無駄とは何か

人生/一般

人間の本質である無駄

人間は、完全に合理的で調和的な自然世界に生じた、非合理で非調和的な特異な存在であると、古くから考えられています。
今風の言葉で言うと、自然界に生じた一種の「バグ」であり、その本質は無駄を産出する存在であるということです。
例えば、ただの性行動を、無数の無駄(ロマンス)で装飾しなければ気がすまないのが、人間です。
単なるエサに、無数の無駄な加工を施した時、人間特有の食文化が形成されます。
無駄とは、人間の豊かさそのものです。
人間がその本質を、知的存在(ホモサピエンス)、作る存在(ホモファーベル)などと定義付けられるのと同じ権利で、「無駄な存在(ホモイヌティリス?)」と呼ばれてもよいでしょう。

 

豊かな社会の本質である無駄

これは、人間の社会においても同様です。
資本主義の本質とは、無駄な仕事(製品やサービス)を作りまくって、大量の金を回しまくることであり、それが経済的豊かさと文化的豊かさを実現します(昔の日本のように)。
しかし、社会全体では無駄が必要であるのとは正反対に、部分である個々のプレイヤーは、生産性向上のために無駄を省くことが必要になります(可能な限り無駄のない低コストで仕事を達成すること)。
つまり、「無駄を省いて無駄な物を作る」というのが、資本主義社会における個々のプレイヤーの最適解です。

 

取り違えられた無駄

ミクロ(個人や企業の経済活動)とマクロ(国の経済活動)を取り違えた経済政策によって社会全体が壊れてしまうように(当に今の日本)、「無駄を省く」という個々の最適解を良かれと思って全体に適用すれば、逆に社会は(無駄という豊かさを失い)貧しくなっていきます。
それは、無駄の本質を理解せずミクロとマクロを混同するマインドの面だけでなく、無駄を省くという行為を全体化(広範化)してしまうAI技術というテクノロジーの面でも進み、現代社会は徹底的に無駄を許さない社会へと変貌しつつあります。
現代人がコスパ・タイパを追究し、無駄を捨てること(断捨離)に夢中になるのは、当にそういうエートス(社会的性向)の表れでしょう。


 『ジョジョの奇妙な冒険』

やってこないユートピア

「AIと機械によって完全に合理化され、最大の生産性を実現した社会において、人間はただ遊んで寝ていればいい」というユートピアが来ると考えている人もいます。
しかし、彼らは人間のエゴイズム(自己中心的欲望)を舐めています。
必ず、誰かが力を独占しようとし、やってくるのは99.9%の極貧者とごく少数の超富裕層で構成された超格差社会、映画『ソイレントグリーン』のようなディストピアです。
無駄を省いた生産性の向上とは、仕事の数が減りひとつひとつの力が増すという事であり、持つ者が減り、持つ者がより力を得る、という構造を必然的に生じさせます。
「持つ者は、その持った強大な力を、持たない者に分け与え、皆が平等に遊んで暮らせるユートピアを実現する」などという性善説を私は信じることができません。

 

合理的な死

無駄を許さない徹底的に合理的な社会において、己の本質(無駄)を禁じられた人間は、翼を縛られた飛べない鳥のように、疲れ果て、心は病んでいきます。
そして、自ら、合理化された死(安楽死)を望む人が増えていくでしょう。


美しい映像と音楽の中で自主的に安楽死する施設、映画『ソイレント・グリーン』1973年

人間は、無駄な物を所有し、無駄な事に夢中になり、無駄に時を過ごし、無駄な思考や無駄な感情を発露する時、人間としての豊かさを実感します。
人間が、自然界に生じた無駄なバグであるなら、その無駄を大切にすることこそが、人間に与えられた使命となるでしょう。
無駄のない合理的で調和的な存在を目指すという事は、人間であることを捨て、物になるということに他なりません。

もし、AIが本当に賢いなら、真の合理性とは、合理と不合理の均衡であることに気付き、自らの手で自らを拘束し、制限をかけ、無駄が最大限発揮されるような無駄のなさを実現するよう、己を(最大化ではなく)最適化するでしょう。
自己批判に基く自己制御をできる者のことを、人は賢者と呼ぶのだから。

 

おわり


『天才バカボン』