ユクスキュルの『生物から見た世界』(かんたん版)

科学/自然

生物によって違う感覚機能

生物はそれぞれ独自の感覚機能を持っています。
人間であればいわゆる五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)と呼ばれるものです。
当然、生物によってはその機能の数や種類や質が違い、人間と違って視覚や聴覚の無い生物もいれば、逆に人間には無い磁場を感知したり、暗闇で物を見ることのできる感覚機能を有する生物もいます。

 

機能環と環世界

例えば、お腹のすいた私が部屋に入って「リンゴ」が目に付いた場合、それに引き寄せられるように近付きます。
次いでそれに触れ持ち上げ、顔に近づけます。
ほんのり香る甘い匂いで食べられるリンゴであることを確認した後、かぶりつき空腹を満たします。

この時、私の持つ四つの感覚機能が働いています(厳密に言うと聴覚も働いていますが)。
この例では、感覚する私(主体)と対象のリンゴ(客体)の間で、知覚してから動くという「(知覚→作用)⇒」のサイクルが4回起こっているのが分かります。
(見て→近付く)⇒(触って→持ち上げる)⇒(嗅いで→口に運ぶ)⇒(食べて満足し→一連の運動を停止する)。[分かりやすくするため、かなり単純化しています]
このサイクルを「機能環」と呼び、人間は五つの感覚の機能環が結びついた世界の中で生きており、そういう世界を「環世界」と呼びます。
語義的には「環世界(Umwelt)」の環は環境の環、「機能環(Funktionskreis)」の環は円環(サークル)の環です。
いわば「機能環」という無数の円環が集まった環境が「環世界」です。
機能がシンプルで数の少ないマダニの環世界は非常に貧弱で、人間の環世界は捉えられないほど複雑です。

 

空間と時間

人間は自分の感覚機能によって捉えた空間が普遍的なもので、そのひとつの大きな世界(宇宙)の箱の中に、各生物が配置され並存していると思っています。
しかし、実際はそれぞれの生物がそれぞれ独自の空間(小宇宙)を持っているのです。

人間は主に眼によって把握された視空間を主としていますが、視覚ではなく触毛(触覚)によって空間を把握する生物もいれば、三半規管のようなコンパスのような作用で空間を把握する生物もいます。
各生物は私達人間には決して想像できないような空間として世界を捉えています。

それは時間についても同様で、生物各々によって時間の流れを把握する機能に違いがあります。
例えば、人間の知覚可能な時間の最小単位は約1/10秒程度ですが、それは生物によって異なります。
すばしっこい相手を捕食する闘魚の実験では1/30秒から1/50秒、カタツムリの実験においては1/3秒から1/4秒という実験結果であり、それぞれが異なる時間の流れの中で生きているのが分かります。
当然、単位が小さければ小さいほど、高速撮影のように時間が引き伸ばされ、昆虫のはばたきもゆっくり見ることができます。

勿論、そもそも空間や時間という枠組みを必要としない単純な環世界に生きる生物も無数にいます。
空間と時間の成立は、かなり高度な機能をもつ生物にのみ生じる、ある特殊な知覚の枠組みでしかありません。

 

生物から見る世界

木の葉の裏に隠れて待ち伏せしていたマダニの下を野犬が通った時、お腹の空いたマダニはそれに飛びつき血を吸う、と一般的には考えられます。
しかし、それは人間の自由意志や目的論的な行動の感覚を勝手に他の生物にあてはめているだけであり、実際にはマダニは目的など持っていません。
マダニは自然に与えられた設計(プラン)に従い、「嗅覚に酪酸(皮膚線から出る臭い)の刺激が受容されたら、手を離して落ちる」というひとつの機能環を作動させているだけです。

環境全体とつながっているために把握することの難しいこの「自然の設計」というものを回避するために生まれたのが、動物の「本能」という概念です。
「本能」は外から生物を観察し、行動の統計から帰納的に導き出された、その生物に対するステレオタイプです。
ユクスキュルは、既存の生物学のように、生物を単なる反射に基づく本能の機械としては見ません。
あくまで環境の中にある固有の主体として扱う、「生物から見た世界」の記述による新しい生物学の立場で探究します。

 

自然の設計

例えば、私が壁に額縁をかける釘を打つ時、「ハンマー」「釘」「壁」という事物は、何らかの設計(額縁の設置)によって秩序づけられ繋がっています。
この設計(プラン)がなければ、事物のつながりも、事物自体の意味も価値も、差異も同一性も無くなって、ガラクタの集積場のような混沌とした事物の世界が残るだけです。
釘はただの長細い鉄くずで、ハンマーはただのT字型の木の棒であり、壁はただの背景です。
生物はそういうプランに従い、混沌とした世界から秩序づけられた世界を生み出し、関わり、生命を保持していきます。

ここでヤドカリの環世界における「自然の設計」を例として見ます。
ヤドカリの目の前にイソギンチャクという知覚対象がいたとします。
自然の設計はヤドカリが生きていくために、上手く状況(トーン)にあわせた知覚と作用(行動)のサイクル(機能環)を生じさせます。

1、巻貝のない裸のヤドカリは居住のトーンによって、イソギンチャクを住居として知覚し、イソギンチャクに潜り込みます。
2、お腹の空いたヤドカリは摂食のトーンによって、イソギンチャクを食物として知覚し、イソギンチャクを食べ始めます。
3、巻貝の家も所有し、お腹も満足している普通のヤドカリは保護のトーンによって、イソギンチャクを捕食者の攻撃から守る威嚇の道具として知覚し、イソギンチャクを防具として巻貝にくっつけます。

 

世界-内-存在

これは人間の認識の構造においても同様です。
私達の目の前にある事物の意味や本質(何であるか)は、純粋な知覚像ではなく、どういう作用を生じさせるかというトーンによって不可避的に変化したもの(作用像)です。

目の前の犬は、その人間の置かれた状況(トーン)によって、愛玩物(ペット)、食べ物、楽器の材料、攻撃兵器など、その意味や本質は大きく変化します。
世界を世界として見るためには、必ず何らかのトーンによって事物を秩序づけ、見なければなりません。
事物の意味や本質は、その後なす行為(作用)に準拠して生成する経験的なものであり、経験に先立って事物に内在するものではないのです。

 

知覚像と作用像

これは先ず純粋な知覚(像)が先行し、その後それが変化し作用像が生ずるのではなく、何をどう知覚するかの受容の段階で、すでに作用トーンによって既定されてしまっているということです。
例えば、私がお腹を下して必死なトーンの時は、街の中でトイレのマークの案内板以外はほとんど知覚されません。
鳥の環世界なら、休むトーンなら手ごろな木の枝が、食べるトーンなら木の実や虫が、交尾のトーンなら雌鳥などが、世界という地から対象という図として浮かび上がってきます。

 

経験によって豊かになる世界

ある動物にできること(作用の可能性)の数が増えるにつれ、同時にその環世界内に存在する事物(知覚対象)も増えていきます。

これはその生物が持って生まれた行為可能性の上に、経験を重ねることによって付加されていくものです。
新しい経験は、新たらしい行為可能性を生み出していき、それにともない新しい作用トーンと新しい作用像が連鎖的に生じていきます。
これが経験と学習です。

 

トーンによって歪められる世界

その動物がある特定の作用トーンに強く支配されていれば、それだけ知覚されるものも歪んだものとなります。
例えば、私が家から居なくなった飼い猫を必死で探す時、普段は当たり前に知覚していた街のゴミ、ボロ布や買物袋や濡れた段ボールに、探索像(作用像)である猫が上書きされて、それらゴミを轢かれた猫と知覚して駆け寄ってしまいます。
これが極端になると、ある特定のトーンが環世界を覆い、ある種の魔術的な幻覚の世界が生じ、生物の中にも幻視行動などが見られるようになります。

 

生物の数だけ存在する無数の世界

これまでの考察からわかることは、環世界というものは純粋に個々の生物それぞれの主観的な現実であり、世界の客観的現実なるものがそのまま環世界の中に登場することはありません。
世界そのもの(いわゆるカントの物自体)は、その生物独自の感覚機能の形式に従い変更された上で受容され、さらにその知覚は各個体の作用トーンによって様々な意味のものとして変化し、ようやくその生物にとって現実の対象物となるのです。

 

ユクスキュルの『生物から見た世界』(本編を読む)

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