優しさの語源
「優しい」という言葉の語源「やさし (優し・恥し)」の意味は、「痩せるほどつらい、肩身が狭い、気恥ずかしい、慎み深い、優美だ、しとやかだ、おとなしい、けなげだ」などという状態を指す形容詞です。
さらに言えば、痩せるの形容詞化(「痩す(動詞)」→「痩さし(形容詞)」)が始源です。
分かりやすく言うと、生き辛そうで、片身が狭そうで、いつも恥ずかしげで、おとなしい、まさにドラえもんの“のび太君”のようなあり方です。
初めは、痩せるほどの辛さや羞恥心を持つ人の姿勢を表す言葉でしたが、その外的側面(恥じらいや慎ましさ)のみがひとり歩きし、慎み深さや優美の意味にも使われるようになります。
まさに世界名作劇場の“小公女セーラ”のような感じです。
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さらに、この自己主張の少ない態度が、他者優先的な健気で殊勝な態度として捉えられ、現在では主に「情のある、思いやりのある」という意味として使われています。
優しいお母さんとか、優しい恋人とか、優しい先生だとか、優しさは「利他的な生き方や態度」、ほとんど「愛」と同義のような拡大解釈を伴い使用されています。
ですから、「優しい」の語源的な対義語は「厳しい」、転じて拡大解釈された「優しい(思いやりや情がある)」の対義語は「冷たい(情や思いやりがない)」になります。
優しさの歪み
当然、意味が転じて別の意味が付け加わると、そこに歪み(誤解)が生じます。
第一の歪みは、恥じらいや慎ましさや切な気な様子を、平安時代の美意識に従って「優美(美しい)」と捉えたことです。
これはただの時代精神、主観的な意味付けであり、例えば、古典文献学者であり美学者でもあるニーチェからしたら、こんなものは醜さ以外の何ものでもなく、彼にとっては荒ぶる獅子や奔馬の生き生きとした躍動こそが「優美」です。
日本で大人気の『フランダースの犬』が、本場ベルギーで受けないのは、それを美しいと思う精神性が日本より乏しく、辛そうなネロ少年がただ可哀相にしか見えないからです(それが普通の感覚なんでしょうけど)。
第二の歪みは、鎌倉時代の軍記物語において、この自己主張の少ない態度を、都合よく「思いやり」と捉えたことです。
エゴの拡大や欲望の充足を目指す者にとっては、おとなしく、やさしい態度の人は、オレ様のことを思いやって、邪魔をせずに生きれくれている便利な人(オレ様想いの献身的な家来)なのです。
これも同様に特定の文化における意味付けでしかなく、別の文化圏では、自己主張や主体性を持ち、きちんと責任を持って関わっていくことこそが「思いやり」と捉えられます。
現代において「優しさ=甘さ」となってしまう理由(歪み)が、ここにあります。
病応投薬
上述のように、元来「やさしい」とは端的に人間のひとつの態度や様態を指すのであって、それが他者のため、利益(利他)になるかどうかは、まったく別問題です(まして美しいわけでも素晴らしいわけでもない)。
優しい態度やあり方が、他者に利益をもたらすこともあれば、不利益をもたらすこともあります。
逆に、この対義語として使われる、厳しい態度やあり方も、他者に利益をもたらすこともあれば、不利益をもたらすこともあります。
仏教に「病応投薬(病気に応じた投薬)」という言葉があります。
当たり前の話、血圧を下げる必要のある人に上げる薬を投薬したり、血圧を上げる必要のある人に下げる薬を投薬すれば、死んでしまいます。
それと同様、厳しさ(厳しい態度)が必要な人に優しさ(優しい態度)を与えたり、優しさの必要な人に厳しさを与えれば、その人は駄目になってしまいます。
本物は反対のものを通過する
だから、他者に利益をもたらすことのできる利他の人は、当然、優しさと厳しさの両方を持っていなければなりません。
どんな概念であれ、反対のものを通過していなければ、本物ではありません。
現実を知らない理想はただの夢想であり、怖じ気を知らない勇気はただの無知-向こう見ず-です(恐さを知っていながら、それでも前に出るのが本当の勇気です)。
それと同様、本当の優しさとはその裏に厳しさを持っており、本当の厳しさとはその裏に優しさを持っています。
優しさは愛じゃない?
最初に戻りますが、こういう当たり前のことが省みられず、「優しい=思いやり=利他的=愛情」というように固定的に捉えられ、「大切な人には優しい態度で接しなければならない」という、妙な誤解が生じます。
だから、ちょっと意識高めの教育者だとか心理学者だとかが、「やさしさは愛じゃない(優しい≠愛)」という当たり前すぎる事実を、これみよがしに述べて、それを戒めたりするのです。
が、厳密に言えば、「やさしさは時に愛であり、時に愛じゃない」となります。
病応投薬の時と同じで、愛や利他の形が優しくなるか厳しくなるかは状況によります。
ついでに言えば、「厳しい」の対義語を「甘い」と思ってしまう人が結構いますが、これも同様に妙な先入観「厳しい=利他的な厳しさ」を持ってしまっているため、その反対が「甘い=本人のことを考えていない利己的な優しさ」となるのです。
「優しさ=利他」は、勝手に付け加えられた意味、ただの先入観であり、「優しい人」というレッテルは、時に誉め言葉(他人思いの人)であると同時に、けなし言葉(臆病者-自己思いの人-)でもあるうるのです。
利己的な優しさと厳しさに気付く
相手のためになる利他的な優しさも厳しさもあるように、時に相手を害する利己的な優しさや厳しさもあります。
親や教師や上司による「愛のムチ(利他的な厳しさ)」が、本当は、自分の潜在的なイライラを解消するためであったり、自己顕示欲(あえて他人のために厳しくする意識高い私かっこいい)であったり、サディスティックな快楽趣味(相手の切なげな顔が見たい)であったりします。
反対に、自分はやさしく利他的な人間であると思いながら、たんにそれは自分が臆病で弱く争いが恐いから他人に優しくしているだけであったり、他人に優しくすることで優越感を持ったり(与える者-与えられる者の上-下関係を作りたい)、過去の自分のトラウマの解消のため(昔いじめられたことの怨恨感情から、他人に優しくしかできない)だったり、非常に利己的な目的が隠れていたりします。
結果がすべて
では、のび太君の優しさ(生き方、様態)が、臆病さからくる自分の保身のための利己的な優しさなのか、相手のためを思った利他的な優しさなのか、どう判断するのでしょうか。
それはもう、現実的な結果から推理するしかありません。
相手のために厳しさが必要な状況になった時に、厳しくなれるかどうかです。
普段優しくても、いざと言う時、厳しくなれる人がいます。
そういう人は厳しさを通過した優しさのある人であり、相手のためにきちんと状況に応じた優しさと厳しさを持てる人です(注1)。
最初にも述べたように、「優しさ」も「厳しさ」も単なる“態度”であって、そこに「善い」「悪い」の“価値判断”を先天的に含めるのは、後付けで恣意的に為された錯誤です(カテゴリーの混同)。
「優しさ」や「厳しさ」が、「善い」か「悪い」かは、状況によって変化する経験的なものにすぎません。
流行としての優しさ、厳しさ
人間集団においては、社会の利益なるような特性を持つ人間が支配的になるのは、社会心理学的な常識です。
社会の成員が「優しい」人格特性を持つことが、社会の利益になる時、優しい人は持ち上げられ、反対の場合は厳しい人が持ち上げられます。
「優しい」が流行の時代には厳しい人は白い眼で見られ、「厳しい」が流行の時代には優しい人は偽善者と罵られ、たとえ本物の厳しさや優しさを持っていたとしても、同調圧力によって排除されます。
戦後から日本で支配的であったのは、母性的な「優しさ」であり、最近ではその反動として父性的な「厳しさ」が持ち上げられつつあります。
戦時の極端な父性的厳しさの社会に苦しんだ人達が、その反動(敗戦による180度転回を機会)として、民主主義的な自由と平等を旨とする母性的な「優しさ」(典型が宮崎アニメ)に一気に振れた訳ですが、結局、それは厳しさを完全に捨ててしまった優しさに行き着いてしまいました。
怨恨(ルサンチマン)から生ずる感情的な反動は、必然的に行き過ぎを生じさせます。
当然、その「人をハチミツで窒息死させてしまうような」、あるいは健康に歩ける者をわざわざおんぶして歩けなく(足萎え)させてしまうような、偏った優しさに苦しめられた人々が、その反動として、今度は父性的厳しさへと振り子を引き戻そうとしています。
しかし、結局、彼らも同じ轍を踏みつつあります。
優しさを持たない偏った厳しさへと進んでいます。
優しさも厳しさも等価であり、きちんと両方を持たないと、片側の車輪しかない車のように、同じところをグルグルと回り続けるだけです。
行き過ぎた振り子は必ず帰って来ます。
しかし、それはまた反対方向へ行き過ぎてしまいます。
人間の歴史は、その繰り返しです。
その行き過ぎの度に、多くの人間が苦しみ、傷付き、命を落とすことになります。
おわり
※注1、優しさと厳しさは必ずしも一人で兼ね備えなければならないものではなく、役割分担で実現することも可能です。例えば、昭和初期の日本においては、父が全面的に厳しさを担当し母が全面的に優しさを担当し、状況にふさわしい方(病応投薬)が子に向き合うような形で理想の家庭を実現していました。冒頭では、小公女セーラの優しさを批判しているのではなく、セーラの理想的な優しさは、理想的な厳しさをもつパートナーが居て、はじめて健全になるということです。