アリストテレスの形而上学

哲学/思想

純粋形相と不動の動者

この自然の諸事物の運動の原動力となるものが、有名な「不動の動者」の概念です。
これも静態的なプラトンの「<善>のイデア」の概念」に、運動の契機を導入し、発展させたものです。
イデアの階段を昇っていくと、イデアのイデアである究極的な「<善>のイデア」にたどり着くように、可能態と現実態の階梯を昇っていくと、究極的な目的(=形相)である「純粋形相」にたどり着きます。
それは、あらゆる諸事物の目的であり、かつあらゆる諸事物を統制する一点です。
喩えるなら、それは、王様のように頂点に君臨するものではなく、お日様のように超越的な位置にあり、地上の諸事物がそれに向かって運動しているようなイメージです。

最初に述べたように、自然の諸事物は常に欠如を抱えた可能態の状態にあり、現実態へ向かおうとします。
この運動の連鎖は、欠如のない最適の理想状態(調和)を目指しています。
この調和の終着駅、名付けようのない最終的な理想状態、究極目的、完全なる現実態、形相の形相である究極の純粋形相こそが、「不動の動者」です。
それは、諸事物が調和へ向かう運動の目的となるものを、一般化(究極化)したものとも言えます。

「純粋形相」は、自らは完全(可能態なき現実態)であるがゆえに、動く必要はないが、他のすべての事物の運動を引き寄せる(究極目的)という意味で「不動の動者」とも言われます。
例えば、美しい花は自ら動くことなく、その美によって人を動かし、人々を集める力があります。
それと同じ様に、動き続ける世界の諸事物を超越した場所にあり、世界の究極目的となるものとして、「不動の動者(純粋形相)」はあります。

存在論と形而上学

形而上学の主要な課題として、「存在の探求」というものがあります。
「ある(在る)とは何か」を問う、いわゆる「存在論」です。
「ある」は、二種のものに大分されます。

A、自体的な存在、端的に存在するもの、述語になりえないもの。
存在論で「エグジステンス(現実存在)としての在る」と呼ばれるもので、字義通り、端的に事実(現実)として具体的にあるものが存在していることです。
日本語の「~がある(~が在る)」「主語Sがある」にあたります。

B、付帯的な存在、主語との関係において在る付属的なもの、主語の述語となるもの。
存在論で「コプラ(連辞)としての在る」と呼ばれるもので、術語的に主語を説明する日本語の「~である」「(主語Sは)述語Pである」にあたります。

この述語としての存在「~である」は10のカテゴリー(存在の範疇)に分類されます。
実体、性質、量、関係、場所、時間、状態、所有、能動、受動、です。
例えば、「三年寝太郎は人間である」は、実体(形相、定義としての)としての述語で、「三年寝太郎は怠惰である」は、性質としての述語です。
この第一の範疇である「実体」についての述語を完全に集めたものが、主語の本質の叙述であり、これが「形相」です。
存在論で「現実存在」の対になる「本質存在」と呼ばれるものです。

このAの「存在としての存在」を探求するのが、存在論の主要な課題です。
例えば、人類が物理学を極め尽くし、宇宙の構造や法則を知り尽くしたとしても、では、その物理法則や宇宙自体がどうしてどのようにして「存在する」のかということは分からないままです。
その存在の不思議に対して、ただ驚くことしかできません。
これは、あらゆる学問はBの付帯的な存在を探求しているだけだからです。

だから、アリストテレスは、B(存在に付帯する属性)を探求する自然科学などの全ての諸学を「第二哲学」と呼び、その上にあるA(存在自体、存在一般)の原理を探求するものを「第一哲学」と呼びます。
「形而上学(メタフュシカ)」とは、自然学(フュシカ)を「超えた(メタ)」ものを扱うという意味で、「第一哲学」と同義です。
「形而上学」は部分的に神学的な問題も扱いますが、その本意として存在論であり、現在の私たちが思っているような「形而上学=机上の空論的幻想」とは異なります。

[元々『形而上学(メタフュシカ)』は、別の講義草稿である『自然学(フュシカ)』の「後ろ(メタ)」の巻であるという意味で、編集者のアンドロニコスによって付けられたタイトルで、アリストテレス自身はこの語を全く使っていません。ただ、内容的にも、自然学(フュシカ)を「超えた(メタ)」ものを扱うということで、『超自然学(メタフュシカ)』の意味でとらえられるようになったと言われています。日本語としては、「形の世界の上にあるもの」を扱う学として『形而上学』と翻訳されました。反対に「形而下」とは、形ある物質や感性的経験で構成される自然世界のことを指しています。]

基体と属性

存在は、「他のいかなる基体(主語)の付帯的属性(述語)ともなりえない究極の基体」を芯にして、無数の「付帯的属性」が引っ付いているような形になります。
例えば、「リンゴ」であれば、主語である「基体X(自体的存在)」に「甘い(甘く在る)」「赤い(赤く在る)」「丸い(丸く在る)」などの述語(付帯的属性)が引っ付いたものです。

これにより、はじめて事物の運動(転化)というものが説明可能になります。
このリンゴが熟れる前は、「甘い(甘く在る)」「赤い(赤く在る)」ではなく、「酸っぱい(酸っぱく在る)」「青い(青く在る)」だったわけです。
ここで「基体X(自体的存在)」を考えていなければ、青く酸っぱい果実と、赤く甘い果実を、同じもの(存在)として同定することができなくなってしまいます。
「基体X」が芯にあるからこそ、「酸っぱい」「青い」から、成長によって、「甘い」「赤い」へと運動(転化)したと、理解可能となるのです。
また、ある人にとっては冷たく、ある人にとっては温かい、あるものを、同じものとして認識できるのも、「基体X(主語)」のおかげです。

主語-述語、基体-属性の概念を導入することによって、ようやく「存在」が保証されるのです。
そうでなければ、世界はただ変転のみがある混沌、動く抽象絵画のようなものになってしまいます。

実体(ウーシア)

プラトンにとって真の「ウーシア(実在)」とは、形相のみだったわけですが、アリストテレスは「ウーシア(実体)」を形相と基体という二重の意味を持ったものとしてとらえます。

要するに、実体には二つの意味があることになる。すなわち、その一つは、他のいかなる基体[主語]の述語となりえない究極の基体[個物・個体]であり、他の一つは、特定のものとして規定しかつ離れて存しうるもの、すなわち各事物の形相または形式である。(アリストテレス著『形而上学』第五巻第八章)

実体の特徴は、変化(表面的)の中でも存続するもの(基体のこと)、述語によって限定されても述語にはなりえないもの(主語のこと)、です。
前者は自然学的な意味での実体であり、後者は論理学的な意味での実体です。

小さくて走り回っていた子供の頃の「三年寝太郎」も、山のように太って静止した「三年寝太郎」も、同じ「三年寝太郎」であり、この自己同一性を自然学的(物的、感覚的)に支えるものが、基体としての実体です。
また、バカと思われていた(バカという付帯的属性-述語-が付いていた)「三年寝太郎」が、干ばつから村を救った時、実は山の上で寝ていたのではなく、三年もの間、沈思黙考し村の灌漑システムを考えていた賢者であったことが分かっても(賢いという付帯的属性-述語-に変化した)、変わることなくその思惟的な本質としてあり続ける「三年寝太郎」が、主語としての実体です。

アリストテレスのとって最も実体なるものとは個物であり、それは質料と形相の結合によって成る基体「これなる個物」です。
形相によって離在性、独立性、個別性を獲得した、これと指し示すことの可能な、この具体的な個物のことです。

[実存哲学のように、名付けられない基体X(現実存在)に無数の属性が引っ付いたものが個体だと言っているのではありません。個体の芯には変わらない本質(主語、基体)があり、その周りに変わるもの(述語、属性)が引っ付いていると言っています。前者は基体Xを点(≒無)として見、後者はアボカドの大きな種のように見ています。]

まとめ

この個物(個体)の実体を探求すること、本質や原理原因を解明すること(「何であるか」の探求)が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスに共通する哲学(フィロソフィア-愛知-)の使命です。
プラトンはそれを個物の外に求め、アリストテレスは内に求めた結果、その答えに大きな違いが出ることになったのです。

アリストテレスは、常に二項対立(質料-形相、可能-現実など)の弁証法的な総合として事物を把握し、プラトンと異なり、常に動的時間的に考察します。
ただ、プラトンほどでないにしても、やはりイデアルなものを優位に置き、「形相、形式、現実態、目的」を、「質料、内容、可能態、手段」よりも重視します。
最初に挙げたアリストテレスの目的論的自然観は、この帰結であり、それは全てを終わり(目的、形相、現実態)から観て、逆照射的に世界の何であるかを照らし出す目的論であり、この思考の枠組みは西洋思想の遺伝子のように現代まで受け継がれ続けています(ヘーゲルやハイデガーはその典型です)。

おわりに

分かりやすい倫理学や政治学と違って、形而上学(第一哲学)関連の記述は錯綜していて、正確な意味をとらえることができません(専門家でも無理です)。
万学の祖とも呼ばれるアリストテレスは、様々な学問を体系付けた超偉人ですが、それだけでなく、現代に生きる私たちが無意識に使っている思考の枠組みを無数に作った人でもあります。
現代人が『形而上学』を読む意義はその枠組みの成り立ちを知ることですので、モザイク的な理解(部分的理解の寄せ集め)で十分です。
面倒なのですが、アリストテレスの語った諸概念を理解しておかないと、後に続く思想家の本が読めません(例えば、アリストテレスを読まずにハイデガーを読むことはまず不可能です)。
本来アリストテレスも、プラトンのように読んで面白い本を書いていたのですが、残ったものが学園での講義草稿のみですので、読む方も学校の教科書を読むような心構えが必要です。

 

おわり