叩かれる善意
最近日本では、善意というものに対して強い敵意が向けられるようになっています。
そのため、人々は自らの善意の発露に対し非常に敏感になり、善意を持っていてもそれを抑圧するようになりつつあります。
善意に対する敵意を生じさせる理由は無数にありますが、代表的なものを紹介した後、そのような敵意が善意にとってどのような意味をもつかを考察してみます。
理由一、倫理が経済の論理とバッティングするため
これは、昔からある問題ですが、伝統的な利他性を説く倫理と現代の資本主義の利己性の論理が、相反するものであるという事態です。
戦後日本の社会主義と資本主義の中庸のような政治経済政策と異なり、現代の日本は資本主義を先鋭化した新自由主義的なエートス(社会集団の特性・心性)で動いています。
それは、弱肉強食、適者生存等のイメージで語られるもので、社会の成員は他人を蹴落として自己の利益を最大化するためのゲームに参加します。
この際、他者を助けるような心性(善意)は、非常に邪魔なものと成ります。
人間の本質は、ホモ・サピエンス(知性的存在)、ホモ・ルーデンス(遊ぶ存在)、ホモ・ロクエンス(対話する存在)、ホモ・モラリス(倫理的存在)、ホモ・リデンス(笑う存在)、ホモ・アマンス(愛する存在)、ホモ・エコノミカス(経済的存在)など、様々語られ、これら特質の配分比によって、その社会集団や個人の人格特性が決定されます。
先鋭化した資本主義においては、ホモ・エコノミカス(経済的存在)に特化した人間に成らなければ、勝つことが出来ません。
特に倫理や愛など善意の基礎になるものは、そのような社会状況に対し明確にバッティングするため、必然的に敵意を生じさせ、叩かれる可能性が高くなります。
利己利益を最大化するゲームを楽しんでいる私の横に、善意の利他的な人間がいれば、非常に目障りで自身の集中力を削ぐだけでなく、罪悪感や、自己の生き方を否定する反省的思考を生じさせる可能性もあるため、排除したいという欲求が働きます。
理由二、善意に対する信頼が失われているため
インターネットの発達により情報の秘匿性が破られ、社会集団や人間の本性がより明らかになり、私たちは、善意の大半に底意(下心)があることを経験的に学習しています。
そのため、善意の発露に対し半ば条件反射的に警戒心を持ち、攻撃的にならざるを得ません。
「善意の裏には、必ず金儲けや売名や優越感などの利己利益が存在しているため、全力でそれを暴き、叩き潰してやろう」という、ある種の正義感が動機付けとなっています。
理由三、理想が肥大化しているため
現代人はメディアを通し多くの情報を獲得することにより、様々な理想が妄想的に肥大化しています。
例えば、アイドルやアニメやインフルエンサーなどの、過度に理想化された虚構的な異性像に接し続けるうち、異性に対する理想の基準が非常に高くなり、現実の異性を醜く感じはじめます。
空を飛ぶ美しい白鳥も、白銀の雪原に降りれば、汚い雑巾のように見える様に、純白(完全な理想)を基準にすれば、現実のあらゆるものは、汚いものと成ります。
それは善の基準においても同様で、豊富な情報によって頭が肥大化している現代の私たちは、異様に高い善の理想(基準)を持っており、どんな善意に対しても、真でない偽のものだと考え叩いてしまいます。
理由四、善意が豊かさの証しであるため
善意の発露は、豊かさの証しです。
自分以外の人の事を考え、利他的な行動を為せる人は、多くの場合、お金や時間など物的リソース(資源・資産)に余裕のある人です。
ですから、貧しい人にとって、善意は裕福さの”ひけらかし”に見えてしまいます。
物的に貧しい人の善意であっても、心の豊かさや余裕の表れとして捉えられるため、それもある程度は”ひけらかし”に見えます。
「善意=豊かさ(物、心)」と捉えられ、嫉妬を動因とする敵意が生じます。
理由五、関りを嫌っているため
善意による相互扶助は社会性の基礎ですが、現在そのようなつながりは行政や市場のサービスに代替的に置き換えられつつあります。
現代の日本では、人間的な関りを嫌っている人も多く、彼らにとって、善意は他人の人生に干渉するおこがましい行為、余計なお世話となります。
人間的なセンチメンタルな繋がりを嫌い、機械的なクールな繋がりを求める人間にとって、善意は非常に鬱陶しい消えて欲しいものなのです。
理由六、自分の優位性を確保するため
善意は基本的に賞賛されるものであるため、善意をもち褒められる者がいると、自分に劣等感を感じ、出る杭を打つように善人を叩きたくなるのが平均的な人間です。
そのため、その劣等感をコスパよく解消する方法が求められます。
どんな事例であれ、常に批判者の立場に身を置けば、何の努力もなしに被批判者(批判される対象)より優位に立つことができます。
例えば、災害ボランティアに行って活動した人を現実で上回るためには、それ以上の厳しい場所に赴き実践しなければなりませんが、その活動内容や動機などの問題点をあげつらい、批判すれば、私は暖かい部屋にいたまま、上から目線で、ボランティア活動に行った人を簡単に上回ることが出来ます(妄想の中で)。
理由七、善意に対する恨み
誰にも助けられることなく、孤独な戦いを強いられた人の半分は、その辛い経験が他人への思いやりに変わりますが、もう半分は、反対に、「お前らも俺と同じ目に遭え」というように、弱者の救済である善意の発動を許せなくなります。
氷河期世代に多い印象を受けますが、彼らは善意の発動に非常に敏感で、自己責任論の流行に一役買っていそうです。
「弱者は自業自得なので手を差し伸べる必要はない」という言葉の裏には、(助けて欲しかった時に助けてもらえなかった)善意に対する強い恨みと悲しみが隠れています。
彼らは心の底から自己責任論を望んでいるというより、善意への憧れ(と裏切り)が反転的な執着に成り(ストーカー化)、病的に善意を攻撃してしまっているように見えます。
理由八、性的欲求
バタイユはエロティシズムの本質を、美を汚すことだと述べます。
美しいお姫様や純粋無垢なお嬢様を暴力的に穢すことを主題とするアダルトメディアが多いように、善人を叩く際にも強い性的快楽が伴います。
一般的に人は、悪意を醜いもの、善意を美しいものと捉えています。
純粋なお人善しの女性が女性間のイジメの対象になりやすいのは、単に大人しく反抗しないからという事だけでなく、そこに強いSМ的なエロティシズムの性的興奮が伴うためです。
理由九、誤った善意であるため
何が善で何が悪かを判断することは、非常に難しい作業です。
仮に、その判断が正しかったとしても、理念通りの結果を実践的に現実にもたらすことは、さらに困難な作業です。
例えば、私は健康に善いと思って為したことによって自身の健康を害し、私は善かれと思って為した教育によって子供に精神的害を与えてしまいます。
世の中、思い(理念)通りに行くことの方が稀です。
私の善意は、かなりの確率で間違っており(理念的にも実践的にも)、叩かれても当然なのです。
人々は、安直な(深く思考もせず実践的能力も有さない)善意の裏側にある傲慢さを嗅ぎ取っているため、さらにそれが善意への敵意を増幅させています。
理由十、善意が危険なものになってきているため
心の余裕のある社会であれば、人は受けた善意に対し感謝で応えます。
心の貧しい社会であれば、人は善意を受けることを当然のこととみなし、厚顔な態度で応じます。
心の死んだ社会では、善意を与えるお人善しで豊かな人間を、陥れたり、攻撃を加えたりします。
2007年中国の彭宇事件(転倒し大怪我を負った老人を助けた若い男性が加害者とされてしまった事件)によって、中国内で善意が危険なものとみなされ、社会全体の倫理観の低下を招きましたが、現在の日本もそれと似たような状況になってきています。
善意に危険なイメージが付きはじめ、自身は善意を抑制し、他人へは善意を慎むよう警告し、敵意とまでは言いませんが善意に対する冷ややかな空気が漂っています。
理由十一、特異なものを許さない同調性があるため
海外と異なり、日本では、「この問題分かる人」と先生に訊かれても、自身が目立つことを恐れ、生徒はあまり手をあげません(みんな答えは知っているのに)。
学校であれ会社であれ、その集団内の基準において平均的であること(特別でないこと)が求められ、それに反する者と成る場合、イジメなどの何らかの制裁が待っています。
善意が稀な社会においては、善意は非常に目立つものと成るため、同調を破る者に対する敵意と圧力が生じます。
クラスでイジメがあったり、通勤電車で人が倒れたりして、「助けたい」と善意が沸き起こりそうになっても、私は目立つことを恐れ、善意を抑圧し、助けに行くことが出来ません。
理由十二、宗教アレルギーの人が多いため
日本で人助けをすると、よく「宗教やってるんですか?」という言葉が飛びます。
日本では「宗教やってる人=頭の変な人」というイメージが非常に強いので、他人の善意を貶めるには、有効な言葉です。
善意を説くもの=宗教、宗教=頭のおかしいもの、善意をもつ者=頭のおかしい者、という観念の連結が生じるため、人は善意を「宗教臭い変なもの」として嫌います。
新興宗教の下手で活発な宣伝活動によって、善意が極めてダサく、キモく、クサいものとしてイメージ付けられてしまっているので、嫌悪感が生じても不思議ではありません。
私たち日本人は「愛」や「善」や「幸福」などという言葉に異常なほどの拒否反応を示すようになっていますが、新興宗教の影響も大きいでしょう。
結語
これらは思いついたものをいくつか挙げただけで、人間が善意に対し敵意を持つ理由は無数にあるでしょう。
程度の差はあれ、いつの時代も善意と敵意はセットであり、善意は常に少数派で叩かれる運命にあります。
「掛け算ばかりのこの世じゃ引き算する奴美しい」と、高畑勲のアニメ映画の歌詞にあるように、善意の発露が厳しい時代であればあるほど、善意はより輝き、美しいものと成るでしょう。
叩かれる善意、嫌われる善意、という半ば不条理な現実に直面し戸惑う人達(善意は良いもの素晴らしいものであると教育されてきたはずなのに)をある程度ハラオチさせ、不条理感からくる不安をいくらか減じられるのではないかという意図で、この頁(ページ)を書いています。
現代の日本では、善意は他者の目につかないように発露するか、ツンデレ風の偽悪的な装いに隠して発露させねばならないという、歪んだものと成っています。
普通に善意を発露すれば叩かれ、それを回避するためには捻った戦略が必要という、非常に面倒くさい状況にあり、「じゃあ、もういいや」と、皆が善意にフタをしはじめています。
「善意に対して敵意をもつような捻くれた人間の批判などどうでもいい」という独善的な姿勢を取る人も多いですが、それはそれで問題です。
善意に対する敵意の大半は、反省の継起を欠いた善意(独善)がもたらすものだからです。
善意に対する敵意が醸成される前には、必ず善意の傲慢があります。
どんなに醜い動機から生じたものであれ、善意に対する具体的な批判は的を射ているものが多く、重要なフィードバックです。
おわり