勝ち組と負け組
現代の俗語としての「勝ち組」「負け組」とは、競争社会における社会的地位および経済的地位の優劣を指す言葉です。
勝ち負けは評価基準によって相対的に変化するものですが、この「勝ち組」「負け組」の評価基準は非常に単純で、結果として現れたその人の財産の量と地位の高さです。
資本主義の精神
この基準において重要なのは、勲章の星の数や、通帳のゼロの数や、席次などの”結果として明確に見える数字や記号”です。
本来、お金を儲ける能力や社会的地位を昇る処世の能力は、人間そのものの能力とは異なります。
人間はお金ではありませんし、人間は肩書でもありません。
しかし、現在ほぼ世界の共通になっている「資本主義の精神」なるものは、お金と社会的地位を人間の優劣の証とします。
下駄で走る子供
漫画『じゃりんこチエ』の主人公の少女は、マラソン大会でぶっちぎりで優勝できる実力を持っていますが、貧乏でスニーカーが買えず下駄で走るので、三位にしかなれません。
いくら一位の実力を持っていても、社会的評価は三位にすぎません。
なぜなら、資本主義の精神における評価基準は、結果として表れた地位や財産、つまり「結果が全て」だからです。
富士山登頂の際、七合目からスタートできる幸運な人もいれば、二合目からスタートする人、大阪から歩いて行かねばならない困難な人から、沖縄から泳いでスタートしなければならない絶望的な人まで、各人によって状況は様々です。
勿論、富士山登頂は社会的成功の頂点を比喩的に述べたものです。
マラソン大会で優勝する人以上の努力を重ね、病を克服し、ようやくマラソン大会に参加することが出来ただけの人もいるでしょうが、あくまで彼は参加しただけ(最下位)の「負け組」の劣等者と呼ばれます。
勝ち負けの必要性
このように、社会的成功を直接人間の評価に結び付けることには無理がありますが、この「資本主義の精神」を共通のエートス(心的態度)にして人々の劣等感を煽り、競争を激化させることによって、社会は生産力を上げるという側面があります。
また、勝ち負けがあるからこそ、ゲームは楽しく、人生にドラマが生じるわけです。
勿論、それは脳が感じる幾種類かの幸福感の内の一つにすぎません。
人間の幸福をこのひとつに拘束してしまえば、いずれその人も社会も病みますが、だからといって勝ち負けを無くしてしまえば、人間は大切なひとつの幸福を失います。
実存的評価
これに対し、実存主義者と呼ばれる人達がいます。
(人間的)実存とは、あらゆる社会的記号を剥いだ人間自体のことです。
喩えるなら、丸裸でいきなり砂漠のど真ん中に放り出された時のように、人間そのままの本性や価値が問われる状況です。
実存主義における人間の評価は、社会的環境など関係なく、そういう実存的な状況で、その人がいかに生きるかということを基準にします。
郵便配達の青年も皇帝ナポレオンも、同じだけの熱情や意志を持ち、自分の力を出し尽くして生きていれば、その優劣に差はない、という訳です。
先の例のように、マラソンの金メダル受賞者も、やっと参加基準に達した程度の人間も、等価だと言えば、奇妙に聞こえるかもしれません。
これは社会的競争から逃げるためのひとつの現実逃避、自己欺瞞と思われるかもしれませんが、実存的視点から見れば、むしろ社会的記号に自己が囚われた人間こそが、現実逃避、自己欺瞞に陥っていると考えます。
これは人間の定義(人間とは何か)の違い、つまり評価基準による相違であり、両方正しいと言えます。
社会的人間としては優秀でも実存的人間としては劣等な人もいれば、実存的人間としては優秀でも社会的人間としては劣等な人もいれば、両方において優秀な人もいれば、両方において劣等な人もいます。
人間の価値は人間にしかない
実存的評価をベースに生きる人にとって、社会的環境の優劣は、単なるコミュニティーの違いでしかありません。
メジャーリーグという場所で闘うにしろ、歩けるようになるために病院という場所で闘病するにせよ、そこに優劣は設けず、どこであれ、ただそのコミュニティーで懸命に生きるだけです。
その結果として得られたものが、メジャー三冠王という社会的評価として最高のものであっても、ただ歩けるだけという社会的に最低限のことであっても、(実存的)価値は同じです。
社会的評価は「どこで生きているか(ステータス-立つ場所-)」を問い、実存的評価は「どう生きているか」を問います。
人間の意識が目覚めていれば、経験は役に立つ。そうでなければ、経験はたいしたことではない。ある人間が敗北したのは、その人間の周囲の事情によるのではなくその人間自身の所為であると見做し得るのである。
自分の力を出し尽すことだけを目指す人々、或は自分の力を出し尽すと私に思われる人々だけを私は選ぶ。~アルベール・カミュ(訳:矢内原伊作)
実存的評価における「負け組」とは、貧乏人のことではなく、死んだ目をした人間を指します。
下駄で走って三位でも、病気があって最下位でも、堂々とそんな自分を誇って良いのです。
問題は、社会的評価の低さを気にして、死んだ目になって、実存的評価においても「負け組」になってしまう危険です。
人間のあらゆる評価において、「生きる(活きる)」ということ以上の価値はありません。
勝ち負けという社会的評価の重要性がどの程度のものなのかということを、一度よく考えてみてもよいかもしれません。
おわり