「希望」という語の胡散臭さ
希望とは望むこと、絶望とはその望みが絶えることです。
希望は“のぞむ”という字が二つ連なっています。
語源的に「まれ(希)+のぞみ(望)」ではなく「のぞみ(希)+のぞみ(望)」の意の方が強いようです。
「のぞみが絶える」のは自然ですが、「のぞみをのぞむ」という語意はかなり大げさな感じがします。
まるで「夢を夢見る少年」や「恋に恋する少女」のようです。
夢(目的)の実現ではなく、夢を追いかけることそのものを自己目的化しているナルシスティックな少年や、好きな人に恋をしているのではなく、恋することそのものに恋い焦がれているロマンティックな少女のように、「希望」という大げさな語には、「夢」と同様、現実から疎外された蜃気楼のような軽薄で嘘くさいニュアンスがあります。
絶望を生む希望という病
ひねくれ者(正直すぎてひねくれて見える)で有名なニーチェ風に言えば、私たちは多くの場合、「絶望」という実を収穫するために、わざわざ「希望」という種をせっせと蒔いているのです。
それは、将来の絶望が約束されたありもしない蜃気楼のような非現実的目的を追いかけさせ、落とし穴に落とすような、意地の悪い所業です。
無責任な大人たちに「希望を持て!」「夢を持て!」と吹聴された子供たちは、案の定、その落とし穴に落ちて絶望し、社会はニヒリズム(虚無主義)とペシミズム(悲観主義)とシニシズム(冷笑主義)に覆われていきます。
ありもしないオアシスの蜃気楼を追いかけ続けているうち、その徒労の中で、人はやがてその虚構性に気付き、ニヒリズムに陥ります。
当たり前の話、理想を語る前に現実を語らなければ、具体的に理想を形作ることなどできません。
現実に則さない理想を語ることによって他人を騙し、後にその人を傷つけるという手口は、詐欺師のそれと何ら違いはありません。
「希望」や「夢」という感情的で詩的な言葉は、若い人の心のエンジンを始動させる強い効果を持つため、詐欺の勧誘にうってつけのマジックワードなのです。
問題は大人たちが、大げさに夢や希望を語るだけで、きちんと目的の実現の仕方を教えないことにあります。
本当の望み
望むものを実現させるというのは、非常に地味な作業です。
私たちが夢を叶えた人の姿を見るのは、最後の最後の場面(結果)のみです。
賞の授与式や、決勝戦の勝利の瞬間や、発見した財宝に囲まれた姿などです。
それを見て、多くの人は羨ましがるわけですが、もし、その夢や目的にたどり着くまでの地味な努力の工程(過程)を一部始終見たなら、むしろそんな苦しい人生はまっぴら御免だと願い下げるに違いありません。
有名な俳優や著名なデザイナーの華やかな活動の裏で、彼らがひとつの仕事を取るために、何十ものオーディションやコンペに落選している事実を私たちは知りませんし、彼らは語りません。
私たちはノーベル賞受賞者を羨んでも、それまでの過程、数十年もの間、毎日飽くことなくひとつのことに打ち込み続けた研究の努力は、見ようともしません。
私たちは、美容やお洒落の努力もせず、性格や人間力を磨く努力もせずに、素敵な恋人を連れている者を羨みます。
なぜそうなるかと言うと、他人を羨ましがる人間は、本当(現実)の目的の実現の仕方というものを知らない、白昼夢の中で生きている人だからです。
過程も経ずに得られる魔法の果実(結果)が存在すると、本気で思っているのです。
望みの叶え方
目的の実現の仕方というものは、どんなものであれ基本に変わりはありません。
目的地へ着くまでの過程を見定め、必要なものを揃え、状況に応じて柔軟に対応しつつ、一歩一歩進んでいくだけです。
それは日本人にとって大昔からの営みである、稲作などと同様です。
生きるために米が欲しいという目的の実現のため、ただ、毎日地道に努力するだけです。
田を耕し、苗を作り、田植えをし、水を引き、草を取り、稲を刈り、脱穀します。
その間、様々な困難に遭遇し、試行錯誤をしながら乗りこえますが、世界でも稀な自然災害国である日本においては、そういうすべての努力が無駄になることも多々あります。
しかし、彼らに絶望している暇などありません。
すぐに一から努力を開始します。
夢と現実は表裏一体
関東大震災の次の日にはもう復興にかかる日本人を、当時の外国人は驚愕の目で見たそうですが、それは日本人が日本という困難な風土で生きることを通して、目的の実現の仕方というものをよく理解していたからです。
望みを叶えるためには、絶望や愚痴や羨望など、何の役にも立たないこと、困難はむしろ必然であること、そしてそれが現実であることを、経験を通して熟知していたのです。
本物になるためには、反対のものを通過する必要があります。
これまたニーチェの言うように、天まで届くほど成長したくば、地獄まで根をはらねばなりません。
本当の「夢(希望)」をもつには、まず「現実」を知らねばなりません。
現実を知らない夢(希望)は、単なる空想やおとぎ話でしかありません。
空を飛ぶには離陸するための大地が必要なように、夢(希望)には現実という大地が必要です。
大地のない飛翔は、ただ眠りの夢中でプカプカ浮いているのと同じです。
現実認識は希望を持つために必須の条件、土台なのです。
諦めは自分自身への侮辱
困難に怖気付かないその生き方は、将棋の棋士にも似ています。
彼らに絶望など存在しません。
いかに状況が悪くとも、その可能性の中で最善の一手を考え抜き、指すだけです。
未だ可能性が残ったまま諦め投了するのは、相手への、自分への、そして将棋というものへの侮辱ととらえる人すらいます。
私たちは他の生物やモノに対しては、「もったいない」と言って、その可能性を使い切らないまま捨てることを戒めます。
こうすればまだ使える、これはまだ食べられる部分が残っている、と。
そのくせ人間の可能性に対しては知らんふりです。
自分の可能性を追求しきらず、発揮しきらずに人生を終える人がほとんどです。
もし、活かさずに捨てることが、そのものに対しての侮辱であるのなら、人間がその人自身の可能性を活かし切らずに人生を終えることは、その人自身、その人を生かしてくれた他者、そして生そのものに対しての侮辱なのかもしれません。
勿論、自分を粗末にする人は、そうしたくてそうしてるのではなく、可能性を追求するすべを知らないため、ただ、白昼夢のような空想の可能性に想いをはせている内、現実ではなんの可能性も実現しないまま人生を終えるのです。
絶望はロマンティックな夢想
そもそも希望など持つ必要はありません。
希望を持たなければ同時に絶望も消失します。
私たちは希望や絶望などという大げさなものは持たず、ただ、寡黙(行動で語る)で壮健な百姓のように、目的をもって、その収穫のために地道に努力すればよいだけです。
困難が立ちはだかっても、感情的にならず、淡々と対処するのみです。
もし、絶望するようなことがあるとすれば、それは現実的でない白昼夢のような希望を持ってしまっていた証拠です。
絶望は夢と同様、非常にロマンティックなものです。
絶望を肯定する悲観主義者は、現実認識において楽観主義者より上、という変な先入観がありますが、実際は現実認識の失敗が悲観主義を生じさせます。
悲観主義者ほどのロマンチストは他にいません。
歌劇レ・ミゼラブルの名曲「夢破れて」のように、絶望は非常にセンチメンタルな快楽として機能します。
希望も絶望もロマン主義が生み出す双生児であり、そもそも現実自体は楽しいものでも悲しいものでもありません。
それに勝手に感情的な意味付けを与えるのは個々の人間のポエジー(詩情)です。
希望が消えた時、望みは叶う
現実をきちんと認識する者は、悲観も楽観もコインの表裏のように、視点によっていくらでも変わる同じ現実のいち側面でしかないことをよく理解しています。
彼は絶望することなどなく、目的に向かってぐいぐい進んでいくので、傍から見れば、希望に燃えているように見えてしまいますが、そもそもそんなものには無関心なのです。
努力が努力であると本人に認識されている間は、本当の努力にはならないという旨のことを、禅の鈴木大拙は言います。
そういう意味で、希望が希望であると認識されなくなった時、はじめて望みは叶うのでしょう。
おわり