幸福とは何か
幸福の何であるかは人それぞれなので、「幸福とは何か」などという一般(普遍)的な問いを発しても、答えは出ません。
けれど、幸福を抽出する一般(普遍)的な「方法」はあります。
自分の幸福(人それぞれの幸福)を自分で明確に把握している人はともかく、自分で自分の幸福が分からなくて、将来の方途に迷っている人にとって、幸福を抽出する方法はいくらか役に立ちます。
幸福の木
万学の祖である古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、ツリー構造(高校野球のトーナメント表のような枝分かれのピラミッド)で概念(言葉の意味のようなもの)を把握する方法、及びその分類の階層構造の山を昇降する方法である帰納(きのう)と演繹(えんえき)を考案しました。
アリストテレスは人間の幸福についての考察においても、この方法を利用しています。
例えば、ある少年が勉強しているとします。
彼に何のためにそんなに一生懸命勉強しているのかと問います。
勉強という手段が向かう目的を訊いているわけです。
すると、「よい大学に合格するため」と答えます。
さらに、では何のためによい大学に行くのか、と問います。
彼は「政治家になるため」と答えます。
では何のために政治家になるのか、と問います。
「社会的地位を得るため」と答えます。
では何のために社会的地位が必要なのか、と問います。
「社会(人々)に評価されたいから」と答えます。
では何のために評価されたいのか、と問います。
この辺までくると、「それが幸福だから」と言わざるを得なくなります。
ある目的はそれより上位の階層の目的のための手段となっており、その目的はさらに上位の目的のための手段となっており・・・、このツリー構造の山をどんどん上っていくと、もうこれ以上答えられない根源的な概念にたどり着きます。
これを人間の活動に当て嵌めた場合、人間行動の目的を追究し続けた一番先(頂点)にある究極目的が「幸福」です(図1)。
図1
ただ、究極まで行き過ぎると、それは点のように抽象化されすぎて具体的に把握できなくなるので、この究極点である「幸福」の一歩手前(一階層下)が、その人にとって最も本質的な幸福の形となります。
先の例の少年で言えば、彼にとっての幸福とは、社会の人々に認められた、いわゆる社会的な承認欲求が満たされた状態を指すことになります。
幸福の実を収穫するための「問い」
このように、ある概念をターゲットにして、問い続けることによって、その概念のアウトラインが明確になり、そのものの意味が確実なものとなります。
いわゆるソクラテス-プラトンの問答法(弁証法)的な手続きです。
自分の家で飼っているペットが、高校の教科書の生物学分類の系統樹の表の中で、どの位置を占めるのかを調べるような感じの作業です。
幸福においてこの問いと答えの作業を為すことによって、漠然としていた自分にとっての幸福(本質的目的)や、現在の活動(そのための手段)の意味が明確になります。
幸福が明確でない人だけでなく、明確であると思っている人も、一度この作業を試してみることは有益です。
例えば、自分は「人助け」が幸福(本質的目的)だと思っていた人が、実は「異性にもてること」は真の目的(幸福)であったり、反対に、自分は「異性にもてるため」にバンド活動をしていると思っていた人が、実は真の目的が「人助け(ロックによる弱者の救済)」であったりします。
こんな風に、意図しているつもりの目的と、真に意図する目的が異なっていると、手段と目的に齟齬が生じ、永遠に幸福は達成されません。
帰納(木登り)と演繹(木降り)
究極目的(幸福)を明確にするためにピラミッドを上に昇る作業がいわゆる「帰納」と言われるものです。
そして、究極目的が明確であるなら、この頂点から下に降りる作業である「演繹」を通じて、幸福を実現する手段を明確にすることができます。
例えば、先述の帰納(上昇)の作業によって、自分の幸福の状態が「社会的承認」であることが分かったなら、今度はその「社会的承認」という頂点からピラミッドを下降する作業(演繹)によって、最も合理的な手段を、答えから逆算するような形で、現地点(最下層)までの最短ルートを導き出すことができるようになります。
その結果、現在地(自分の環境や適性など)から幸福(社会的承認)までのルートは、政治家よりも芸術家を目指す方が、目的の為の手段として適切な道であることが判明するかもしれません。
具体例
大谷翔平選手がプロ野球選手になるために使用したマンダラチャート(図2)も同じ原理です。
これは大枝八本×小枝八本のツリー構造の立面図(図3)を上から鳥瞰的に見て平面図的に把握したもので、一目で64の全要素を捉えられるようになっています。
図3
まず明確な最終目的を頂点(中央)に置き、八つの大枝に分け、さらにそれを八つの小枝に分けます。
小枝に細分化されるほど為すべきことがより具体的になっていき、幹(中央)に近づくほど抽象的(本質的)になっていきます。
中央-最終目的(本質的目的)
大枝-最終目的のための手段、兼、小枝の向かう目的
小枝-大枝のための手段、兼、より細かい枝の向かう目的
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マンダラチャートは、あえて9×9のマス目を設けることによって強制的にマスを埋める必要を生じさせ、思考を促すものですので、大谷選手の表には少し強引に絞り出したような要素も見受けられます。
また、大小の枝の本数が8×8で固定してしまっているので、目的と手段の優先順位が付けにくくなってしまっているのもデメリットです。
図1.図3.のマインドマップなどを使用し、枝の数を自由に設定した方が、もっと正確に幸福の木を描き出すことが可能です。
問題点、その一
この方法で重要なことは「問い」です。
ある不明瞭な事柄について徹底的に問うことで、その本質を明確にする作業です。
クリティカルな問いは、多くの場合、疑いや批判の体裁を取るため、本人の抵抗を伴う難しい作業になります。
自問自答の形でこの作業を為すには、自分を相当客観的な視点で見る能力が必要です。
他人に質問者になってもらうのであれば、遠慮せずに直言で話してくれる人が必要であり、なおかつその決定的な批判によって、人間関係が壊れないような配慮が必要です。
例えば、「子供たちの笑顔が私の幸福だ」と思い慈善活動をしていた人が、実は本当の目的が「善行で優越感を得ること」や「献身的な姿によって異性に好かれること」であった場合、それを自己反省であれ他人からの問い(批判)であれ、受け容れることは相当難しいでしょう。
精神分析学の言う無意識の葛藤とは、意識の目的(偽の目的)と無意識の目的(本当の目的)に齟齬が生じている状態で、これは様々な心の問題を引き起こします。
このソクラテス的な問いの技法が、精神分析や心理学においてよく利用されるのは偶然ではありません。
残虐を求めているように見える暴君が、実は愛に飢えて愛を求めている場合、それを自覚しない限り本人は永久に幸福になれませんし、周囲をも不幸にします。
問題点、その二
この方法はあくまで思考(概念)の整理術にすぎないため、自分が知っている範囲の幸福しか実現できません。
自分の持っている概念を明確にし、論理的に組み立てるための作業だからです。
生涯無人島で暮らす人には、社会的な承認を得る幸福も、人と愛し合う幸福も、その可能性は永遠に閉ざされたままです。
いくら正確に自分の幸福を把握し、その実現の為の最も適切な手段を知っていたところで、自分の知っている幸福の範囲が狭ければ、後々もっと優れた幸福に出会い、後悔することになります。
また、目的は同時に手段でもあるので、自分の知っている範囲内の目的しか立てられないということは、自分の知っている範囲の手段(道)しか採れないということでもあります。
この場合、結局、目的も手段も非常に限られた狭隘な世界での幸福が約束されるに過ぎません。
経験を広げる努力と、その経験を活かす力の両方が必要なのです。
データのないパソコンも、パソコンのないデータも、役には立ちません。
よりよい幸福の為には、経験と論理の両方が必要なのです。
まとめ
1、自分にとっての幸福が何であるかが見えない場合、自分がいま為していることの理由を徹底的に問い、その本質を明確にします。
例~僕が大好きなゲームをするのは、試行錯誤で難関をクリアし、成長するのが楽しいから(自己効力感を得たい)。
2、明確になったその本質を頂点、現時点での自分の状況を地面とし、最も合理的で最も幸福になれる最適な手段-目的関係のツリーを作ります。
例~本質的な目的である自己効力感を得るための手段として、ゲームではなく、ビジネスや勉強やスポーツなど、自分の状況や立場としてより適合的なものを道(手段)としよう。
3、その「幸福の木」は自分の経験内の箱庭世界の小さな木にすぎないため、もっと立派な木を育む可能性を広げるために、様々な経験を積みます。
例~自分の成長以外に、もっと素晴らしい幸福はないだろうか?恋愛してみたり、旅をしてみたり、社会奉仕活動に参加したり、今とは異なる経験の可能性を模索してみよう。
補足
経験中心の幸福の実現の仕方は、以下のものが参考になると思います。
また、経験なしに物事を選ぶことの危険性は以下で述べています。
おわり