運命とは何か

人生/一般

運命は変えられるのか

ここで言う「運命」とは、「自由意志」の対概念としてのものです。
「自由意志(以下、意志)」が、自分の意志的な決断による選択の自由を指すなら、「運命」は、あらかじめ自分のなす選択が自分の意志以外のものに強制的に決められている、というものです。

人間にとって「運命」というものは、自分の意志以外の環境に拠るものですが、環境と言っても様々な面があり、捉え難いので、私たち一般人が特に主題にしやすいものをチョイスして考えます。

その一、
単純に外的環境に拠るもの(自分の身体を含む)。
例えば、「光の少ない土地にいると→陰鬱な人間に成る」という因果性(運命)。

その二、
その人に先天的に与えれた遺伝的特性に拠るもの。
例えば、「その人の持つ遺伝子に従い→陰鬱な人格に成る」という因果性(運命)。

その三、
その人の変えられない過去の経験記憶に拠るもの。
例えば、「イジメられた過去の経験によって→現在(未来)において消極的な人間に成る」という因果性(運命)。

これをふまえ、陰鬱な性格で消極的な行動ばかり選択する私が、自身のこの運命に逆らい、自分の意志で、快活で積極的な行動を為す人間に成ることは可能なのか、を考えてみます。

一、人間は環境の奴隷であるが、その環境を選ぶことができる

よく、人間は環境の奴隷だと言われます。
行動分析学の動物実験のように、ある特定の環境が与えられれば、その生物は必ずある行動をとるという因果的な必然性が存在しており、人間も同様にその行動は見えない因果の法則に支配されているという考えです。

確かに、動物は環境の奴隷です。
パブロフの犬の実験に抵抗し、ベルを鳴らされても唾液を出さないという選択をできる犬などいないでしょう。
しかし、動物と違い、人間の場合はその事実そのものを認識できるという特殊な位置にあります。
人間は環境の奴隷であるという事実を認識しつつ、その環境を反省的に再選択することができるという特別な生き物です。
いわゆる自己反省の能力、客観的な視点で自分を見る能力です。

例えば、太陽光と脳内の神経伝達物質(セロトニン)と心の因果関係を学び、人間は太陽光を浴びないと鬱の傾向が増すという法則を知れば、生活環境を変え、より太陽光を浴びる環境を作り、それを回避することが可能です。
環境と人間行動の因果関係を知り、それを逆手にとって、目的とするあり様に向かって、環境を作り替えていけば、私は環境の奴隷であることから解放され、自分の意志や目的に従ったものを達成できるのです。
マキャベリの言うように、運命の女神に支配される人間は、それに対する準備を怠っているからであり、運命(因果)を予測し、それに対しきちんと対応すれば、人は運命の女神をねじ伏せることすらできるのです。

何も考えず、何の対策も講じない人間は、100%環境の奴隷です。
それに対し、人は因果のつながりを学べば学ぶほど、そしてその学びを環境形成の行動として生かせば生かすほど、自己の意志の領域を拡大し、運命の女神の領域を狭めてくことができます。
決して人間は生まれながらに自由である訳ではなく、学びと行動によって自由の領域を獲得していくのです。

例えば、人間が何も学びもせず、反省的な行動も起こさず、ただ原始人のような生活をすれば、平均寿命は30歳程度です。
しかし、より長く生きるための因果の法則を知り、それに対する対策、環境づくりをしていくというその積み重ねによって、現代人はその三倍近い平均寿命を獲得したのです。
30歳までの生を強制する運命の女神に対抗し、人間は90歳までの生を成就したのです。

二、人間は遺伝の産物であるが、習慣付けによってそれを修正できる

遺伝的な特性というものは、その人にとって最も根源的な不変の環境です。
移り変わりゆく外的環境と異なり、それはその人の奥深くに存在し、死ぬまで離れることはありません。

その人の「人格」、いわば行動の特性や傾向というものは、遺伝のような先天的なものと、環境や学習や習慣付けのような後天的(経験的)なものの、二つの要因によって形成されます。
例えば、利き手の場合、それを決定するのは、遺伝的要因が25%、環境的要因が75%であることが双子の研究によって分かっています。
利き手や体形のような最も単純な身体特性において、このような一般的な数値を導出することは双生児研究によって可能ですが、非常に複雑な環境要因と個体差によって形成される私個人の人格的特性において、この割合を決定することまず不可能です。

抽象的、一般的な人間ではなく、この私個人のかけがえのない可能性を測れるのは、結局、私自身のみです。
環境的要因を学習や努力によって限界まで征服し、残ったものを先天的なものとして、炙り出すしかありません。
例えば、どんな分野であれトップの領域にいる人々は、この環境的要因を最大限にまで磨いた人たちです。
絶えざる経験的学習と訓練の積み重ねによって、自分の目的とする特性を獲得しようとした人たちです。
遺伝的なものが必要とされるのは、そのレベルのさらに上の世界です。

例えば、野球のイチロー選手の名言として、「限界まで努力してプロになれなかった人を僕は知らない」というものがよく取りあげられます。
これはイチロー選手に限らず、色々な分野のプロが同じようなことを言います。
平均的な能力を持つ人間であれば、プロ野球選手や漫画家や弁護士などと言うカテゴリーに入ること自体は、努力次第で誰にでも可能だということです。
しかし、これは裏を返せば、その先のレベルは、才能のような先天的なものが必要な領域だと言っているに等しいでしょう。
普通程度の能力のある人間が漫画家になること自体は、努力次第で可能ですが、手塚治虫クラスになるにはそれ以上のものが必要になってきます。

私たちは多くの場合、反省と修正のプロセス(trial and error)と言う努力によって解決できる問題領域に対して、才能の有無を問題にするというカテゴリー錯誤を犯しています。
先に挙げたプロの人達は、ろくに努力もしていない者が、偉そうに「才能」とかいう言葉を口にすることを傲慢に感じ、ちょっとムカついているわけです。
私たちを悩ます世間一般的な問題のほとんどは、後天的な学習によって解決できます。
「積極的な人間に成りたい」とか、そんなレベルの問題であれば、才能の出番は必要ありません。

「行動が習慣を作り、習慣が人格を作り、人格が人生を作る」という名言のように、目的とする理想像があるのなら、それに向けて行動を馴致し、習慣を変え、人格を作っていくしかありません。
それは行為によって、遺伝という運命を塗りかえていくことです。
ただ、人生の時間は限られていること、可塑性は年齢を重ねるに従い失われていくこと、という時間的限界を考慮する必要があります。

三、人間は記憶の奴隷であるが、記憶は意味付けによって変えられる

一部の心理学者は、私の現在の行動は過去記憶によって支配されていると言います。
無意識とかトラウマとか言われるものです。
しかし、別の学者は、過去記憶は現在の目的に従う意味付けによって作られた構成物にすぎないと言います。
[ちなみにここで言う過去とは条件反応(習慣付け)のような過去行動の蓄積のことではなく、頭の中の記憶のことです。]

たとえば、「幼い時に河原でエッチをしている男女を見たというおぞましい体験がトラウマとなり、私は異性と深い仲になれない」と言う人(Aさん)がいたとします。
しかし、その男女の行為が「おぞましいもの」であるという意味付けは、現在の私の価値観によって過去の記憶に後付けして作ったものにすぎません。
幼い子が性行為の何たるかを知っているはずはなく、善いも悪いもありません。
もし、Aさんがヒッピーの人達のように、「野外で性交渉するのが人間の自然な姿であり、とても健康的だ」という価値観を持てば、それは「おぞましいもの」ではなく「素敵なもの」となり、トラウマではなく面白い思い出になります。

分かりやすくするために少し極端なフロイト的症例をあげましたが、要は現在の目的設定(価値観)次第で、過去の意味は変えられるということです。
過去の辛い経験が、現在の自分を生かすか殺すかは、自分の意味付け次第です。
「過去の苦しい経験が自分を駄目にした」と言う人と、「過去の苦しい経験が自分を成長させてくれた」と言う人の違いは、前者が留まることを目的としているのに対し、後者は先へ進むことを目的としているという、現在の意味付けの問題です。
死ぬこと以外の経験はすべて自分を強くするためのものだと、ニーチェは言いますが、それは誇張でもなんでもなく、物事の認知の問題です。

そもそも運命を変える必要などあるのか

以上のような範囲で、運命を変えることが可能だとしても、それにはかなりの努力を必要とすることが分かります。
そもそもそんな努力をしてまで、運命は変えるべきものなのでしょうか。
仏教のお坊さんなんかは、むしろ自分の運命を愛し、丸ごとそれを受けいれることが幸せの条件だといいいます。
運命の車輪と自分が一体となることが、悟りの境地だというわけです。

消極的な人が無理に積極的に成る必要などなく、むしろ消極的な自分を愛し、活かすことが、本領の発揮、面目躍如とした自分に成ることにつながります。
例えば、のび太君は弱虫だから、心優しく、人間らしく、皆に愛されるキャラなのであり、ジャイアンのように強くなればその優しさは失われ、出木杉君のように優等生すぎてロボットの様になれば、非人間的で誰にも愛されないキャラに成ってしまいます。

成りたいものに成るために運命を変えようとするのか、成れるものに成って元々持つものを活かそうとするのか、そのどちらが幸福かは、それぞれの状況によって変わるのでなんとも言えません。
この根本的な選択は、その人の人生を大きく変えます。
どちらが良いとか無責任に言える問題ではないでしょう。

 

おわり

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