天才の反対は凡人ではない
多くの場合、「天才」の反対は「凡人(凡才)」だと考えられています。
また、「天才」が、先天的な天賦の才能によって、優れた能力を発揮する者であるのに対し、「秀才」は、凡才が後天的な努力によって優れた能力を獲得した者であると、語として使い分けられることが多いようです。
しかし、厳密に言うと「天才」の反対は「凡才(凡人)」ではなく、「狂気(狂人)」です。
それに対し、平均的な能力の普通の人である「凡才」の反対は、普通でない「非凡」のひとであり、「非凡」をさらに分割した場合、良い方が「天才」悪い方が「狂気(狂人)」となります。
「天才」と「狂気(狂人)」が紙一重と言われるのは、同じカテゴリーの存在だからです。
天才と狂気の差は運の問題
普通の人とは違う機能を有する「非凡」な人々がいて、ある状況(社会環境)下で、運よくその先天的な特殊な機能が有益に働く場合は「天才」と呼ばれ、運悪くその先天的な特殊な機能が有害に働く場合は「狂人」と呼ばれます。
天才はある環境に特化した先天的能力を持つの者なので、その環境外に置くと、凡人以下の能力しか発揮できなくなることもよくあります。
反対に、精神医学の台頭以前は、「狂人」にも高い社会的地位が与えられることも多々あり、今でいう狂気も環境次第で、人間より神に近い位置に居る高位の神職や芸術家などとして扱われることもありました。
超一流スポーツ選手のような身体的な天才も、その反対の人も、その区別はある特殊な環境化におけるものにすぎません。
イギリスのおとぎ話にあるように、地上では速く走れない身体構造を持つゴブリンをバカにする人間も、反対に地下の洞窟に住むと早く動けないノロマとして、ゴブリンにバカにされます。
秀才は努力によって環境適応できる人間
天才は必要以上に持ち上げるべきものでも、狂人は必要以上に下げるべきものでもありません。
先天的に与えられた特性によって、偶然に環境適応したか不適応だったかの問題にすぎないからです。
勿論、ここで言うのは人格的な尊厳の問題であり、成果で測られる社会的地位(価値)においては天才が持ち上げられて当然です。
これに対し、秀才は努力によって環境適応できる人間であり、試行錯誤(trial and error)によって能力を身に付け、優れた成果を上げる者です。
ただ、試行錯誤には時間を必要とする分、最初は凡人と大差なく、成果が出るまでに時間がかかります。
その代わり、秀才タイプは、どんな状況下に置いても、上手く適応し成果を出す人間になるため、融通の利かない天才に比べ、環境的変動の大きい世界では有利になります。
非常に優秀な者を採用したはずが、全く使えなかったり、まったく期待していなかった者が、後に優れた成果を出す人間になる場合などは、採用者が選考段階でこれら才能の違いを考慮していなかったこと、および適材適所の配置を怠ったことによります。
天才と秀才に対する差別
天才の有能さと秀才の有能さの混同は、天才に対しても、秀才に対しても、差別と侮辱を生じさせます。
例えば、秀才がどれだけ頑張って努力し、試行錯誤を重ね、優れた成果を出したとしても、「彼は天才だから」の一言で、何事もなかったかのようにすまされてしまいます。
血の滲むような努力の部分は見られることなく、まるで貧民の子が運の良いお金持ちのお坊ちゃまを憎むように、凡人による激しい嫉妬の攻撃が向けられます。
天才は、何でもきるスーパーマンのように勘違いされ、自分の特性に合わない環境下に置かれ(魚なのに空を飛ぶことを強要されるように)、上手く結果が出せないと勝手に幻滅され、偽物と罵倒されます。
天才は周囲の協力が必要
秀才が主体的な試行錯誤をベースにするのに対し、天才は環境がベースになります。
秀才は、自分でどこでも花を咲かせることができますが、天才は、他者や環境の協力が必要です。
いかに天才の可能性を持った者がいても、周囲にそれを適切な環境に置き、花を咲かせようと顧慮する者がいなければ、偶然見合った環境がやってくるのでない限り、その才能は日の目を見ることはありません。
家族や学校や村や国家など、天才という個人を取り巻く周囲の人間たちに、天才を育み生み出そうという思いが無ければ、天才の花が咲く可能性は偶然任せの非常に小さなものとなります。
天才時々秀才時々凡人
程度の差はあれ、人間誰もが天才でありかつ秀才でありかつ凡人です。
言葉を変えれば、人間誰もがもって生まれた特性を有し、主体的に試行錯誤の努力をする生き物です。
100%天才も100%秀才も100%凡人もおらず、それらは百分率の円グラフの中に共存しています。
勿論、この数字は本人の置かれる環境や、対象となる能力によって変化するものです。
時に人は試行錯誤の努力によって自ら天才の部分を開花させることもできれば、時に人は試行錯誤の努力の不備を天性の才能で補完し、時に人は環境も努力も不足し凡人のままであったりします。
おわり