見下しとは何か

人生/一般

観察者の優位性

人間は他人に観察(分析と評価)される立場に置かれた時、物のような受動的で不自由な存在になり、他人を観察する立場に立った時、神のように能動的で自由な存在になります。
いかに私が無力であっても、観察者の立場に立てば、有能な人間より上に立つことができます。
だから、多くの無力な人々は、必死で見る立場に居ようとします。
その際、他人に良い評価を与えることは稀で、多くの場合は悪い評価を下します。
なぜなら、動機が己の優位性を保つことにあるため、必然的にそうならざるをえないのです。
昨今の毒舌芸人や批評系YouTuberなどの流行や彼ら(例えば有吉やひろゆきなど)に対する憧れは、常に観察者(批評家)の立場に居る者の強さに対する希求の表れでもあります。

見下し合い

ですから、もし、他人の眼差しが気になったら、眼差しを向け返し、反対に他人を観察する立場に立てば、簡単に状況は反転します。
例えば、自身の容姿を見下されれば、反対に相手の醜い心を見下す、という具合です。[※注1]
しかし、そうなると、眼差しのパワーゲーム(見下し合い)のようになってしまいます。
それは、ゴ―ゴン(見られた者を石にする妖怪)に石にされない為に、自らゴ―ゴンになるという、何か不健康な解決方法にも思えます。
勿論、いきなり相手を殴ることは悪い暴力で、暴力を振るう者に対して暴力で返すことは正当防衛や正義と呼ばれるように、いきなり他人を見下す者を見下し返すことは、ある種の正当な振る舞いではあります。

好きなものへの眼差し

もっと健康的な解決方法は、「自分の好きなもの以外には眼差しを向けない」ということです。[※注2]
眼差しのパワーゲームなどという幼稚で無意味な戯事に参加しなければ、わざわざ汚い物を見る必要はなくなりますし、また、私の目つきや性根が悪くなること(妖怪化)もなくなります。
蝶々の美しい羽根を観察し目を輝かせる子供のような純粋な瞳で生きることができます。
横目で他人を見やったり、後ろの人を見下したりする暇はなく、真っ直ぐ自分の好き(理想・目的)に向かって一目散に走ることです。

また、自分が本当に尊敬している人の眼差し以外は、(運の要素を除けば)参考にならないため、無視するのが最適解です。
私の嫌いな者の眼差し(評価)を気にして行動するということは、嫌いな人間の理想(評価基準)に合わせるということであり、私は自ら自分の嫌悪する人間に成り下がってしまいます。
反対に、私の尊敬する者の眼差し(評価)を参照して行動するということは、尊敬する人間の理想(評価基準)に合わせるということであり、私は自分が尊敬するような理想的な人間に近付きます。

私の眼差しを生きる

私たち人間は、皆、それぞれの理想を持っています。
つまり、それぞれがそれぞれの評価基準を持っており、他人にそれを強制する権利はありません。
人間(他人)を見下すということほど、傲慢な行為はありません。
それは自らが(人間を見下ろす)神に成ろうという試みであると同時に、他人をすら自分にしようとする病的なナルシズムです。
しかし、ほとんどの人々は自分勝手な自分の理想(評価基準)によって他人を見下し、己の基準に合わさせようとします。
そこには無数の動機(欲望)があり、詳細に語る暇はありませんが、通底するものは(悪い意味での)利己主義です。

眼差しのパワーゲームで闘うにせよ、自分の好きに向かって一目散に走るにせよ、どんな選択をしても良いのですが、少なくとも見下されることに対し卑屈になったり傷ついたり、ネガティブな感情をもってはいけません。
私の人生は私の、あなたの人生はあなたのものであり、自分の人生を他人の理想に合わせる必要など微塵もありません。
勿論、私が他人に依存する必要がある場合は、嫌でも他人の理想に合わせなければなりません(例えば雇用関係は雇用主の眼差しに従う契約)。
つまり、他人の眼差しを脱し、私が私の人生を生きる(私の眼差しを生きる)ためには、自立して生きる力が求められるのです。
その努力なしには、何もはじまりません。

 

おわり

 

※注1
本頁で述べる「見下し」とは、あくまで眼差しレベルに留まるもの(悪口や嘲笑や蔑視など)であり、暴力的なイジメのような明確な実害が生じるものは含んでいません。明確な実害が生じるような差別的な行為に対しては、徹底抗戦しなければなりません。右の頬をぶたれたら、相手の左の頬をフルスイングで殴り返す必要があります(怒りというより人間としての尊厳を護るために)。

※注2
もう一つ健康な方法がありますが、一種の悟りのような境地で、あまり現実的ではありません。すべての理想(評価基準)をよく理解した上で寛容に受容する、つまり上下差のある「見下し」の視点を捨て、すべてを平面上に配置し同じ視点の高さにおいて平等に見るということです(相対主義とは何か、を参照)。例えば、人間の本質をホモサピエンス(知性的存在)と理想付ける人は知性の無い人間を見下し、ホモエコノミカス(経済的存在)と理想付ける人は経済力の無い人間を見下し、ホモモラリス(良心的存在)と理想付ける人は良心の無い人間を見下し、ホモリデンス(笑う存在)と理想付ける人は笑顔の無い人間を見下します。理想をもつということは、同時に非理想的なものに対して不寛容になるということであり、それが人間に向くとどうしても”見下し”が生じてしまいます。しかし、それらの無数の理想(評価基準)が等しく大切なものであると本心から思える人は、他人を見下すこともなく、自分が見下されても気にするなどということはありえなくなります。ただ、この境地に至るには相当の経験と知識を必要とするため、ごく一部の人しか実現できません。ですから、一般的には「自分の好きなもの以外には眼差しを向けない」という選択がベターであるということです。