はじめに
ここで述べるのは、一番ふつうの「美」についてです。
基本の基としての美で、難しい芸術論ではなく、普通の人向けのものです。
たとえ話
昔、あるお茶の先生が弟子に対し、路地を掃除するよう言い付けました。
そして、綺麗に掃除を終えた弟子に対し、先生は「まだ十分でない」と、やり直しを命じました。
弟子はさらに一時間かけて掃除した後、自信を持ってこう言いました。
「先生、完璧に綺麗にしました。三度も洗って庭石や石燈籠は輝き、地面には小枝一本も木の葉一枚もありません。」
そうすると先生は「ばか者、まだまだ十分でない」と言うと、路地に出て、庭木を揺すって木の葉を散り敷かせました。
自然美としての調和
美の規範というものは、時代や場所や文化によって大きく異なるものですが、基本の基としての美、いわば自然を通して学ばれる自然な美は、人が自然の中で生きる存在で限り、ある程度の普遍性を持っています。
上のたとえ話は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる利休の逸話を少し変えたものですが、ここで述べられているのは、そういう自然の美です。
落ち葉が散乱した状態も、落ち葉のまったく無い状態も、不自然で美しくなく、それらがよい案配に調和した状態が、自然で美しく感じられるということです。
自然は常に変化と調和を両立した状態で成り立っています。
具体例
例えば、山の絵を描く場合、山と谷の凹凸がノコギリの歯のように斉一に並んでいれば、単調で死んだような絵になります。
反対に、変化が激しすぎて、大地震時の地震波形のように乱れ混沌とした凹凸にすると不自然で美しくありません。
自然の美はその中間の、変化と調和が両立した状態としてあります(写真はAnsel Adams、山部分のみ)。
整ってさえいれば調和していると考えがちですが、調和というのは変化なしには成立しない概念なので(天秤は異なる物を釣合わせる為にある)、整いすぎて変化のない世界では調和の美も失われます。
木の枝の形態が美しいのは、四方八方に生い茂る枝分かれの「変化」が、フラクタル構造のような法則的な「調和」で、ある程度制御されているからです。
この調和の構造を無視してテキトーに無秩序な枝を描けば、非常にへたくそな樹の絵が出来上がります。
勿論、こういう調和は直感的に把握されているので、鑑賞する際も描く際も、無意識的な感覚として発動します。
この樹の絵、「なんか変だ」という感覚です。
反対に、整いすぎて不自然な場合も、同様に「なんか変だ」という感覚が生じます。
欧米化したとはいっても、まだ日本人には先の利休のような自然の美を重んじる日本的美意識が残っているので、中国や韓国のような極端な美容整形やアメリカのような完璧すぎる審美歯科矯正に抵抗を憶える人は結構います。
©1991 Disney
調和(美)vs 表現(個性)
ただ、芸術というものは、単に美しいものをこしらえるというものではなく、自己表現の媒体でもあります。
むしろ自己表現のために、調和(自然な美)は犠牲にされます。
例えば、線を描く場合、曲線(やわらかさ)と直線(はり)を上手く調和させると、美しい線が描けます。
しかし、芸術家はそんなセオリーより、表現を重視しそれを逸脱します。
分かりやすくマンガで喩えれば、格闘漫画のドラゴンボール(コミカル路線の初期を除く)の絵は、ほとんど直線と鋭角のみで描かれています。
男らしい格闘世界を表現するには、調和的な美しさを壊してでも、エッジの利いた鋭い直線で構成する方がよく、反対に少女漫画では柔らかい曲線のみで描く方が表現として適切です。
もし、いわさきちひろの絵のやわらかい曲線世界に、一本でもドラゴンボールのようなエッジーで力強い直線が入ったら、世界観が崩壊します。
彼ら作家にとっては、自然な美や調和などより、世界観や自己表現の方が重要です。
先に述べた美容整形も審美歯科矯正も、自然美の感覚の欠如というより、自己表現の側面が強いでしょう。
自然の美よりも、人間が人工的に作りだす美の方を重視するという、自己表現中心の作家(アーティスト)的感覚です。
おわりに
下の写真はある映画のワンシーンです。
映画館を作れない貧しい村で、夕陽に向かって座席を作り、みんなで日没という自然の映画を鑑賞します。
基本の基としての美は、誰にでも平等に与えられています。
美術館や映画館に行くお金が無くても、それ以上の作品が、いつでもそこにあるということです。
おわり