ディフォルメとは何か
「ディフォルメ(仏:deformer)」とは、「~を変形させる、~の形をゆがめる」などという意味の言葉です。
主に美術の領域では、意図的な変形によって何らかのものを表現する際に使われる言葉です。
ここでは狭義の専門用語としてではなく、私たち日本人が普段使う一般的な意味で、ディフォルメとは何かということを考えます。
この変形には、A.欠点を補うものと、B.利点を追加するものがあります。
それぞれ解説した後、分かりやすい実例を挙げます。
A.メディアの不完全性を補うための変形
どんなメディア(媒体)であれ、全体的で完全な現実の世界から、ある限定的な要素を取り出して作られたものです。
絵画であれば「形と色」、音楽であれば「音」などです。
その他の現実を構成する様々な要素から得られる情報(他の感官から得る情報、時間、空間、運動、言語など)は、すべて切り捨てられています。
当然、それは部分的で不完全なものとなるため、その不完全性を補うために、誇張や変形表現が必要になってきます。
B.理念を追加するための変形
ディフォルメが変形だと言っても、それは意識するにせよ、何となく(半意識)にせよ、何らかのものが意図的(半意図的)に表現されたものでなければなりません。
例えば、自画像に意図せずコーヒーをこぼしてしまって、ただれたように変形した絵はディフォルメではありませんが、意図的に「恐怖や不安の感情」を表現するために、自画像をただれたように変形して描くのはディフォルメです。
単に己がメディアの欠点を補うことを超えて、利点を得るために、変形によって対象(描かれるもの)が本来持っていなかった理念を、意図的な表現行為として追加することも可能です。
[ここで述べる「理念」は、プラトンの「イデア」と同じような意味で使っています。イデアは、アイデア、理想、本質、概念、類型など、かなり広い意味を持ったものです。]
以下、具体例で解説します。
例1.例2.が典型的な欠点を補う変形であり、例5.が理念を追加する変形であり、例3.例4.はその中間的表現です。
例1、サイレント映画
サイレント映画は、現実を構成する重要な「色」と「音」の情報がありません。
ですので、頬を赤らめる少女の感情の表現は、その「赤」の代わりに大げさに両手を頬にあてるアクションが必要になります。
うつ伏せでシクシク泣いている少女の表現は、その「シクシク音」の代わりに、大げさに肩を上下させるアクションが必要になります。
色と音の付いた映画の演技に慣れている現代の私たちは、その誇張された演技に違和感を覚えますが、当時はそれが普通であり、そうしないとリアルが失われてしまうのです。
あらゆるメディアは不完全なので、「そのまま」や「見えたまま」では、むしろ情報不足でリアルではなくなくなるため、誇張や変形によってリアルを再構成する作業が必要になります。
例2、ロックウェル
私たちが一般的にリアルな絵だと思っているものでも、現実と比較すれば、かなりディフォルメ(変形)されています。
下の図のノーマン・ロックウェルのモデル写真と絵を比較して欲しいのですが、写真に比べ絵の人物はかなり耳が大きく描かれ、頭蓋骨が大きく、ほとんど幼児や赤ちゃんのプロポーションに近いような形に変形されています。
何故、彼がそういうディフォルメをするかと言うと、この小学生の写真の比率のまま絵で描き起すと、モデルの実年齢より絵の中の子は年を食って見えてしまうからです。
現実から様々な情報の可能性を捨てると、その分それぞれの差異が失われ中性化し、子なら年増して、老人なら若くなります(例えば、図版のようなシンプルな絵では、年齢の判断に重要な肌のテクスチャは表現できません)。
そのため、写真のプロポーションを、幼児の理念によって変形し、より子供らしい子供の理想形として変形し表現する必要がでてくるのです。
例3、ジェリコー
今度は下の図を見てください。
これは有名な例ですが、下図-上段左のマイブリッジの馬の走る写真をそのままトレースしてなぞっても、馬がはしゃいでいるようにしか見えません。
だから画家は運動という、絵画では捨てられてしまう要素を補うために、ディフォルメによって駆ける馬を表現します。
馬がスーパーマンの様に両手?両脚を揃えてビューーンと駆けることなど、馬体の構造としてありえませんが、画家はそういう風にあえて変形します(下図-下段、ジェリコー「エプソムの競馬」)。
運動の理念を形態化すれば、きっとamazonのロゴの下のAからZへの運動線のようになります(下図-右上)。
この運動の理念形に合わせてマイブリッジの馬を変形し、ジェリコーのように描けば、バーッと駆ける馬が上手く表現できます。
[これを考察したのはベルクソンですが、まったく違う問題設定なので、それは後日扱います。]
例4、ミュシャ、ブールデル
下画像はミュシャの「メディア」の子殺しの絵です。
現実に目の前に死んだ人がいれば、呼吸音の有無や身体の動きや、匂いや温度など、いわば五感をフル動員したアウラ(雰囲気)の感じによって、寝ている人との区別が可能ですが、絵や彫刻になるとそういう情報がすべて失われるため、ディフォルメ(変形)によってそれを表現せざるをえません。
木の幹が折れたように、ポッキリとありえない角度で曲がった身体。
心が折れるという慣用表現のように、命が折れたようなディフォルメによって、この子は決して寝ているのではなく、完全に死んでいることが瞬時に理解されます。
折れるという断絶の理念形にディフォルメ(変形)することにより、作家は見事に死を表現します。
ブールデルの「死に瀕するケンタウロス」も同じような変形です。
ディフォルメの宝庫、マンガ
このディフォルメの力を中心にして、現実の不足を補うだけでなく、表現をさらにプラスしていくことが、マンガやアニメの醍醐味です。
絵を変形させず、写実的に進めるマンガ作品も沢山ありますが、それはどちらかと言うと、テレビドラマや映画の代用品です(逆に表現主義の映画や写真は絵画の代用品です)。
しかし、変形が行き過ぎてしまい、表現しようとする理念そのものになると、ディフォルメの範疇を超えてしまいます。
例えば、格闘ゲームのイラストで、拳が岩のように大きくゴツゴツに変形されるのはディフォルメですが、完全に岩になってしまってはもうディフォルメとは言い難くなります(人物の足がタイヤそのものになって走行する、アメリカのカートゥーンアニメのように)。
以下、いきすぎない軽めの変形表現を例として挙げます。
例5、宮崎アニメ
下図は宮崎駿のアニメ『未来少年コナン』で、主人公の唯一の肉親であるお爺さん(実質お父さん)が死んだ時の場面です。
コナンはいきなり人間から動物に変形され、うぎゃーっと叫びながら四つ足で走り回った後、顔面崩壊のディフォルメ(変形)によって心の崩壊の理念が表現されます(普段コナンは端整なイケメンです)。
圧倒的な悲しみを表現するために、変形によって動物的激情と心の崩壊を理念的に追加し表現します。
下も同様に宮崎のアニメ映画『風の谷のナウシカ』で、主人公ナウシカが父を殺され、激怒するシーンです。
通常使われる怒りのディフォルメのように、目や口を誇張的に釣りあがらせ、永井豪のデビルマンのように極度に変形しても良いのですが、ナウシカは一応美少女のお姫さまなので、ここまで酷い変顔はさせられません(迫力があってカッコいいですが)。
そこで宮崎は顔の変形はほどほどに、足りない分は髪の毛の変形に頼ります。
添付画像ではちょっと分かりにくいですが、ありえないほどブワーッと髪の毛を逆立たせて、動物的で野性的な激しい怒りを表現しています(猫がフーッとなるあれです)。
肩の上のテト(やんちゃなリス)も一緒にフーッと逆立っています。
このように作家は変形によって、もともとあったモノに、様々な理念を付加していくことができます。
人間をゴリラのように変形すれば力強いジャイアンのようになり、キツネのように変形すれば狡猾なスネオのようになり、メガネザルのように変形すれば臆病なのび太のようになります。
ディフォルメという曖昧な言葉
近代美術の定義づけのためにディフォルメと言う概念を使う場合は、ある程度限界づけられており、特に問題はありません。
しかし、それを一般化して「対象の変形による表現」として広義に使ってしまうと、具象美術はすべてディフォルメによる作品となってしまいます。
当然、定義を曖昧にすれば、そこに含まれる対象もどんどん増えていきます。
「変形による何らかのもの(理念)の表現」と、アバウトに言ってしまえば、キュビズム的変形はマルチカム撮影(複数視点)のような立体的理念の表現だとか、ムンクの渦巻く歪みは精神病理的な知覚の理念の表現だとか、セザンヌのぶれたような輪郭は現象学的な運動感の理念の表現だとか、何とでも言えてしまう訳です。
ディフォルメと言う言葉を日本で一般に普及させたのはバンダイおよび横井孝二のSD(スーパーディフォルメ)ガンダムだそうです。
青年向けだったガンダムを、児童向けの玩具や漫画にするため、幼児の理念に変形(ディフォルメ)したものがSDガンダムです(下図はバンダイのカードダスイラスト)。
現在、日本で「ディフォルメ」という言葉は、このような可愛いチビキャラに変形する言葉として主に使われています。
しかし、特定の領域の変形(幼児の理念形の表現)に固定してしまうには、ちょっと勿体ない概念で、もう少し意識的にいろいろな場面で使っていってもよいと感じます。
おわり