共感の条件
管理者(親や教師や上司や先輩など)は、とかく同情や共感というものを語りたがります。
他人の気持ちを理解し行動することが社会性の基礎であり、社会の成員として生きる以上は他人に共感できるように成れ、という訳です。
しかし、共感というものは、やれと言われてできるものでもありません。
それは、ある条件を備えた人間に自然に生じるものであり、その条件を整えない限り、どうにもならないものです。
足し算や引き算すら習得していない人間に、因数分解しろと言うのと変わりありません。
そこで共感や同情というものの可能性の条件を少し考えてみたいと思います。
ここで言う「共感」とは、嘔吐の連鎖や赤子の同時泣きのような、身体の未分化性という原初的な感覚を指しているのではありません(メルロポンティの項を参照)。
あくまで自己意識の発達した者同士の共感についてです。
一、経験
まずは、ある程度の経験を持っていなければ、共感のしようがありません。
「病める者のみが病める者の心を知る」という言葉にあるように、病人の苦しみは病気で苦しんだ人にしか分かりません。
諸々の苦しみ、悲しみ、怒り、恨み、不幸、快楽、喜び、赦し、感謝、幸福など、それら心のあり様を経験によって事前に獲得していなければ、他人の身体の動きや姿勢という情報を共感に結びつけることは不可能です。
例えば、腹痛の経験が無い人なら、お腹を押さえるという腹痛の姿勢を取った他者の姿を見ても、痛みや苦しみの共感を為すことは不可能です。
その他者は「ただ前かがみで腕を90度に曲げてお腹の前で両手を揃えている変な姿勢の人」にすぎません。
校庭の隅の方でひとり砂場遊びをしている子供の、どこか哀しげな表情と、乱暴に砂山を壊す怒り拳を見て、その独りぼっちの寂しさとやるせなさに共感し、「一緒に遊ぼう」と手を差しのべ鬼ゴッコの仲間に入れてあげられる少年は、その子自身も寂しさというものを過去において経験しているから可能なのです。
二、想像力
しかし、ただ経験を持っているだけでは意味がありません。
自分の内的経験と他者の姿を、想像によって結び付けられる力がなければ、共感は成り立ちません。
例えば、時折、木の枝を折ることすら可哀相だと言って躊躇するような共感的な人がいます。
木の枝を折ることが、まるで人の腕を折るようなものとして想像されている訳です(いわゆる感情移入)。
分かりやすくするため、やや行き過ぎだ例を挙げましたが、こういう想像の力がなければ、そもそも自分の経験と他者の姿を結びつけることが不可能なのです。
いくら過去に腕を折る大怪我をして、その痛みと苦しみを知っていたとしても、そういう想像力がなければ、目の前の人が実際に腕を折ったとしても、何の共感も同情も生じません。
三、相互主観性
さらに言えば、経験と想像力の両方持っていても、足りません。
経験と想像力だけでは、単なる「あなたは私、私はあなた、み~んな一緒」という、仏教系の幼稚園の標語のような稚拙な共感性で終わってしまいます。
これの別バージョンとして、偉い人たちがよく、「自分のされて嫌なことは他人にもするな、自分がされて嬉しいことは他人にもしろ」などというものがあります。
カント的道徳律の皮相的な理解によって生じた誤解の典型です。
この前提になるものは、先のものと同様、「あなたと私は一緒」だということです。
しかし、これは最近多い無差別殺人の動機という反道徳的なものと、ほぼ同じ構造をしています。
「俺の命なんてどうだっていい、だから俺も死ぬからお前らも死ね!(俺もお前も人間はみんなクズで一緒、生きる価値ない)」という論理です。
そうではなく、重要なことは、「私とあなたは根本的に違う、しかし主体としては等価である」という意識(いわゆる相互主観性)です。
「私という視点からものを見る人間がいて、私はその視点にしたがった好き嫌いを持つ。それと同じように、あなたは私とは違う別の視点から世界を見て、その視点にしたがったあなた独自の好き嫌いを持つ」というのが、相互主観性です。
カント的道徳律は、普遍的な人間の権利としての、この主体(主観)の等価値性を言っているのであって、「私とあなたは一緒(視点が同じ)」などという下らないことを言っているのではありません。
四、コモンセンス
例えば、目の前で脚の悪い人が段差を昇れず、難儀していたとします。
1、私は過去にケガで苦しんだことの「経験」を元に
2、「想像」によって相手の立場に自分を置き
3、自分がケガで苦しかった時に助けられて嬉しかったという「主観」によって
共感、同情し、手助けをしたとします。
しかし、脚の悪い人は、私のその助けの手を払いのけます。
なぜなら、彼の「主観」にとっては、その困難を自力で克服することは日常的な鍛錬のひとつでしかないからです。
うんざりするほど差し伸べられる助けの手によって、自分の自立を妨げられていることを、ありがた迷惑だとすら思っていたからです。
彼は言います。
「この段差を昇るのに時間がかかることは、あなたにとっては難儀なことに見えるかもしれません。しかし、私にとっては日常の些細な出来事です。他人の苦労を過去の自分の苦労に重ね合わせ、それを救うことで過去の自分を救おうとするのは止めてください。私はあなたではありません。」
本当の共感とは、この相手の主観にとって「善いこと」「悪いこと」を判断することであり、自分の主観にとっての「善いこと」を押し付けることではありません。
相互主観性を通過しない共感や同情は、ただの自己憐憫や自己満足や独善にすぎません。
自分にとって嬉しかったことや利益になったことが、他人にとっても当てはまるとは限らないのです。
経験と想像力による感情的な共感(情動的共感)と、相互主観性による理性的な共感(認知的共感)の総合が、本当の共感です。
言葉を変えれば、「どうにかしたい」という想いと、「どうすればよいか」という思いの総合です。
その共感(エンパシー)によって生じる、人と人とのつながりが「コモンセンス(共通感覚)」です。
単なる常識という意味でのコモンセンスではなく、本来的な意味でのコモンセンスです。
それは、私とあなたの差異を認めつつ、同時に共に在ること(共存)や助け合いを可能にする基本的な社会的感覚のことです。