共感とは何か

人生/一般

失われていく三つの力

考えてみると、現在の私たちはこれら三つの要素(経験、想像力、相互主観性)を、すべて失っていっているように思えます。

現代において豊富な人生経験を持つ人など、非常に限られています。
コスパ重視の競争社会では、余計な現実経験を避け、無益な他人との関りを避けることが、定石です。
最適化とリスク回避のために、人生経験そのものを回避することが、一番の近道になると思われているからです。

想像力も必要とされなくなっています。
想像する余地のないほど、ぎっちり詰まった情報に包囲されて、私たちの想像力はどんどん萎えていってしまっています。
顧客の想像のニーズを先取りし、それを虚構で満たすことが、コンテンツ産業の仕事です。
私が「う~ん」と考え込んで、現実の余白を想像しようとした瞬間、「これでしょ!」と言って、彼らは想像の代替品を差し出してくれるのです(お金と引き換えに)。
想像する間を与え、想像する余白を残すことは、彼等にとってはお金儲けの機会損失と考えられるのです。

一見、グローバル化によって、相互主観性の理解だけは深まったようにも思えます。
しかし、それは当初の期待を裏切り、むしろ反対に、完全に自分の主観に閉じこもり他者を拒絶する、極めて保守的な人々を量産しました。
急激なグローバル化は、自己同一性の崩壊への恐れと不安を誘発し、病的な自己への固着や反復を生じさせてしまうのでしょうか。
グローバル化した世界において幸福とは、いかに自分にとって不都合な事実に対し蓋をし、可視可能なはずのものを見て見ぬふりできるかどうかにかかっているようです。

共感的想像から自閉的妄想へ

これはほんの一例にすぎませんが、実質どんな要因があるにせよ、私たちが三つの力を失っていっているのは間違いありません。
こう考えると、「現代人は皆、自分のことしか考えていない」などと批判されても、仕方ない(どうしようもない)のかもしれません。
「経験」も、「想像力」も、「相互主観性」も持たない私たちが、一体どうやって他者に共感し、同情しようというのでしょうか。
アスペルガー症候群という精神医学用語がネットスラング化して、共感性のない人は「アスペ」などと揶揄されますが、実質、現代社会の大半の人はアスペと言われても言い返せないくらい、共感性というものを失なってしまっているように思えます。

私たちが持っているのは、非常に少ない経験と、狭い想像力と、たったひとつのパースペクティブで作られた「妄想」だけです。
そんな中で「共感」と言っても、せいぜい近しい経験と近しい視点をもつ者同士の、近しい距離での想像による、非常に狭い共感(典型が「セカイ系」)しか起こりえないのが実情でしょう。
似た者同士が寄り添うだけの、非常にナルシスティックな世界です(鏡に映った自分を愛するような)。

役に立たない共感と同情

弱肉強食の現代社会においては、むしろ良心の呵責となる邪魔な「共感」や「同情」など、いっそ捨ててしまった方が楽だという賢明な選択なのかもしれません。
目の前で誰かが暴行を受けていたり、事故にあっていたとしても、私たちに同情している暇などありません。
面倒に関わるリスクを取るくらいなら、見て見ぬふりして何事もなかったように通り過ぎるのが、冗談でなく私たち現代人のリアルな姿です。

別にそういう人たちを否定しているわけではなく、「共感」や「同情」が一部の人にしか持てない贅沢品になってしまっているということです。
助け合わねば生きていけなかった時代の人達と違い、人間的つながりが社会システムによって置き換わった今、「共感」や「同情」など、もう役に立たない昔の人の古い古い感情として、私たちはサヨウナラすべきものなのかもしれません。
人類全員が自己の殻に閉じこもり、一生孤独で人間的つながり(人情)を失ったとしても、きっと巨大なAIを駆使した行政システムが上手く養ってくれることでしょう。

古典文学の力

しかし、いつの時代も目先の利益のとらわれず、大きな流れに抗い、人間にとって本質的なもの(いわば長期的な視点から見れば必要なもの)を大切にしようとする人たちがいます。
「共感」や「同情」が、そういう「人間にとって大切なもの」なのかどうかわかりませんが、それを育むためにうってつけのものが目の前にあります。
それが古典文学です。
文学と言ってもこのサイトで紹介しているような「思想」ではなく、「物語」の方です。

(つづく)