信念≒真実の世界
本頁で述べる「信念」とは、その人が「信じている事柄」を指しています。
例えば、私は「地球は丸い」という信念をもっています。
世界の物事を徹底的に疑う立場を懐疑論といいますが、懐疑論的に言えば「信念」と「真実」はニアリーイコール(≒、ほぼ同じ)でつながるものと考えられます。
世の中に確実な真実など無い、だからこそその人の持つ信念そのものが即ち真実である、ということです。
特に現代は、テクノロジーによって真実と虚構が混ざり合い、インターネットの爆発的な普及によって真実を決定し発信していた権威(主要メディアや学校や行政機関など)は失墜し、哲学者に限らず多くの一般人が懐疑論者になっています。
今の日本では、権威の発信(例えばコロナウイルスに関する政府や医師会の大本営発表)を、確実な真実だと信じている人の方が少ないでしょう。
信念の基礎にある欲求
信念(真実)を決定するのに必要なのは「論理的正しさ」です。
しかし、私たちは多くの場合、論理以外の様々なものを基礎にして信念を決定しています。
よく、「人は正しいものを信じるのではなく、信じたいものを信じる」と言いますが、その信じたいという欲求(~したい)の根にあるものによって、その人の信念の基礎が構築されています。
例えば、以下に示すようなものです。
・自分の利益になる事柄を信じる人(金銭の欲求)
・容姿の良い人の語る事柄を信じる人(美あるいは性の欲求)
・伝統に沿う事柄を信じる人(安定の欲求)
・権威が発する事柄を信じる人(依存の欲求)
・批判的である事柄を信じる人(反抗の欲求)
・暴力的に与えられる事柄を信じる人(安全の欲求)
・皆が褒めるであろう事柄を信じる人(承認の欲求)
・何であれ与えられた事柄を信じる人(怠惰の欲求)
・
・
以下、延々と続く
人間が無数にもつ欲求の数だけ、信念の基礎があります。
・論理的に正しい事柄を信じる人(真理への欲求)
などという正統派の人はごく僅かで、九割九分九厘、論理とはまったく異なる基準によって信念を決定しています。
具体例
多くの日本人が、民主主義と資本主義は正しいものであるという信念を持っていますが、彼らに民主制と独裁制の違いや資本主義と社会主義の違いなどの根本的質問をしても答えられません。
つまり論理的に検討し正しいと判断し「民主主義と資本主義は正しい」という信念をもったのではなく、みんなが言ってるから(同調の欲求)、学校でそう習ったから(依存の欲求)、そう言っておかないと攻撃されるから(安全の欲求)、なんとなく(怠惰の欲求)というような、論理とは異なる基準によって信念(真実)を決定しているのです。
反対に、徹底的に論理によって真実を決定しようとした古代ギリシャのソクラテスの述べる事柄を信じたポリスの人々は一部で、概ね二種に分かれます。
一方は、インテリ層の裕福な若者(いわゆるお坊ちゃま)で、もう一方は、ディベートで相手を打ち負かすことをライフワークにする社会の捻くれ者(今でいう西村博之氏みたいな)です。
前者は、高等遊民であるがゆえに利害的関心なしに学的探究を為せる地位にあり、「真理への欲求」に従い、純粋にソクラテスの論理的言説を信念(真実)として採用することができました。
後者は、論理のラップバトルで勝ち、「反抗の欲求」「優越の欲求」などを充たすために、ソクラテスの言説を信念として採用したにすぎません。
ガリレオの時代の利害関係と私たちは完全に切り離されているため、私たちは論理に従い、地動説を信念として採用することが容易にできます。
しかし、当時の人々にとって天動説は様々な欲求(利益や安全や優越の欲求など)を満たす信念(真実)であったため、それを捨てることなど決してできません。
実際、現代の私たちも、自分たちの欲求充足を破ろうとするソクラテスやガリレオのような論理的な人々を、社会的に抹殺しようとする姿勢は変わりありません。
いかに論理的に正しくても、頑なに天動説にしがみつき、ガリレオを火あぶりにしようとした人々と同じことを、現代の私たちも無自覚にやっています。
重要なのは信念の内容以上に語る者と聴く者の欲求
ある信念(真実)が提供された時、その内容以上に、それを発する者が誰なのか、その発信者がいかなる欲求を持っているか、を考慮した上で、その信念を採用するかどうかを判断する必要があります。
「同僚のA子さんは悪い人間だ」という信念を先輩のB子さんに提供された時、その提供者をよく観察すれば、真面目で器量の良いA子さんに対しての嫉妬の欲求から生じている誤った信念(論理的に正しくない信念)であることを見抜くことができるかもしれません。
しかし、それと同時に私の欲求も考慮しなけばなりません。
A子さんは容姿が美しくB子先輩は醜いがゆえに、美あるいは性の欲求に従い、B子の信念を疑い採用しないだけかもしれません。
信念の内容が完全に論理的に判断できるものであれば良いのですが、多くの場合情報不足なので、発信者の欲求と受信者(私)の欲求を加味した上で、判断する必要が出てきます。
いかに論理的な訓練を積んだ人であろうと、様々な欲求によって信念は捻じ曲げられます。
その認知の歪みを自覚的反省的に修正するしか方法がないのです。
デビルマンからミイラ取りへ
論理を基礎とするはずの信念(真実)に対し、九割九分九厘の人が、論理を基礎とせず信念として採用しているということは、裏を返せば、真実に関する論理的説得はほとんど無力だということになります。
「正しいものではなく信じたいものを信じる」のが大勢なのであれば、正しい信念(真実)を広めたい場合、大勢の人々の欲求を考慮し、その欲求を充たすような仕方で真実を発信するしかありません。
論理的正しさに従う正しい信念を伝えるために、論理とは矛盾するものや反対のものや無関係のもの(詭弁、情動、金銭、暴力、羞恥、劣等感、美、性など)を駆使するということです。
そうすると、善を実現するために自ら悪となり戦う永井豪の漫画デビルマンのように、非論理的手法によって論理的なものを普及するという手段を取らざるを得ない訳です。
実際、そういう手法(戦略的道化芝居)が採られることも多いのですが、ミイラ取りがミイラになる様に、非論理的なものに呑まれ、最終的には本当のデビルやピエロになってしまうことも多々あります。
永井豪『デビルマン』講談社 1973年
正しい信念を持つ稀有な人
教育によって、論理を基礎として信念を決定できる人を増やすことが最も適切な方法ですが、それには時間が非常にかかる上に、個々人がもつ様々な欲求より真理への欲求を優先するよう矯正するという困難が生じます。
利益に関わる実践的な探究を奴隷の学問と見下し、純粋な真理の探究を高貴な学問と考えたアリストテレスは、自らが高い地位にあったからこそそう考えられたとも言えます。
裕福な人間と異なり、様々な欲求が充たされない私たち奴隷貧民に、それら充たされない欲求を捨て置き、何の実践的欲求充足にもならない真理への欲求を充たすことを優先しろと言われても、できるものでもありません。
つまり、正しい信念(真実)を持つことのできる人間は、様々な欲求を充たされた物的および精神的に余裕のあるエリートか、求道的な訓練によって諸欲求(煩悩)を捨て真理への欲求に特化された聖人かのどちらかです。
現代の致命的な問題は、前者から富裕層特有の矜持や使命感(ノブレス・オブリージュ的な)が失われ、特に日本の特権層や為政者は十分諸欲求が充たされているにも拘らず、真理への欲求を踏みつけ、際限なく下賤な奴隷の欲求(カネ・女・権力など)を追い求め続けているという悲惨です。
後者(聖人)に関しては、望むべくもないでしょう。
死刑によって脅され、生涯をかけて得た正しい信念をガリレオは捨てたわけですが、それが普通です。
ソクラテスのように、正しい信念を捨てるくらいなら処刑された方がマシだと言って死ねる特殊な人間は極少数であり、社会の人々にそんな”知の聖人”に成ることを期待するのは、夢物語にすぎません。
人生の選択
程度の差はあれ、私たちは日々、ガリレオのように、甲(天動説)を信念として採用すれば富と地位が与えられ、乙(地動説)を信念として採用すれば処刑される、というような、欲求の利害得失に関わる信念の選択を迫られています。
論理的に誤っていたとしても、その上司の信念を採用しないと出世できないような状況にある時、私はその信念を採用すべきでしょうか?
このような日常的な信念選択の積み重ねが私の世界を構築し、誤った信念に染まった虚構の世界で生きるか、正しい信念で構成された現実的な世界で生きるかが決定されます。
映画『マトリックス』のように、虚構の世界の方が生き易く、現実の世界は困難であるのが普通です。
しかし、人生や幸福の価値は、生き易さではかれるような単純なものではありません。
敢えて困難な現実を引き受けることによって、輝く人生や幸福もあるはずです。
“知の聖人”になど成る必要はありませんが、せっかく人間にのみ与えられた知の能力(真理への欲求)を発揮(充足)しないのは、神様に与えられた翼を使わずに幸福に成ろうとする飛ばない鳥のようなものでしょう。
むすび、村はずれの救世主
人間を別様に定義付ければ、「可能性の動物」です。
人間は動物と神の間にある存在などとよく言われます。
何の文化もない原始状態に置けば、オオカミに育てられた子供のように動物に近い状態になりますが、訓練次第(文化的蓄積と個人的蓄積の両面において)で非常に高度な知的能力を発揮し、神のように地球上の全生物を絶滅させたり、無から人間や小宇宙を作り出してしまう可能性すら持っています。
各人間は、動物と神の間の非常に広いグラデーションの間に分布しており、「真理への欲求」を重視する人間は相当の訓練(文化および個人)を積んで人間的能力を開花させたある種の”外れ値”にあるごく少数の者にすぎず、真理をなおざりにする者がむしろ普通です。
真理を追究する者(外れ者)が無視されたり迫害されたりするのは必然であり、何らかの理由で人々の「真理への欲求」が他の欲求より重視される状況が来ない限り、世間に居場所はありません。
例えば、漫画『ドラえもん』において、普段採用される信念(真実)は、出木杉君の正論ではなく、ジャイアンの暴論です。
日常においては、真理への欲求より安全や利益への欲求(殴られたくない、権力の威に授かりたい)が重視され、ジャイアンの誤った意見が信念として採用されます。
しかし、大長編ドラえもんの大冒険で危機的な状態に陥り死が迫った時、ジャイアンの暴力に対する恐れや権威の威光などより、出木杉君の正論によって命が助かる方法を見つけることの方が重視され、人々の内に、真理への欲求が他の欲求を押しのけ浮かび上がってきます。
真理を追究する人とは、人々に馬鹿にされながらも、黙々とノアの箱舟を準備する人のようなものです。
危機に陥った一時にのみ必要とされ、一瞬の感謝の後、危機が去ればまた無視・迫害される存在です。
そういう稀有な人が集団内にどれだけいるかによって、その社会集団の持続可能性が決定されるとも言えます。
人々(社会)のために、自らデビルや道化になってでも真理を普及させようとするダークヒーローもいれば、村の外れで黙々と箱舟を作る名も無きヒーローもいます。
私たちは自ら真理への欲求を重視する人間に成れなくとも、そういう陰のヒーローを迫害しないこと、邪魔をしないこと、陰ながら応援することなどは出来るはずです。
おわり