善し悪しの基準
基本的の物事に優劣をつけるためには、その評価のためのある特定の基準が必要です。
物事に固定した優劣はなく、基準によって善いものであったり、悪いものであったりします。
そのもの自体はただの素材であり、善いも悪いもありません。
例えば、花が善い香りで人糞が悪臭なのは、人間の基準であり、別の動物にとってはこの善し悪しが逆転します。
また、哺乳類の糞の匂い成分を適度に薄めれば非常によい香りとなり、反対に花の香りを濃くすると人糞以上の悪臭になります。
牧場で嗅ぐ糞の匂いは善いロケーションの一種ですが、レストランにおけるそれは最悪です。
その事物が何であるかということ以上に、その質や量や時や場所などの様々な状態が、善し悪しの基準に深くかかわってきます。
基準を知る人たち
薬というものは、この善し悪しの振り幅が非常に大きく、毒と表裏一体のものなので、医者の処方なしに買うことは出来ません。
ある特定の病気の治療という非常に狭い基準に従えば善い薬になりますが、それを離れれば悪い毒になるものばかりです。
要するに薬はそれ自体が薬であったり毒であったりするものではなく、医者の処方が薬を薬たらしめ、善し悪しを決定しているということです。
ある病気の治療という基準に照らした場合、なにが善いものとなり、何が悪いものとなるかを知っている人がお医者さんです。
教養の二つの面
これと同様、教養というものにも、二つの面があります。
それを先の医者に喩えるなら、ひとつは薬の収集という面、もうひとつはその処方という面です。
いくら優れた医者でも、使える薬が限られていては、その治療の力も限定的なものとなりますし、反対にいくら薬をたくさん持っていても、処方の仕方を知らなければ何の役にも立ちません。
薬のコレクターのように、ただ知識を集めて”歩く百科事典”のようになることが教養をもつことではありません。
反対に、知識を処方し役立てようとしても、持っている薬の数が少なければ、教養は教義(ドグマ)のようになってしまいます。
例えば、アドラー心理学や進化論などの一つの知識で、何でもかんでも解決しようとしてしまうような人です。
血圧を下げる薬を必要としている人に、血圧を上げる薬を処方すれば死んでしまうように、欧米的な主体性を必要としている人に、主体の放棄を目指す類の東洋思想を処方すれは精神が死んでしまいます。
ある思想や知識が有効で善いものとなるのは、ごく限られた基準の領域においてのみです。
ひとつの薬で全ての病気を治そうとする医者は狂気でしかありません。
然るべき知識
教養のある人をアリストテレス風に言えば、「しかるべき時に、しかるべき場所で、しかるべきことに、しかるべき人々に対し、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で、しかるべき方法を、しかるべき程度で、豊富な知識の中から選びだし用いることのできる人」です。
これは医者のように「しかるべき」という基準を知っている人にしかできないことです。
この「しかるべき」基準は、知識と知識の間にある見えない関係(結びつき)を知ってる人、知識の全体を俯瞰できる人のみが所有できるものです。
個別の知識とは異なる、メタレベルの知識があるということです。
教養とは、単なる豊富な知識の獲得ではなく、豊富な知識の間にある、この見えない知識の獲得を目指すものです。
そして、この高次の知識を基にして、状況に相応しい“しかるべき知識”を提示できる、教養ある人になるのです。
教養の鍵
それだけでなく、専門的な知識を得るためにも、教養は後々役に立ってきます。
あるレベルを超えて高く積み上げるためには、富士山の末広がりのシルエットのように広く積む必要があります。
一点集中で高く積めるのは、ある程度までで、そこから先は広さがないと進みません。
あるレベル以上の高さへ進むためには、教養という鍵が必要になってきます。
おわり