感情のメロディー
経験が少ない人の感情は比較的単純なものが多く、例えば、小さな子供の喜怒哀楽には、幼稚園児が叩くカスタネットの単独音のような、聴きとりやすい明快さがあります。
しかし、人は経験を積めば積むほど感情も複雑になり、まるでひとつのメロディーのような重層的な構造になってきます。
楽しそうに見えてかすかに悲しみが見えるスナックのママの笑顔や、憎しみの中に愛情が見える反抗期の少年のどこか潤んだ怒りの眼差しなど、人間の感情というものは、そう単純にとらえられるものではありません。
感情の楽譜
感情のメロディーを分かりやすく伝えるため、楽譜のように時間と音(感情)の連なりの記述として具体的に分析してみます。
例えば、子供が好きだけれど何らかの事情で子供を作れなかった人がいたとします。
その人が街で乳母車の中で無邪気に遊ぶ子供を見た時に生ずるのは、先ずは純粋に子供好きの「喜び」の感情です。
しかし、それは自分の事情を思い起こさせ、子供を持てなかった「悲しみ」に変わります。
次いで「悲しみ」は「諦め」に変わり、最後は悟りを開いた仏像のような静かな「微笑み」に変わります。
傍から見ると、この人は「子供を見て微笑んでいる」だけですが、その微笑みは最後の音でしかなく、その前には「喜び」→「悲しみ」→「諦め」→という音(感情)の連なりがあります。
勿論これは比喩的に楽譜として時間的に表現しているだけであり、実際には時間では捉えられない同時生成的な一瞬の出来事である場合も多いです。
優れた俳優というものは、この感情のメロディーを上手く表現します。
例えば、とある映画の中で俳優は一つの笑顔の中に複雑な感情のメロディーを織り交ぜ表現します。
心優しい愛に満ちた青年が、現実の残酷さに打ちのめされ狂人に成るというお話ですが、愛の笑顔は悲しみに、悲しみの絶望は怒りへ、怒りは最高潮で喜悦へと変化し、最後にはそれらを同時に含んだような、独特のメロディーを刻む狂気的な笑顔が残ります。
聴く耳を持つ
なぜ、こんな面倒なことを述べるかというと、感情をメロディーとしてとらえず、単独音のものとして扱うと、現実に即さず、様々な問題が起こってくるからです。
例えば、やたら部下を怒る上司の「怒り」の前に、自分自身の無能力さに対する「悲しみ」の音(感情)があるという構成のメロディーである場合、いくら部下が頑張っても問題は永久に解決しません。
上司本人がその感情のメロディーを把握し、怒りは悲しみから生ずるものだと自覚して、自分の不甲斐なさへの悲しみから生ずる自分自身への怒りを他者に転嫁することを止め、努力によって自分の無能さを克服した時に、はじめて解決します。
自分の感情のメロディーを聴く耳だけでなく、他者のメロディーを聴くことも重要です。
例えば、学校の先生が、感情を単独音でとらえずに、それがメロディーを構成する最後の音にすぎないと分かっていれば、もしかして、楽しそうに笑っていたいじられキャラの生徒が、後に自殺することを防げたかもしれません。
音楽家は限られている
勿論、社会人は忙しい上に、現代はコスパ重視で複雑なものはより単純化されて把握される傾向にあります。
本人の中身も見ずに、表面的な社会的記号やスコアで人を判断する様に、感情も一番上に表面的に表れているものだけ(単独音)で判断します。
それによって得られる利得も沢山あるので、一概に批判することは出来ませんが、状況によってはそれが悪手になるという場合もあります。
そういう時は、じっくりと耳を傾け、メロディーを聴きとる努力をしてみてもよいかもしれません。
おわり