怒りとは何か

人生/一般

防衛反応としての怒り

動物を観察すると、基本的に「怒り」とは、生命の危険に対する防衛反応だと理解できます。
ただ、人間は理性(心)を持ったより複雑な動物であり、その情動も心身両面で考察する必要があります。
そして、私的報復を禁じ、代わりに公的権力(法と刑罰)による救済を主とする市民社会に生きる現代人の場合は、直接的な暴力による防衛の機会はほぼありません。
そのため、怒りのほとんどは生物学的な側面ではなく、精神面、人格面への攻撃に対しての心の防衛反応となっています。

罵倒によって直接的に人格を傷つけられた時、普通、人は怒ります。
それは間接的で迂回した怒りとして発せられることもあります。
例えば、真面目で勤勉な人間が不真面目な遊び人に怒りの目を向けるのは、間接的にその当人の人格(真面目、勤勉さ)が否定されている(攻撃されている)と感じるからだと、心理学的には言われます。

認知面の問題

この精神面での怒りは、主に心の問題であるため、それには認知が深くかかわってきます。
ある刺激を、心に危険を及ぼす攻撃と捉えるかどうかは、その人の認知の在り方次第です。
例えば、「弱い犬ほどよく吠える」などと人を揶揄しますが、心が脆く弱い人間の場合、それだけ多くの刺激が心に危険を及ぼす攻撃と認知され、怒りが発生しやすくなります。
逆に心が強く自分に自信を持っている人は、たいていの刺激は怒りの種にならず、ホコリを払う程度の何でもない経験となります。

ですので、内的な怒りというものを簡単に図式化すると、<刺激の強さ÷心の強さ=情動的怒りの強さ>という風になり、心の強さという分母が大きいほど包容力(寛容力)が増し、感情的には怒りにくくなります。
逆に、何らかの不安や危険や無力感を常態的に有しており、常に心が脆く弱い状態にある人は、「いつも怒っている人」になります。
他人の憤慨を見て、何でこんなつまらないことで怒るんだよ、と感じる人も居ると思いますが、それはあなたと彼の心の強さが違っているため、同じ経験でも違って捉えられているのです。

行動面の問題

怒りは心の防衛という内的な機能だけでなく、他人を動かすという外的な機能も持っています。
例えば、子供が怒りをぶちまける度に、親が言うことをきいていれば、子供の怒りの行動は強化され、手の付けられない大人に育ちます。
この子供は、「怒り」を内的な防衛というより、他人の反応(行動)をコントロールするために使っているのです。

大人になって感情的に落ち着き、それほど情動的には怒ることがなくなっても、人を管理する立場となっているために、ケジメとして怒らねばならないことが多々あります。
教師や上司が怒る際は、その主な目的は生徒や部下の行動のコントロールを狙って為すのであり、本心では怒っていない人も多いのです。
これは心の防衛反応ではなく、行動的な操作を目的として為される怒りです。

その他、怒りには様々な機能がありますが、長くなりすぎるので、ここでの考察はこの二つの大きな機能(自己防衛、他者統制)だけにしておきます。

認知面の良い怒りと悪い怒り

人間の本質を深く考察したフランスの作家アルベール・カミュは、思考を人間存在の本質として表現したデカルトの言葉「われ考えるゆえにわれあり」をもじって、「われ反抗すゆえにわれあり」と述べ、反抗を人間存在の基礎に置きます。

最初に述べた心の防衛反応は、自己の精神の生命である「人格(自己同一性、自尊心、主体性、自己の存在根拠、自己の本質的内容など)」を崩壊させる刺激に対しての怒りです。
裏を返せば、その人の怒りは、その人の「人格」の範囲の境界を定めているものでもあるのです。
何に対して、どれくらいの程度の刺激で怒るかによって、その人が自己の人格をいかなるものであると規定しているかが分かります。
それは、私という人間主体が持つ権利の範囲内に、他人が越境し侵害してきた時、怒りの反抗によって自己の内的存在の範囲(領土)を守るということです。
すぐに怒る人は、それだけ自己の人格が浅く、大らかな人はそれだけ人格的に深いということは、先に述べました。

「良い怒り」とは、このような人間の正当な範囲の内的尊厳を守るものであり、「悪い怒り」とは、この範囲を不当に拡大して他者の人格を侵害するようなものです。
喩えるなら、悪い怒りとは、いつも怒って他人の自己領域を侵害し続けるジャイアンのような怒りです。

反対に、極端なアンガーマネージメントの本や宗教ベースの幸福論などでは、怒ることそのものを止めるよう述べるものもあります。
しかし、それは自己の境界線を引くことを止める行為であり、主体の放棄を意味しています。
いかに罵倒されようが、殴られようが、怒らずヘラヘラしている人間は、人間(主体)であることを辞めた、人間のような何か(人型の物体)です。
[勿論これは人間の定義を“自由な主体”と考えた場合の話です。キリスト教や仏教のように主体の放棄をむしろ真の主体の獲得と捉える逆説ではなく、常識的な近代的人間観として言っています。]

良い怒りは自己の正当な範囲を守るものであり、悪い怒りは自己の範囲を不当に拡大するものであり、怒りの不足は自己の放棄かつ他者の不正を許容するものです。
怒りすぎのジャイアンでも、怒らなすぎののび太君でもなく、怒るべき時にはしっかり怒り、怒るべきでない時には怒らないことが必要です。
感情にはその感情特有の機能があり、怒りや悲しみや恐怖など、一見ネガティブで有害に見えるものも、人間が生きるために非常に重要な役割を果たしています。
本質的な意味での感情の管理(マネジメント)とは、この機能を適切な状況において働かせること、および不適切な状況において働かせないことです。

勿論、怒りのアクションは文化や人によって様々な形を取り、中国人の様に激しく赤い焔であることもあれば、日本人の様に静かな青い炎であることもありますので、怒りの程度と怒りの表現の関係は、常に考慮しておく必要があります。
例えば、日本人からしたら、中国人はいつも怒っているように見えるので、譲歩しすぎるきらいがあり、中国人からしたら、日本人は怒りがはっきり見えないので、悪気なく越境してきたりします。

行動面の良い怒りと悪い怒り

行動面での良い怒りとは、生産的で、計画的で、相互的で、自覚的で、理性的であり、行き過ぎない適切さをもち、怒りが主体によってコントロールされており、権利関係の公正性が保たれ、何より怒りの後の世界が、怒りの前の世界より良くなっているものです。

行動面の悪い怒りとは、破壊的で、無計画的で、恫喝的で、自動的で、感情的であり、極端かつ不適切で、怒りが主体によってコントロールされておらず、不公正な権利の乱用であり、何より怒りの後の世界が、怒りの前の世界より悪くなっているものです。

例えば、優れた親や教師や上司は、この行動面での良い怒りをうまく使いこなす人で、劣悪な親や教師や上司は、この行動面での悪い怒りを制御できず呑まれる人です。
いわゆる「怒らない」指導者(管理する人)もいますが、彼は別の方法で他者を統御できる能力のある者なので、怒りの力を必要としない人です(例えば、怒りではなく褒めや羞恥心などで制御する)。
そうでない場合(怒りが必要な所で怒れない人)は、単に被指導者(管理される人)に対するネグレクト傾向にある無責任な人間であったり、自己保身のみを考える臆病な人であったり、そもそも人を管理する立場にいてはいけない人です。

これら怒りへの対処法

まずは怒りの原因を知ることが重要です。
それによって対処法は変わってきます。
怒りの原因が、認知か行動か、自分か他者か、良いか悪いか、どちらに寄ったものであるかを見極めた上で、判断します。
ほんの一例ですが、簡単に挙げてみます。

“認知面”かつ”自己”が、怒りの原因であった場合は、弱い自己の精神的強化が必要となり、対処法は自分を精神的に弱くしている要因を探し出し、改善し、強くすることです。

“認知面”かつ”他者(他人+外的事物)”が、怒りの原因であった場合は、外的環境の改善が必要となり、対処法は危険な刺激を生じさせる外的要因を探し出し取り除くことです。

“行動面”かつ”自己”が、怒りの原因であった場合は、自己の内で誤って強化されている主観的な怒りを反省し、怒りを現実の状況と一致させられるよう調整することで、生産的なものとすることです。

“行動面”かつ”他者(他人+外的事物)”が、怒りの原因であった場合は、外的環境の改善が必要となり、いかなる怒りの表現によって他者の行動を上手くコントロールできるかの方策が必要となります。

また、これらいずれにおいても、先に述べたように、その怒りの範囲が正当な範囲の良い怒りか、不当な範囲の悪い怒りかを自省する必要があり、常にその調整を為すことが基本です。

おわりに

怒りの機能は複数あり、刺激の由来も複数あるため、怒りの原因となるものも無数(複数×複数)にあることになります。
今回述べた怒りのごく一部の機能以外のものも考慮し、今ある怒りというものの本当の原因を探し出し、対処法を考えねばなりません。

特に身体的生理的要因は非常に大きく、怒りにおいてこの問題を無視することは出来ませんが、私は専門外なので、それについて語ることは出来ません。
お腹が空いて怒ってる赤ちゃんを癒せるのは、おかあさんのおっぱいだけです。

おわり