はじめに
社会というものは、人と人との間に物やサービスなどの「交換」が始まる時に成立します。
そして、よりこの「交換」を便利にするものが貨幣であり、貨幣の成立は社会にとってほぼ必然といえます。
現代において世間一般に流布している基本的な貨幣観は、古代ギリシャの時代(主にアリストテレスの貨幣論)からあまり変わっていません。
その考えをキーワードで述べれば、交換、保存、必要の三点で、順に説明します。
その後、お金を持つことの意味について考察します。
交換と保存
例えば、未だ貨幣の存在しない物々交換の世界で、私が服屋であったとします。
私は服しか作れないため、晩ご飯の魚を得るために猟師さんのもとへ服を持って交換に行きます。
しかし、猟師は服はあるから要らない、船を補修するための木材が欲しいといいます。
それで私は木こりのところへ行って服と木材を交換してくれと言うと、服は要らんから酒をくれと言います。
結局、造り酒屋まで行ってようやく服と酒を交換してもらえ、今度は来た順を逆にめぐり交換して、晩の魚にありつけます。
これでは非常に非効率な交換になってしまいますので、皆が共通に必要とするものを基準商品にして交換を行おう、ということになります。
すべての交換において等価に働く媒介物があれば、非常に便利です。
「普遍的に同等の物」という意味で、「一般的等価物(general equivalent)」などと呼ばれます。
ちなみに日本では、長い間「お米」が一般的等価物の役割を果たしていました。
例えば、誰もが毎日必要な「米」を交換の軸とし、服1着=米10kg、魚1匹=米2kg、木材一本=米50kg、酒1瓶=5kgと定めたとします。
そうすれば、わざわざ物々交換のはしごなどせずとも、家にある米2kgのストックを猟師のところへ持っていって、魚を米で買えばよいだけです。
しかし、いくら保存の利く米でも保存期間には限界があり、また、価値が数量的な大きさに変換されるため、家1軒=米3000kgを求められるような事態が生じ、その場合、庶民はストックの問題でどうしようもなくなります。
米では一般的等価物としては不完全です。
一般的等価物として機能するための条件がいくつかあります。
耐久性があること、分割したり合一したり出来ること、希少であり価値の比重が高いこと、生活必需品でないこと、などです。
そこで歴史的に最も一般的等価物として適切だとして採用されたものが「金(ゴールド)」です。
劣化することなく、可塑性があり、小さく、他の物品より希少で、他の用途で消費される可能性の小さい、つまり極めて高い「保存」の機能を有したものです。
家1軒を欲しい時でも、腐らず場所もとらない金の大判一枚を持って行けばいいだけなので、非常に効率的です。
金に限らず、その社会において固定化された一般的等価物を「貨幣」とよびます。
英語で貨幣を指す「マネー(Money)」の語源は、古代ローマ(紀元前4世紀)の貨幣鋳造所であった「ユーノー・モネータ(Moneta)神殿」です。
日本で貨幣を指す「お金」の語源は、「金(ゴールド)」そのままで、日本人にとって貨幣を溜めることは、ある種金塊を集めるような物的なイメージが先行し、貨幣の本質である抽象性を捉えにくくしています。
必要と供給
以上のように、「貨幣」は、普遍的な交換価値を実体化したものです。
そして、この交換価値を決定するものは「必要(需要)」です。
魚屋が服を沢山所有していれば、魚屋にとって服は必要のない無駄なものであり、服の価値は下がり、服100枚積んでも魚1匹と交換(供給)してもらえないかもしれません。
人々が必要としないものに交換価値は付きません。
ですから、アリストテレスは「貨幣」を、社会的な約束に基づいて姿を変えた「普遍化された必要」であるとも述べます。
「必要(を満たす権利)」を普遍化(一般化・抽象化)したものを貨幣として所有できるからこそ、空間、時間をまたいだ幅広い交換が成立するのです。
もし、人が、イマ必要なものしか交換しない、ココで必要なものとしか交換しない、あるいは、イマ作れるものでしか交換できない、ココで作れるものでしか交換できないのであれば、交換の機会というものは非常に限定されたものになってしまいます。
自分が持っているものを相手が必要とし、かつ、相手が持っているものを私が必要とする時に交換が行われる訳ですが、そんな一致の機会はなかなかありません。
例えば、仕立て屋の私がラーメンを好きな時に食べられるのは、、いつでもどこでも出し入れできる抽象化された「必要を満たす権利」を貨幣として所有しているからこそです。
貨幣なき交換の場合、ラーメン屋が服を欲しくなるのを待って、かつ、その時に私がラーメンを食べたくなる必要がありますが、そんな機会は極少です。
以上が、貨幣の基本的機能である、交換、保存、必要(と供給)です。
では、このような機能をもつお金を所有することは、私たちにとってどんな意味をもつのでしょうか。
お金持ちは善い人?
他者の必要(需要)を満たす(供給する)ことでお金が手に入るため、仕事(お金を稼ぐこと)とは、「他人を幸せにすることだ」とか、「社会に貢献することだ」などと、よく言われます。
しかし、そうだとするなら、年収200万円の人より年収2000万円の人の方が、他人をより幸せにした善い人だということになります。
しかし、世間では、お金持ちを善い人だと感じるよりも、お金持ちを悪い人だと感じる人の方が多いのが実情です。
問題となるのは、現代において需要の多くが、供給サイドによって人為的に作り出されているということです。
自然に生じる人々の必要(需要)に応えることは、当に社会貢献ですが、そんな限られた需要を満たすだけでは、そう簡単にお金持ちになることは出来ません。
供給側に都合の良い需要を自ら戦略的に作り出すことによって、自然な需要と供給ではありえないほどの大きな利益を得ることができます。
巧みな広告戦略によって、企業はブームを作ることも出来れば、欲しくないものをすら欲しいと思わせることもできます。
例えば、メディアを介し、消費者のルックスに劣等感を抱かせることで、儲けようとするアパレル業や美容整形業。
恣意的に価値基準を変えることによって、需要を創出することもできます。
例えば、安全基準や診断基準を厳しくすることで不安をあおり、不要な工事や治療を求めさせる建設業や食品業や医療業。
需要を創出する方法は様々あり、私たち消費者の買う多くのものは、本当に必要なものや自分の意志で選んだものではなく、焚きつけられ、駆り立てられ、”買わされた”ものです。
程度の差はあれ、このようなマッチポンプ的な方法で需要と供給を操作し、フルスロットルで利益を最大化しようとするのが、良くも悪くも資本主義です。
自然発生した伝染病の治療という需要の為に、新薬を開発、供給し、大きな利益を得る製薬会社は英雄であり、その利益の大きさは社会貢献の証しとも言えます。
しかし、自らが儲けるためにこっそり伝染病のウイルスを市中に撒き散らす製薬会社は、まさに悪魔です。
コロナ禍に、製薬会社陰謀論が流行したのは、人々の心の中にお金持ち(人工的に需要を作り出す)に対する強い不信感があったためです。
仕事(他者の需要を満たすこと)は、他人を幸せにすることもあれば、不幸にすることもあるということです。
年収200万円の人より年収2000万円の人の方が、他人をより幸せにした善い人かどうかは、その仕事内容を検証しない限り分かりません。
むしろ需要を操作するような力を持たない低所得者の方が、社会貢献している可能性が高いとも言えます。
お金持ちは神様?
お金が何とでも交換可能だということは、つまりお金さえ持っていれば、人間は何でもできる無限の力を持つことが可能になるということです。
男性的魅力が無くともお金で女性を買うことができ、足が遅くともお金で三頭立ての馬車を買うことができ、外国語が話せなくともお金で通訳を買うことができ、ケンカが弱くとも強面の用心棒を買うことができるように、あらゆる欠点をお金によって埋め合わせ、完全な人間に成ることができます。
虫も殺せないひ弱な少年が、ロボットスーツを着ることによって世界征服できるような力を持つアニメのように、本人に中身が無くともお金の力によって、人は神のような全能の存在に近付けます。
愛は愛としか交換できなかったはずの自然の世界から、お金(一般的等価物)を媒介することによって、愛もお金で交換できる資本主義的世界となったのです。
現代でも未だお金で買えないものもある、と人は言います。
しかし、多くの場合、直接買えないだけであり、媒介を増やし間接的に買えば、お金で買えないと思っていたものも買えるようになります。
例えば、人の心はお金で買えないとよく言われますが、有能な心理学者を買い、それを媒介として相手の心を獲得することも可能です。
そもそも、すべての物や事をお金に変換するよう頭を訓練された資本主義社会の住人が、愛を愛とだけ交換するような純粋な世界に戻れるかどうかは疑問です。
少なからず、大人になれば物事をお金に変換して考えざるを得ません。
いかに愛する親の為であっても、全財産を投げうってまで治療費を出し延命することは、相当難しいでしょう。
また、本当に私がお金など無意味だと考え、愛を愛とだけ交換したいと望んだとしても、それに応じてくれる人を探すこと(希少種と希少種の出会い)自体が困難で、実現は難しいでしょう。
お金持ちは単に”お金儲けが上手な人”であることを証明するだけであり、全てにおいて有能である全能の神などではありません。
しかし、多くの人々がお金の全能の力(全ての能力に交換可能という意味での代替的全能)を崇め、それに授かろうとする限り、お金持ちは極めて信者数の多い新興宗教の現人神のようなものとなります。
お金持ちは優秀?
マックス・ウェーバーは、初期資本主義と宗教(プロテスタンティズム)の類似性を説きます。
お金を儲けられる人は、天職を全うしたストイックで勤勉な人であり、その所得の量をスコアとして、天国に合格するが落第する(地獄に落ちる)かが決定する、というような価値観、行動原理です。
現代日本では、偏差値教育の延長として、社会人に成るとその優劣の証しとして年収や資産が用いられます。
本来、人間には様々な価値観があり、価値感に応じた評価基準があるため、単純に人と人とを比べることは出来ません。
人間の優劣は人間性の評価に基づき、スポーツ選手の優劣は運動能力の評価に基づき、研究者の優劣は学問の評価に基づきます。
お金のスコアによる評価は、経済人としての優劣を決定するにすぎず、人間の評価とは異なる次元にあります。
人間の価値はお金ではかることはできません。
しかし、お金はすべての事物を数量的に価値化できるため、人間性も、頭の良さも、運動能力も、芸術的センスも、友人の数も、信頼性も、健康状態も、肌の色や出身地も、容姿も声も所作も、すべての事物が資産価値として評価可能となり、「お金」は比較できないはずのものを比較・評価できる極めて便利なツールとなります。
人間は眼前にツールがあると、使う気が無くてもそれを使ってしまいます。
ウェーバー的な価値観も、偏差値教育の延長としての資産スコアによる人間の評価も、根にあるのは、異なるカテゴリーにあるものを同一視する錯誤です。
「お金持ちは人間として優秀であり、貧乏人は人間として劣等である」という考えは、私たちの目の錯覚(価値観の錯誤)がもたらす、誤った認識にすぎません。
お金の評価のみに執着する人は、他の価値の世界を知らない寂しい人間ともいえます。
まるで、世界の豊かさを知らない虚しい人間が、金銭を偶像的に崇拝することによって救われようとするかのように。
その反面、金銭崇拝者は、世間一般の評価(巷の多くの人々はお金で物事を評価する錯誤者であること)をよく知っている賢い人間だとも言えます。
人間性で優れるよりも、金銭の量で優れる方が得である(コスパが良い)ことを、彼らはよく知っているのです。
武士は食わねど高楊枝
金持ちや金に群がる者を卑しむ矜持(武士は食わねど高楊枝)が、現代の日本人の心の中からほどんど消えています。
人間は、ホモ・サピエンス(知性的存在)であり、ホモ・ルーデンス(遊ぶ存在)であり、ホモ・ロクエンス(対話する存在)であり、ホモ・モラリス(倫理的存在)であり、ホモ・リデンス(笑う存在)であり、ホモ・レリギオス(宗教的存在)であり、ホモ・アマンス(愛する存在)です。
ホモ・エコノミカス(経済的人間)としてしか生きられない人間たち(商人)を、ホモ・モラリス(倫理的存在)の観点から武士は見下すわけです。
人間の本質(ホモ~)の多様性を認められる人々が増えれば、世の中は人間にとって、もっと生きやすい場所になるはずです。
飛ぶ存在であり、鳴く存在であり、泳ぐ存在であるカワセミ(美しく鳴く小型の水鳥)を鑑賞用のカゴに閉じ込め、餌の対価として「鳴く存在」として限定された場合、そのカワセミの人生(鳥生)は幸福なのかという疑問が生じます。
しかし、鳴くことでしか生きること(餌)を許されないカゴの中のカワセミのように、現代の社会システムが経済的人間のみを偏愛し恩恵を与え続ける限り、先の武士のように何らかの強い信念によってホモ・エコノミカスとは別の本質を求める人間を除き、人々は自ら進んで黄金に輝く牢獄の中に入ることでしょう。
おわり