社会の変化と共に変わりゆく人格
人間は社会的存在です。
良く言えば、個々の成員は、社会という巨大な船のいち乗組員として活躍します。
悪く言えば、社会という巨大な機械のいち歯車です。
ですから、その社会がいかなる政治・経済・宗教的体制などを採るかによって、成員に求められる人格的特性も異なってきます。
その社会が円滑に機能するような人格が、両親や学校やメディアや世間などを通した教育によって形成されます。
もし、社会の機能を損なうような人格特性をもつ者がいれば、様々な社会的制裁によって矯正や隔離が為されます(出る杭を打って型にはめる)。
戦後から1980年頃までの日本は、日本型社会主義などとも呼ばれるように、資本主義と社会主義の折衷的なものでしたが、それ以降、徐々に資本主義として純化する方向に進み、2001年新自由主義路線に舵を切り、社会主義的色合いはなくなります。
これにより、日本人に求められる人格特性も変わってきます。
例えば、宮崎アニメなどに顕著に見られるように、彼らの世代にとって、労働者は美しい者、不労所得を貪る資本家は醜い者として認識されることが多く、人格としても共同体的な特性(助け合いの心)が優位になります。
しかし、経済体制の変化と共に価値観も変化し、現在では、不労所得を得る資本家はスマートで優秀で美しく、汗水たらす賃金労働者は無能で醜い負け組として認識されることが多くなっています。
新自由主義的価値観(個人主義的競争主義)を否定するような共同体的な特性(善意、利他、共助、平等など)は、綺麗ごとだ偽善だ負け犬の傷の舐め合いだなどと攻撃され、現代の日本人は人を助けることに対し萎縮していることが統計的にも明らかになっています。
このように、社会が変わると、人格のベースも変わってきます。
コスパ・タイパにこだわる現代日本人の人格特性も、そのような変化のひとつです。
人生の資産ゲーム化
1990年代から、労働者が資本家側に回るためのハウツー本がベストセラーの常連となってきます。
それらが共通に述べることは、第一に、「(汗水たらさない)お金儲けは汚い」という前世代的な発想をリセットし心のリミッターを解除することと、第二に、人生の全般を資産的に管理することです。
先ず、第一の面。
例えば、「働き者の手は美しい、素晴らしい」という、トルストイの小説や宮崎アニメに出てくる言葉は、私たち労働者の存在価値を上げ、自己の生き方を正当化してくれる癒しの言葉です。
しかし、それは同時に、労働者が勝手に悲惨な自己の境遇を自己肯定し、労働者の地位に甘んじ続けてくれる、資本家にとって極めて都合の良い言葉です。
ですから、貧しい労働者を美化するような考えは、新自由主義的な経済政策の中で生きる現代の日本人にとって呪縛の言葉に成る訳です。
次いで、第二の面。
人生は選択の連続によって成り立っています。
人は何かを得るという選択をすると同時に、必ず何かを失います。
人生における選択の全般を金銭的に定量化し、失う額と得る額を貸借対照表的に管理すれば、必ずお金持ちに成るはずです。
例えば、貧乏な人は車を買う際、カッコいいからとか、CМで見たからとか、資産的な価値を全く考えずに感情で買いますが、お金持ちは資産的に値上がりしそうな車を選びます。
常に自分の支払ったコスト以上のリターンが返ってくる選択を心掛けることによって、誰でもお金持ちに成れるという訳です。
それは賃金労働者が、マインドセットを資本家と同じものに変え、人生を資産ゲームとして捉え、あらゆる選択においてその決断が後に資産になるか負債になるかを考えながら生きることです。
このような資産ハウツー本的な考えは、お金の勉強を謳うYouTuberや最近流行の金融リテラシー教育などを通して、若い人たちにも浸透しています。
もはや私たちは、友人の選択も、趣味の選択も、真実の選択も、倫理的な決断も、自身の性格の選択も、お金の価値に換算し、支払うコストとリターンの差が最も大きい(つまりコスパのよい)方を選ぶのです。
人生そのものが人生ゲーム(ゴールした時点で最も資産の多い者が勝つスゴロク)となるのです。
現代日本人の多くは賃金労働者でありながらも既にマインドは資本家であり、あくまで賃労働は資本家に回るためのステップにすぎず、労働は美しくも素晴らしくもない受験勉強のような泥臭い苦行と考えられ、労働者に甘んじ続けている人間は、人生の受験に合格できない社会不適合者(負け組)のように扱われます。
現在の日本でブルーカラー的な賃金労働に人が集まらないのは、肉体的にきついという面だけでなく、他人にそのような目(負け組)で見られることを忌避しているという面もあります。
コスパ・タイパ批判の本性
ですから、現代の日本人が何にでもコスパ(コストパフォーマンス)を求めるのは半ば必然です。
「タイムイズマネー」とも言うように、お金と時間は変換されるため、当然コスパはタイパ(タイムパフォーマンス)をも要請することになります。
社会状況からして、コスパ・タイパを求めることは当たり前であって、別に非難されるべきことではありません(個人を責めても意味が無い)。
そもそも、「無駄こそが豊かさ」などと言ってコスパ人間を批判する人も、よく見ると同じ穴の狢です。
彼らは多くの場合、「より大きなリターンを得るためには目先のコスパを無駄にした方がより得になる」と言っているだけです。
目先のコスパに捕われ大した資産を築けない無能な資本家を、大局を見て資産を動かせる有能な資本家が批判しているだけです。
短絡的なコスパに躍起になる余裕のない資本家もどきが、哀れに見えるのです。
資産家のお坊ちゃまお嬢さま作家や思想家に限って「働き者や貧乏は美しい」と述べるのと同様、根っからの資本家マインドを持った者に限って「無駄こそが豊かさ」だと述べるのは、皮肉なものです。
彼らの価値感は、メタ消費(ボードリャール)にすぎません。
「貧しさ」や「無駄」が、より高級なステータスなのです。
由緒ある富裕層が、ギラついた新興成金との差を見せつけるために、あえて質素な格好をするのと似ています。
喩えるなら、メーターが振り切れて(一周して)、本当はメチャクチャ早い速度で走っているのに遅く表示されているような状態です。
「貧乏は美しい」「無駄は素晴らしい」と述べる富裕層は、真にそう思っているのではなく、その振り切れた余裕によって貧乏や無駄を称賛しているにすぎせん。
貧乏とはかけ離れた存在であるからこそ、無責任に貧乏を賞賛できるのです。
彼らが、成金的スノッブ(ひけらかし)やコスパ人間を蔑み、貧乏や無駄を(メタ)高級ファッションとして格好よく着こなしているからと言って、私たち一般人はそれを真に受けてはいけません。
凡人にとって、貧乏は悲惨であり、コスパは非常に大切なものです。
ストア(精神を豊かにすれば物的な豊かさなど全く必要ない、と説く古代ギリシャの哲学)の哲人にでも成らない限り、それが普通です。
本当の意味でコスパにこだわる
コスパを、「金銭的に定量化された上での損得の度合い」としてではなく、広義に「行動の最適化、合理化、無駄の排除の度合い」と捉えるなら、人間が何かを目的として生きる(つまり未来を志向する)動物である限り、コスパ・タイパは必須のツール(手段)です。
例えば、仏教では無目的に生きること(無為自然)を目指すことが多いですが、それは未来や目的を捨て現在のみを生きるということではなく、コスパ・タイパの完全化によって、未来の目的と現在を一致させることです。
喩えるなら、熟練の和菓子職人の一切の無駄がない流麗な動きは、コスパが完全に達成された悟りに近い状態です。
「美しい和菓子」を目的とせず、ただ無目的に色の付いた餡子を粘土遊びのようにこねくり回す子供のような単純な境地が悟りである訳ではありません。
自分の人生の現実の軌道が、自分の人生の理念(理想、目的)の軌道と合致している状態が、人間にとって安住できる幸福な時間であり、そのような状態が時に悟りと呼ばれます。
つまり、コスパ(広義)の実現は、人生の質を上げ、かつ人生を充足させるために必要なものなのです。
広義のコスパ・タイパに問題があるとするなら、それが本当の意味で利用されていないという点においてです。
先述のコスパ人間に対する批判も、この延長にあります。
「飲み会なんてコスパ悪いので参加しません」と言う新入社員の近視眼的コスパ(後々損失になるコスパ)に対し、日本の会社の独特の慣習(コネ社会)を理解しているベテラン社員は、鳥瞰的なコスパから「飲み会は(全体的に観て)コスパ良いから来た方がいい」と諭します。
新入社員は、コスパ・タイパの選択において誤っているにすぎず、彼らのコスパ思考そのものが悪いわけではありません。
新自由主義的自己責任論の激しい競争社会に巻き込まれて、人々が成功(目的の達成)に対し前のめりになりすぎ、コスパ・タイパの選択において非常に誤りやすい状態になってしまっているということです。
人間は、必死になればなるほど近視眼的になり、正しいルートを全体的に把握できず、迷子になってしまいます。
そういう現代日本人の痛々しい姿を見た、余裕のある人々(富裕層やインテリ層や年配者)は、それを「コスパ志向(そのもの)が悪い」と勘違いし、批判する訳ですが、問題の本質は近視眼的思考の方であり、コスパ志向そのものではありません。
「コスパ志向がデフレの温床」なのではなく、「近視眼的コスパ志向がデフレの温床」なのです。
全体(個人の人生全体および社会全体)的なコスパを考えるひとであれば、ファストフードやファストファッションを選ぶ可能性は小さくなります。
おわりに
コスパ・タイパは、現代の日本人にとってとても大切な思考です。
その大切なものを有益に使い、有害に働かせないよう、常に全体を見てコスパ・タイパを判断しなければなりません。
おわり