から別の対象へと知覚を移行させることができるのは、空間のあらゆる場所で連続的な影響が与えられる場合にかぎられる。わたしたちの眼と空の天体のあいだに戯れる光が、わたしたちとこれらの天体のあいだの間接的な相互作用を作りだすのであり、わたしたちと天体が同時に存在することを証明するのである。さらにわたしたちが場所を移動することを経験できるためには、そしてこの移動を変化として知覚することができるためには、空間のうちにある種の物質が遍在していて、それによってわたしたちが自分の位置を知覚できる必要がある。これを知覚することができるのは、この物質の相互的な影響のためであり、それによりこの相互性がなければ、すべての知覚は、すなわち空間における現象の知覚は、他の知覚から遮断されてしまうだろうし、わたしたちが心のうちで経験的に思い描く像の連鎖、すなわち経験そのものは、新しい客体にであうたびに、最初から始められることになり、それをそれ以前の経験と結びつけることも、時間のうちで関係づけることもできないだろう。だからといってわたしは空虚な空間が存在することを否定するものではない。空虚な空間は存在するかもしれない。しかしわたしたちの知覚はそこまで届くことがないのであり、そうした空虚な空間では同時存在について、経験的に認識することはありえない。だとすると、空虚な空間は、わたしたちのいかなる可能的な経験にとっての客体でも、ありえないことになる。(中山元訳、光文社文庫)”]
可能的経験におけるすべての現象は、統覚の相互性の関係のうちにあらねばなりません。
そして、諸対象は、ひとつの時間においてそれぞれの位置を相互に規定し合う形で全体を構成することにより、同時存在的に結びついたものとして示されるべきものなのです。
或る知覚と他の知覚が、互いが互いを可能にする根拠となる時、それは客観的なものとなり、(単なる主観的な表象の戯れではなく)実体としての現象に関わるものとなります。
これが実体の実在的相互性(相互作用)です。
現象は互いに外的でありながら結びつき、相互作用的な一個のまとまり(実在的合成体)を作ります。
以上が、経験の三つの類推であり、それは現象の現実存在を時間の三つの様相(量としての時間-持続-、系列としての時間-継起-、総体としての時間-同時存在-、における関係)に従い規定するための原則です。
知性の有するアプリオリな規則によって、現象の現実存在は三つの力学的な時間関係に基き総合的に統一され、すべての現象は時間のうちで特定のしかるべき位置に置かれることになります。
[(絶対時間ではなく)アプリオリな知性の働きに基く力学的な時間関係の総体のうちに諸現象は(直接的ではなく関係的に)位置を与えられ、経験世界は成り立ちます。]
経験的な意味での「自然」とは、必然的規則(自然法則)に従う現象の関係のまとまりを指すものです。
自然の可能性はアプリオリ(先天的)な法則の存在を前提としているのです。
経験的(後天的)な法則は、経験そのものを可能とする根源的なアプリオリな法則に従って、はじめて成立し発見されます(2-3を参照)。
経験の類推は、現象の関係における自然の統一を指数によって表すものであり、その指数は統覚の統一と(全ての存在を含む)時間との間の関係を表すものです。
[以下、ここで用いられる「指数」の概念の概要です。具体的な詳細は不明です。
“1770年代以降、カントはこの用語(指数)を用いて、判断における関係の3つの形式(定言的関係、仮言的関係、選言的関係)を統一的に説明しました。概念の関係(指数):主語対述語、根拠対帰結、全体対部分(判断の形式:定言的、仮言的、選言的)。~クラウス・ライヒは、カントが「指数」という用語を数学から導き出したと説得力のある主張をしている。18世紀の教科書では、指数の概念は比例論で使われている。そこでは「『関係』の最初の項に掛けて2番目の項を得るための数」を指している。~例えば、ライヒによれば、3と12の関係の指数は4か1/4のいずれかである。これらの2つの項から、次のような推論を行うことができる。 3、12、48、172、… あるいは 12、3、3/4、3/16、… という数列を定義できます。数列の項が与えられ、指数が特定されれば、数列全体が定義されます。~判断における各関係は、与えられた判断が含まれる可能性のある数列の指数と見なすことができます。(Béatrice Longuenesse, Kant and the Capacity to Judge)”]
このようなアプリオリな統一によって、経験の統一が可能となり、経験における対象も規定可能となります。
すべての現象は、ひとつの自然のうちにあらざるをえないのです。
以上の三つの類推によって証明しようとしたのは、第一の類推-現実に存在する全てのものは持続するものにおいてのみある、第二の類推-すべての出来事は先行の状態のあるものを前提としその先行のものの規則に従い継起する、第三の類推-同時に存在する多様なものにおいて諸々の状態は規則に従う相互関係をなし同時存在する、ということですが、この証明はこれまでと同様、概念の分析(独断論的方法)によって得られるものではなく、認識としての経験の可能性から証明する(「これがなければ経験そのものが不可能である」という面から証明する)という(超越論的)方法です。
2-3-4、経験的思考一般の要請
1.経験の形式的条件(直観と概念の条件)と一致するものは、可能的である。→様態のカテゴリーである可能性に対応
2.経験の実質的条件(感覚の条件)に連関するものは、現実的である。→様態のカテゴリーである現実性に対応
3.経験の普遍的条件に従い現実的なものとの関係が規定されているものは、必然的(な実在)である。→様態のカテゴリーである必然性に対応
様態のカテゴリーは客体を規定するものではなく、客体(その規定含め)が知性の経験的使用および経験的判断力および理性の経験的適用と(つまり諸々の認識能力と)どのように関わるかを表すものであり、このカテゴリーは経験的使用に限定されたものです。
様態の原則は、可能性・現実性・必然性の概念が経験においていかに使用されるかを説明するものにすぎません。
物の可能性・現実性・必然性に関わるものであり、このカテゴリーは(認識の対象がここにおいてのみ与えられる)可能的経験とその総合的統一に向けられるものです。
したがって、物の可能性の要請は、物の概念が経験一般の形式的条件と一致することを求めます。
経験一般の形式は、客体の認識に必要なすべての総合を含む客観的なものです。
総合を伴う概念は、その総合が経験によって得られたものである場合は経験的概念、その総合がアプリオリな条件として経験一般(経験の形式)に関わる場合は(経験に属する)純粋概念、その総合が経験に属さないものは(いかなる対象にも関わらない)空虚な概念、です。
つまり、対象の可能性は認識の経験的形式(直観と概念の形式)に基く総合によって成り立ちます。
概念に矛盾が含まれてはいけないことは、ひとつの必然的な論理的条件ですが、それだけでは客観的実在性、いわば概念によって考えられる対象の可能性、は得られません。
例えば、「二本の直線によって囲まれた図形」という概念に矛盾は含まれておらず、その不可能性は空間を規定する条件に則していないことにあります。
この直観の条件(空間形式)は、経験一般のアプリオリな形式であり、客観的実在性、つまり可能的な物を成り立たせるものです。
[「二本の直線によって囲まれた図形」概念がなぜ矛盾でないのかは、次の論文が参考になります。『「矛盾」概念の再検討-カントと二角形の問題-』繁田歩]
持続するものも継起するものも同時存在(相互作用)するものも、思い描くことはできますが、そのような関係が可能的な物にもあるかどうか(客観的実在かどうか)は、これらの概念だけから導出することはできません。
これら概念の客観的実在性、つまり超越論的真理性は、この概念が、あらゆる経験における知覚の関係をアプリオリに表すということからのみ、認識されます。
経験から得られる(概念の結びつきの)事例に依拠せず、実体、力、相互作用に関わる概念を単に知覚に与えられた素材のみによって考え出したとしても、可能性ですらない幻想に終わります。
空間を占めない実体(持続的幻想)や、未来視(継起的幻想)や、テレパシー(相互作用的幻想)などの概念は考えることはできても、可能性の根拠を欠いた概念(つまり幻想)です。
経験および経験的法則を無視し恣意的に結びつけられた思考は、たとえ矛盾を含んでいなくとも、客観的実在性も対象の可能性も主張することはできません。
実在性の有無は、関係の形式ではなく、経験の質料である感覚に関わるものであるため、関係の形式だけに依拠する概念は客観的実在性なき幻想にならざるを得ません。
[ここで問われているのは、すべての人に共通の認識可能性であるという意味での”客観的実在性”であり、先に挙げた性質のカテゴリーの実在性(強度)とは異なります。]
物の可能性は、アプリオリな概念だけでは成り立たず、経験一般の形式的で客観的な条件を伴わねばなりません。
例えば、三角形の可能性は、その概念のみから認識できるように思えますが、それが単なる主観的想像ではなく客観的対象として可能であるかは不明なままです。
この図形が経験のすべての対象の基礎である条件の下で考えうるかどうかが問題になります。
想像力が構成的総合によって生み出す三角形の概念と、現象の感覚把握による総合が生み出す三角形の可能性の表象が、合致する必要があるのです。
これと同様、連続量どころか量一般というものの可能性も(量の概念はすべて総合的)、経験一般における対象を規定する形式的条件に基き、はじめて成立します。
次いで、物の現実性を認識するための要請は、知覚、つまり感覚内容を必要とします。
対象が、経験の類推(経験一般におけるすべての現実的な結びつきを示す)に従い、現実的な知覚と結びついていることが必要なのです。
いかに完全なものであっても、単なる物の概念のうちにそれが現実存在するということを示す特質はありません。
或る物が現実存在するかどうかは、それが(その物の概念より先に)その物の知覚として与えられているかどうかで決定します。
概念に素材をもたらす知覚が現実性の唯一の特質なのです。
勿論、ある程度はアプリオリに、知覚に先立ち物の現実存在を認識することはできます。
知覚の経験的な結びつきの諸原則(経験の類推)に従い、いくらか(ある程度の)の知覚がその物の現実存在に結び付けられている場合、可能な知覚の系列をたどり、物に到達することができるからです。
例えば、「磁気」は、人間の感覚器官の性質の限界からして直接知覚できないにしても、砂鉄の運動の知覚により、その現実存在を認識することができます。
もし、人間の感覚能力の機能がもっと高ければ、磁気のようなものも経験的に直接直観できたでしょう(磁気の概念より知覚が先立つ状態)。
知覚およびそれに付随するものが経験的法則に従う時、物の現実存在が認識されるのであり、そのような経験的な端緒なしに物の現実存在を求めても無駄に終わります。
このような考えと相反するものが、デカルトやバークリなどの観念論(実質的観念論)です。
[カントの観念論は形式に関わる「超越論的観念論」であるのに対し、ここで批判されるのは内容に関わる「実質的観念論」です。]
外部の対象の現実存在は証明不可能であると主張するデカルトの蓋然的観念論は、「私は在る」という唯一の経験的な断定だけを疑いなきものと考えます。
外部の対象の現実存在は虚偽でそれ自体が不可能であると主張するバークリの独断的観念論は、外的な空間も物も単なる幻想にすぎないと考えます。
独断的観念論は、空間を物自体に属する性質であると考える際に生ずるものであり(空間も空間を条件とする物体も架空のものとなる)、この問題は超越論的感性論において排除されています。
これに対し、蓋然的観念論は、哲学的な真摯さで懐疑の立場をとっているため、その懐疑を解消させるための証拠を示す必要があります。
デカルトが絶対に疑いえない経験と考えた内的な経験が、実は外的な経験を前提にしてのみ可能であることを示すことによって、外的な物が単なる幻想ではなく経験であるということを示す作業です。
「私の外部の空間に対象が現実存在することを証明するのは、私自身の現実存在の単なる意識、経験的に規定された意識である」という定理の証明です。
私は自己の現実存在を時間のうちで規定されたものとして意識しています(時間は内的感覚の条件)。
先に述べたように、あらゆる時間規定は”持続するもの(実体という基体)”を前提にすることによって成り立っていますが、それが私のうちにあることはできません。
規定するもの(持続するもの-実体)が、規定されるもの(自己の意識)のうちにあることはできないからです。
また、この持続するものの知覚は、外部の物の現実存在を通して得られるものであり、単なる心のうちの物の表象だけで得られるようなものではありません。
つまり、(時間において規定された)私の現実存在は、外部の物の現実存在の知覚によって、はじめて可能になるものです。
私が自己の現実存在を意識することは、同時に外部の物の現実存在を意識することでもあります。
観念論は、内的経験のみが直接得られるものであり、外的経験はそこからの推論である不確実なものだと考えます。
しかし、実際は、外的な事物の経験が直接的なものであり、それを媒介として間接的に内的な経験が可能になっているのです。
内的な直観によって私が自己を認識する時、(内的直観の形式である)時間に基き主観を規定しますが、それ(時間規定)は外的事物(の基体である実体)を通してしか得られないものです。
私たちが、経験において、空間に存在する持続的なものと変移するものとの関係を通して時間を規定する(例えば、太陽と地上-地球-の関係を通して時間が捉えられる)という事実は、これまで述べたことと合致しています。
実体の概念の基盤となる持続的なものを直観するには、”物質”以外にありえません。
勿論、持続性は、外的経験から取り出したものではなく、アプリオリなあらゆる時間規定の必然的条件として、また、外的事物の現実存在を介した私自身の現実存在に関する内的感覚の必然的条件として、前提されているものです。
[時間は先天的な人間の感性の形式ですが、後天的な外的事物を媒介にしなければ、人間のうちに展開することはありません。そういう意味で、”持続するもの”の出自は二重にあるということです。]
外的経験は確実なものではなく想像された虚構なのではないかという懐疑的な問題があるとしても(実際、夢や狂気においてそのようなことが生ずる)、その想像された外的な表象は過去に知覚した外的対象の現実存在を再生的に再構成したものにすぎません。
ここでの課題は、内的経験一般が外的経験一般に拠ってのみ可能であるということを証明することであり、現実的経験と想像的経験の違いを現実経験の基準によって個別的に規定するというのは、別に解決すべき事柄です。
最後の要請は、(概念の結合における形式的論理的必然性ではなく)現実存在の実質(質料)的な必然性に関するものです。
感覚の対象の現実存在はアプリオリに認識することはできませんが、既に与えられている現実存在との関係から、比較的アプリオリに認識することができます。
現実存在の必然性は、(概念ではなく)知覚されたものの結びつきにおいて、経験の普遍的な法則(因果律)に従い認識されます。
既に知覚に与えられている現象の条件の下(原因)で必然的に認識されるもの(結果)は、現実存在の因果律に従う側面のみ、つまり物(実体)の”状態”のみです。
先行の物の状態から後行の物の状態を導くものであり、実体の現実存在に直接関わるものではありません。
必然性の基準は可能的経験の法則のうちにのみあり、それは「生起するすべてのものは、その原因によって、現象においてアプリオリに決定されている」というものです。
必然性は、因果律という力学的法則に従う現象間の関係のみに関わります。
それは、原因となるものから結果となるものをアプリオリに推論する可能性であり、「生起するすべてのものは、仮言的(もし~ならば)に、必然的である」という原則です。
世界において生じるすべての変化が従う原則であり、これなしに自然は成立しません。
「何ものも盲目的な偶然によっては生じない(この世に偶然はない)」「自然における必然性は盲目的な必然性ではなく、条件付けられた理解可能な必然性である(この世に運命-盲目的必然-は存在しない)」という命題は、アプリオリな自然法則を示すものです。
変化はこの法則に基き、現象として物の自然に従うのであり、それは知性の統一に従うことを意味します。
変化は知性の統一において、現象の総合的統一である経験に属します。
これらは力学的な原則であり、第一の原則「この世に偶然はない」は経験の類比(因果性)の原則(出来事には原因がある)に属し、第二の原則「この世に運命-盲目的必然-はない」は様態(必然性)の原則(出来事には理解可能な必然性がある)に属し、因果性に必然性が加えられます。
さらに、連続性の原理のために現象の時間的系列(変化の系列)における飛躍を禁じる第三の原則「この世に飛躍はない」、そして、空間中のあらゆる経験的直観の総体において二つの現象間の空隙(真空)を禁じる第四の原則「この世に空隙はない」があります。
[これら四つの原則はラテン語のフレーズとして書かれていますが、意図は不明です。]
これら四つの原則がカテゴリー表の何処に属すにせよ、共通して言えることは、経験的認識の総合において、すべての現象と知性との一貫的関連(即ち知性の概念の統一)を妨げるものは一切認めない、という点です。
経験の統一が可能になるためには、現象と知性の概念の統一において、一貫的にすべての知覚が位置付けれる必要があるからです。
必然的なものの範囲より現実的なものの範囲は広く、現実的なものの範囲より可能的なものの範囲は広いと、一般常識的に考えられており、またそれは知性の概念に属する問題であるとされています。
しかし、この問題(絶対的な可能性)は、あらゆる可能的で経験的な知性使用を超越する”理性”に属するものであり、未解決に留まり、批判的な注意を向けるほかありません。
経験を可能にするのは、これまでに述べた直観の形式と知性の形式であり、それ(可能的な全経験)以外の範囲については想像することも理解することもできません。
人間とは異なる形式が存在するとしても、それは経験に属さない認識不可能なものです。
知性はそのような条件下で与えられたものを総合するだけであり、その条件の外に関与することはありません。
人間が推論の力によって可能性の領域を開拓するといっても、そのような条件下での限られたものにすぎません。
現実的なものは可能的なものに何らかのものを加え成り立つと考えられているため、可能的なものの数は現実的なものの数より大きく、現実性の範囲は可能性の範囲のごく一部だということになります。
しかし、この可能的なものに付け加える「何か」というものは、明らかではありません。
可能的なものを超える何かを付け加えるということは、不可能なことだからです。
可能的なものに付け加えられそうなものがあるとすれば、与えられた知覚と結び付けられた間接的なものですが、それが経験の形式的条件に従っているなら、直接知覚されていなくても現実的なものです。
私の知覚に与えられたものから、私の認識している現象の系列を超える可能性を推論することはできず、まして、与えられていないものから推論することなどできません。
[カントにとって、可能性の範囲は「経験の形式的条件(直観と概念の条件)と一致するもの」であり、現実性の範囲は「経験の実質的条件(感覚の条件)に連関するもの」であり、具体的には直接的に知覚されたもの及び直接知覚されたものから経験の条件に従い導出された間接的に知覚されたもの(例:砂鉄の動きの直接的知覚から間接的に知覚される磁気)です。また、経験の形式は先天的なものですが、後天的な外的事物の知覚を媒介にしなければ展開されないものであり、現実的に知覚されたものは必ず可能的なもの(経験の形式的条件)に従う表裏一体のものです。一般常識のような可能性(全体)と現実性(部分)の包含関係はなく、また、可能性の範囲(人間の認識能力)の外の可能性(絶対的可能性)は認識不可能で形而上学に属するものです。]
ある概念(対象)が”可能的”であるとは、それが単に知性において経験の形式的条件と結びついていることであり、ある客体が”現実的”であるとは、その対象の概念が知覚(感覚能力の素材である感覚内容)とのつながりにおいて知性を介した経験の形式的条件によって規定されていることであり、ある対象が”必然的”であるとは、その対象が知覚との連結において概念(カテゴリー)によって規定されていることです。
この様態の三つの原則(経験的思考一般の要請)は、概念を生みだす認識能力の働きを語るものにすぎず、客観的な総合命題であるわけではありません。
可能性・現実性・必然性という述語は、述語の対象となる主語の概念を何ら豊かにするものではありません。
対象となる概念がどのように認識能力と結合するかという仕方を示すだけのものです。
直観なしのカテゴリー(純粋知性概念)のみでは、いかなる物の可能性も考えることはできません。
カテゴリーそれ自体は何ら認識ではなく、与えられた直観から認識を作りだすための単なる思考形式にすぎないからです。
カテゴリーのみでは総合的な命題を作ることはできません。
例えば、関係(の原因)のカテゴリーだけから「すべての偶然的に存在するものには、原因がある」という総合命題を導き出せそう(つまり証明できそう)に見えますが、これは「偶然的なもの」という概念のうちに既に関係(原因)性「他のものからの結果としてのみ存在するもの」が含まれている分析命題にすぎません。
「他のものからの結果としてのみ存在するものには、原因がある」という同語反復的なものです。
関係(因果関係)というカテゴリーがなければ、偶然的なものという存在をまったく理解できない(認識できない)ということ(形式)を示すだけです。
因果律は、「経験的な直観において与えられた客体の認識を可能にする原理」として証明できるだけであり、直観なしの概念のみで証明することなどできません。
物の可能性をカテゴリーによって理解し、カテゴリーの客観的実在性を明らかにするためには、直観(しかも外的直観)が必須だということです。
例えば、純粋概念である「関係-実体性」に対応する”持続的なもの”を示すためには空間における持続的な物質の直観を必要とし(時間は常に流れ変転するものであるため恒常不変な持続性は空間なしに成立しない)、「関係-因果性」に対応する”変化”を示すためには空間における変化としての運動の直観を必要とし(より本質的に言えば、変化は持続-外的空間-を前提に成り立つものであり、内的時間の外的空間を介した形象化-空間化された時間-によって、はじめて変化は直観化される)、「関係-相互性」に対応する”相互性”を示すためには空間における複数の実体の同時存在と相互作用(作用と反作用)の直観を必要とします(現象としての実体の相互関係は外的直観-空間-を介さずに理解することができない)。
[相互性は、実体性と因果性の総合であるため、その時点で既に外的直観を必要とすることが分かります。]
外的な経験的直観を欠いた内的なものだけで拵えられた観念論や自己認識が、いかに不完全なものであるかが分かります。
まとめます。
純粋知性のすべての原則は、経験を可能にするアプリオリな原理にほかならず、すべての総合的命題(認識)も経験のみに関係し、経験の可能性はすべてこの関係に基く、ということです。
3、すべての対象一般をフェノメノンとヌーメノンに区別する理由について
ここまで純粋知性の領域を詳しく調査してきましたが、この島(真理の領域)の周囲には、霧のかかった広大な仮象の海が広がっています。
そして、この霧は、その向こうにある新しい世界への希望を抱かせるのです。
次の仕事は、航海に出て、希望に叶うものが本当に存在するかどうかを調査することですが、その前に自身の住む島をもう一度振り返っておきましょう。
[次節の超越論的弁証論がこの航海にあたり、希望に叶うものが無いということを明らかにする批判的な作業です。]
ここまでの考察をまとめます。
純粋知性の原則は、経験から得られたものではないにもかかわらず、経験に対してしか用いることができないものです。
アプリオリな構成的(数学的)原則も統制的(力学的)原則も、経験を可能にする純粋な図式しか含んでいません。
経験を可能とする現象の多様の統一は、知性が(統覚に関係する)構想力の総合に根源的且つ自発的に与える総合的統一に由来するものです。
現象は、認識が可能となるための所与(データ)として、この統一とアプリオリに関係し、合致するものです。
アプリオリに真である知性のもつこれらの規則は、経験を可能にする根拠であるため、あらゆる真理(客体と認識の合致という意味での、つまり客観)の源泉となります。
このような批判的考察が明らかにすることは、単に知性の経験的な使用において普通に行われてきたことの反省にすぎず、詳細な探究に見合う価値(利益)はないと考えられるかもしれません。
しかし、単に知性を経験的に使用しているだけで己の認識の源泉を省みないなら、知性の領域の内部(および外部)には何があるか分からず、知性使用の限界を定めることもできないため、(超越論的な)探究が必要なのです。
知性が己の限界を知らないなら、自ずと知性は己の領域を踏み越え、妄想と化すことになります。
知性はそのアプリオリな原則や概念を経験的に使用できるだけであり、超越論的に使用することはできないのです。
[矛盾したことが述べられているように思えますが、ここで述べられる「超越論的」とは、「超越論的な観点から見て超越的な」という意味であり、「超越的に使用できない」と言っています。詳細は光文社古典文庫『純粋理性批判3』324頁を参照。「超越論的」という語はかなり広い意味をもっている(というより研究者の間でも未だ確定できていない)ため、文脈で意味内容を判断するしかありません。]
ある原則における概念の「超越論的使用」とは、その概念が物一般、そして物自体に適用されることであり、「経験的使用」とは、その概念が現象、即ち可能的経験の対象に適用されることであり、知性は前者としてしか使用できません。
概念が成立するには、概念(思考)の論理的形式と、概念に関係する対象を与える直観が必要であり、直観(素材)なしの概念(形式)は無内容で空虚なものです。
純粋直観が対象に先立つアプリオリなものであると言っても、その客観的妥当性を経験的な直観から得ることしかできない(経験的直観の)形式にすぎません。
経験的直観によって客観的妥当性を保証されない概念や原則は、いかにアプリオリに可能なものであろうとも、単なる構想力や知性による戯れです。
例えば、数学の純粋直観である概念「空間は三つの次元をもつ」「二点間には一本の直線しか引けない」は、アプリオリに心のうちに作り出すことができますが、現象(経験的対象)においてその指し示すものが確認できなければ、意義(指し示すもの)のないもの、即ち無意味な概念となってしまいます。
概念は感性化(概念に対応する客体を直観において示す)されねば、意義をもつことができないのです。
すべてのカテゴリー(純粋知性概念)と、そこから生じるすべての原則においても、これと同じことが言えます。
感性の条件(現象の形式)に関わらなければ、カテゴリーを実在的に定義することができず、その客体の可能性は得られません。
カテゴリーの利用は現象に限定されており、現象なしのカテゴリーは意義(指し示すもの)のない、客体との関係を失った無意味で理解不可能な概念となります。
[“この「実在的な定義」の概念はここで初めて登場するが、これは「名目的な定義」と対比して考える必要がある。カントは『論理学』において、「名目的な定義」を、「その対象の論理的本質を示すにすぎない」ものと定義している。「ただその対象を他の諸客体から区別するのに役立つにすぎない」ものである。これにたいして「実在的な定義」とは、「当該の対象の可能性を内的な諸徵標にもとづいて明示することによって、その客体をその内的な諸規定からみて認識するのに十分であるような定義」である。カントが『論理学』のこの節の注2で示しているように、「経験の対象は名目的な定義しか許容しない」のである。これにたいして実在的な定義は、その対象の「実在的な本質を含む」ものである。カテゴリーは純粋な概念であるから、これは概念的に名目的な定義を与えることができるだけであり、これに実在的な定義を示すことはできない。それには感性の直観を伴う必要があるのである。”~中山元訳『純粋理性批判3』光文社、496頁、訳者解説]
先に述べたように、純粋知性概念は超越論的(な観点から見て超越的に)使用することはできず、常に経験的にのみ使用できるものです。
純粋知性の原則は、可能的経験の一般的条件に関係することにおいてのみ、感覚の対象と関係できるのであり、そのような物を直観する方法とは無関係に物一般と関わることはできないのです。
知性は可能的経験一般の形式を先取すること以外は、何もアプリオリになしえず、それは、感性の限界内でのみ働く、現象を解明する原理でしかありません。
概念の使用の際には、直観の対象を概念に包摂するための最低限の形式的条件である判断の機能(図式)も必要です。
したがって、単なるカテゴリーの超越論的な使用は、対象をもてないという面だけでなく、形式的な対象すらもてないという面からも、無意味なことなのです。
(従来の存在論が考えるような)可能的経験の領域の外部のアプリオリな総合的原則は、存在し得ないのです。
感性の形式と知性の形式が異なるということが、カテゴリーを感性の対象を越えたところにまで適用できるかのような錯覚を生じさせます。
伝統的な学は、現象としての対象を感覚的存在「フェノメノン(感覚的存在、現象体)」と名付け、それに対し、感性的直観によってはとらえられない対象それ自体の状態、あるいは感覚の客体となり得ない可能的な物を、知性だけが対象として思い描く存在である「ヌーメノン(叡智的存在、可想体)」と名付け、区別します。
ここで問題となるのは、私たちの純粋知性概念は、この知性が思い描く存在(ヌーメノン)に関し意義(指し示すもの)をもちうるのか、そしてヌーメノンを認識する方法でありうるのか、ということです。
知性がある対象をフェノメノン(感覚的存在、現象体)として捉えると、同時に対象それ自体という表象を生じさせてしまい、これに対しても概念を作り出すことができると勘違いしてしまいます。
感性の領域の外部にあるヌーメノン(叡智的存在、可想体)を感性の領域内でのみ働く純粋知性概念によって捉えようとし、無規定な不定概念(存在X)としてしかとらえられないものを、規定可能な概念とみなすのです。
ヌーメノンを、「感性的直観の客体とならないもの」と理解する時、それは消極的な意味でのヌーメノンであり、「非-感性的直観の客体であるもの」と理解する時、それは積極的な意味でのヌーメノンです。
後者は、感性に拠らない特殊な直観、(神のような)知性的直観とでもいうようなものを想定することになりますが、私たち人間にはこのような人間と異なる直観の可能性すら知り得るすべはありません。
[人間の知性は感性の範囲内でしか機能しない制限的なものであり、神のような無制約の知性をもつ存在なら直接知性によって物自体を直観できる(知性的直観)のではないかという、想定。]
空間と時間における直観の統一との関りにおいてしか、カテゴリーは意義をもつことができず、感性的直観(空間と時間)のうちにないヌーメノン(物自体)に使用することはできません。
或る物が可能であるを証明するには、その物の概念に矛盾が無いというだけでなく、その物の概念に対応する直観によって存在を裏付ける必要がありますが、そのような手立てをもちません。
つまり、人間の感性(直観)と知性(純粋知性概念)の能力の外にあるヌーメノンは、積極的な意味ではなく消極的な意味で理解するほかありません。
感性についての理論は、同時にヌーメノンの消極的な意味での理論です。
ヌーメノンのように、概念が矛盾を含まず、(所与の概念の限界設定として)他の認識と関係しながらも、その客観的実在性を認識できないものを、「不定概念」と呼びます。
このような概念は、感性的認識の客観的妥当性に制限を加えるために必要なものであり、感性的直観の領域外の物自体をヌーメノンと名付けたのは、感性的認識の不当な拡張を明示するためです。
人間にとって、ヌーメノンの可能性は洞察不可能であり、現象界の外部領域はただの空虚です。
知性が感性の外部に広がろうとしても、そこに知性が確定的に機能するような直観は存在せず、ただ不定的な形でとらえられるのみです。
つまり、ヌーメノン(叡智的存在、可想体)の概念は、積極的に何かを定立するものではなく、感性の僭越を抑制するための限界概念であり、消極的に用いることしかできないのです。
積極的な意味で、対象をフェノメノン(感覚的存在、現象体)とヌーメノン(叡智的存在、可想体)に分けることも、世界を感覚的世界と叡智的世界と分けることも、できません。
ちなみに、これを叡智的世界ではなく知性的世界と呼んではいけません。
感性的-知性的という語は認識に関してのみ用いられるものであり、感覚的-叡智的という語は、(感性に限らない)何らかの直観の対象となる客体について用いられるものです。
物自体をヌーメノンと名付け、感性を制限することによって、同時に知性は己の限界を定めることになります。
物自体は、カテゴリーによって認識できるようなものではなく、「未知なる何か」と名付けるしかないようなものであると。
「感覚は対象を現れるがままに示し、知性は対象をあるがままに示す」と言われますが、それは超越論的(つまり超越的)な意味ではなく経験的な意味で理解せねばなりません。
人間においては、感性と知性が互いに結びついた時のみ、対象が規定されるのであり、知性だけでは直観をもたない空虚な概念が、感性だけでは概念をもたない盲目的な直観が得られるだけです。
4.付録:経験的知性使用と超越論的知性使用とを混同することによる反省概念の多義性について
「反省」とは、概念を得るために対象と関わることではなく、その(概念を得るための)主観的条件を発見するための心の状態のことです。
それは、与えられた表象がどの認識能力の源泉と、どのように関わるかの意識であり、これにより表象相互の関係が正しく規定されます。
最初に問題となるのは、それら表象がどの認識能力(知性あるいは感覚)において関係付けられているかということです。
判断の前、あるいは少なくとも後に、反省によって批判的に精査しなければ、習慣や好みによって結びつけられた感性のみの判断を、知性を起源とする真理性の根拠をもつものと誤って捉えてしまいます。
表象一般の比較を(比較がそこにおいて為される)認識能力と照らし合わせ、表象が感性的直観と純粋知性のどちらに属するかを弁別する働きを「超越論的反省」と呼びます。
表象(ひいては概念)の対の関係は、同一と差異、一致と対立、内的ものと外的もの、規定されるものとするもの(質料と形相)、があります。
この関係が正しく決定されているかは、その概念がどの認識能力(感性か知性か)において対を為しているかに依拠しています。
私たちは、客観的判断を下す前に概念を比較します。
例えば、全称的判断のためには同一の関係が、特称的判断のためには差異の関係が、肯定的判断のためには一致の関係が、否定的判断のためには対立の関係が必要です。
このようなものを「比較概念」と呼べるでしょう。
概念の内容(つまり対象となる物)の対の関係のあり方は、その物が認識能力のどちら(感性or知性)と関わっているかによって決定されます。
したがって、与えられた表象がどちらの認識能力と関わっているかを弁別する超越論的反省は、表象(ひいては概念)相互の関係を規定するために必要なものとなります。
物と物の関係がいかなるものであるかは、単なる概念そのものの比較によって決定できるものではなく、超越論的反省を介しその概念が属する認識能力を明らかにすることによって、はじめて決定できます。
それに対し、「論理的反省」とは、そのような表象の関係の出自を考慮せずにすべてを同質的に扱う単なる比較といえます。
それは、超越論的反省のように、表象同士の客観的な比較の可能性の根拠をもちません。
ですから、超越論的反省は、物についてアプリオリな判断を為そうとする際の義務なのです。
[「所与の表象とその源泉(認識能力)の間の関係」と、「表象(ひいては概念)間の関係」の二重の関係が語られています。後者(表象間)の関係は、反省によって前者の関係のどちらに属するものなのか、つまり感性(時間と空間)に基く表象(概念)間関係か、知性(純粋知性)に基く表象(概念)間関係かを区別しなければ、混乱したものとなります。感性内の概念間関係を知性において語ったり、知性内の概念間関係を感性において語ったりする錯誤です。ここから、この錯誤、見出しにある「経験的知性使用と超越論的知性使用の混同」の具体例であるライプニッツの理論が批判されます。見出しの「反省概念の多義性」の反省概念とは、先の四つの表象(ひいては概念)の関係である、同一と差異(量)、一致と対立(性質)、内的ものと外的もの(関係)、規定されるものとするもの(様態)を指しており、これは対象を客観的判断に導く純粋知性概念を用いる際に必要な諸表象の比較を受け持つもの(比較概念)です。知性使用の混同(超越論的と経験的の混同)によって、この比較概念が多義性をもってしまい(比較において曖昧な多義性は致命的)、そこから生じるものは誤謬を含んだものとなります。ライプニッツの陥った反省概念の多義性(詳細は割愛します)を解決するものが、先の超越論的反省による、概念に応じた場所(認識能力の何処に属するか)の識別であり、これを「超越論的場所論」と呼びます(アリストテレスの場所論-トピカ-を「論理的な場所論」とし、対比的に名付けたもの)。簡単に言うと、ライプニッツは現象と物自体を区別する批判的な視座をもてなかったため、知性の越権を許し、感性の重要性に気付かず、誤った理論体系を作り上げてしまった、という話です。]
超越論的分析論を終えるにあたり、よりその精度を高めるために、対象一般の無の概念について検討します。
当然それは、対象一般に関わる唯一の概念であるカテゴリーに準ずるものとなります。
a.量のカテゴリーは、全体性/多数性/単一性の概念であり、それに対立するのは、「皆無(何もない)」の概念です。後者は対象をもたない空虚な概念であり、単なる思考物です。ヌーメノン(叡智的存在、可想体)はこれにあたります。思考物は「可能なもの」として経験的に示すことはできませんが、矛盾なしに考えることができるため「不可能なもの」として示すこともできません。
b.性質のカテゴリーは、実在性(何かあるもの)の概念であり、それに対立するのは、(影や寒さのように)対象が欠けているという概念(欠如的無)です。
c.関係のカテゴリーは、実体の概念であり、それに対立するのは、実体をもたない直観の空虚な形式です。純粋空間や純粋時間がこれにあたり、直観は出来ませんが形式として想像される想像物です。
d.様態のカテゴリーは、可能性の概念であり、それに対立するのは、矛盾する(つまり不可能な)無の概念(否定的無)です。例えば、二直線から成る図形などです。
以上の無をまとめると、以下のようになります。
a.対象をもたない空虚な概念としての無(思考物)
b.概念の空虚な対象としての無(欠如的無)
c.対象をもたない空虚な直観としての無(想像物)
d.概念のない空虚な対象としての無(否定的無)
a.思考物は、矛盾しない仮構で可能とも不可能とも言えない概念で、d.否定的無は、矛盾する不可能な概念であり、共に空虚な概念です(前者は対象がない概念、後者は概念として不可能という意味で)。
それに対して、b.欠如無とc.想像物は、概念に対する直観の所与(データとなるもの)が空虚なのです(実体や実在の無い空虚な直観)。
第一部・完
第二部につづく
