ユクスキュルの『生物から見た世界』(完全版)

哲学/思想 科学/自然

序章、環境と環世界

本書では、生物を単なる客体や反射に基づく機械として扱わず、環境の中にある固有の主体として扱います。
「生物から見た世界」の記述による、新しい生物学です。
それはコペルニクス的転回であったカントの主体の理論を、自然科学に応用することです(後に本書の世界観は、ハイデガーの「世界内存在」の概念として受け継がれます)。

まず、上の「機能環」の図を見てください(『生物から見た世界』岩波文庫19項より)。
左側が或る生物個体(主体)、右側がその生物に対面する対象(客体)です。
これを反時計回りにグルグル回転しながら、生物は知覚(受容)とそれに伴う作用(実行)の運動生じさせます。
ひとつの主体が、それに対する様々な無数の客体と、地球の磁場の図の様に、この機能環で結ばれており、複雑な動物であればあるほど、それだけ豊かな機能環を持っています。

では、これを具体的に「マダニ」で説明してみます。
マダニを左の主体、ある哺乳類(イヌ)を右の客体にあてはめます。
まず、イヌの皮膚線から出る酪酸(異臭の原因物質)の刺激が、嗅覚標識としてマダニに受容され(図の右側から反時計回りに左へ)、それを合図にマダニは肢を離して枝から落下するという作用を生じさせます(図の左側から反時計回りに右へ)。
次に、落下したマダニはイヌの毛に衝撃という作用標識を刻み、これがマダニの触覚標識を解発(行動を誘発すること)し、これと同時に先ほどの嗅覚標識は消去されます(図の右側において作用標識が知覚標識に変換)。
新しい知覚標識(触覚)によって、マダニに動きまわるという作用を実行させ、やがて毛の根元の皮膚に到達すると、温度の知覚標識によって、歩き回るための触覚標識は消去され、皮膚に喰らいつき血を吸うという作用が引き起こされます(図、二回転目→変換→三回転目の運動)。

このように、マダニの場合、交代する三つの環運動が関わっています。
マダニは子孫を残すために、哺乳類の血液を必要としています。
そして、マダニを取りまく巨大な世界の中から、この三つの刺激が、暗闇の中の灯火の様に現れ、それを目印にして、マダニを確実に目標(血液)へ導きます。
ここにあるのは、重要なわずか三つの標識からなる貧弱な世界(マダニの環世界)であり、残った膨大な世界の豊富な可能性は無へと帰します。
しかし、このマダニの「環世界」の貧弱さは、行動の確実性の前提であり、生存のための確実さに比すれば豊富さなど重要ではありません。

もう一つ、重要な要素として時間というものがあります。
マダニのとまる枝の下を哺乳動物が通る可能性は極めて低いため、マ
ダニは長期間食物なしで生きられる能力があります。
待機期間中、数時間どころか数年も停止し、酪酸の信号を待ち続けています。
人間の抽象化された普遍的な時間の枠組みではなく、マダニはマダニの環世界独自の時間の中で生きています。
「時間なしに生きる主体はありえない」という既成の概念ではなく、「生きた主体なしには時間はありえない」と言うのが正確です(詳細は第三章)。
これは空間についても同様であり、それは次章で説明します。

 

第一章、環世界の諸空間

それぞれの生物は各々独自の知覚標識を持ち、その生物固有の環世界(環境世界)を作り上げています。
機能環という関係性の糸によって、しっかりとした網に織りあげられた世界です
ダニにとっては知覚標識である酪酸も鳥にとっては不要であり、鳥の環世界には存在しません。
代わりに鳥には、ダニにはない視覚標識によって世界を作ります。

私たちは、「人間がいま目の前に見ている同じひとつの世界の中で、一緒に動物たちも生きており、空間と時間をひとつの大きな容器(普遍)として共有している」という強固な信念(偏見)を持っています。
しかし、実際はそれぞれの生物が別々の空間と時間(小宇宙)を生きているのです。

そこで先ず人間の空間知覚を検証し、他の生物と比較して見ます。
基本的に人間は、補いあいながらも相容れない三つの空間の中に生きています。

1、「作用空間」

これは身体を中心とした三次元の座標系空間です。
三半規管による水平垂直の六方感覚や、腕や脚などを動かした時に生ずる運動感(キネステーゼ)等です。
目隠ししてスイカから十歩離れた後、くるりと返って棒でその場所を当てたり、暗闇の中で字を書いたりできる、身体に備わった空間知覚の能力です。
三半規管による六方の座標の方向感覚や、身体的な運動感による距離の尺度(歩尺のような)によって、作用空間というものが成立します。

例えば、ミツバチが巣箱に帰ってくる前に、箱を2メートルずらすと、ミツバチは元箱のあった何もない空間に留まり、5分後にようやく移動後の巣箱の場所へ飛んでゆきます。
はじめは触角による「作用空間」で帰巣しようとしますが、そこに巣箱が無いため、視覚情報に切替えて巣を見つけたわけです。
あらかじめ触角を取ったミツバチで実験した場合は、迷うことなく直接、移動後の巣箱に帰巣します。
魚の三半規管なども同様に作用空間を形成し、自分の住家や産卵場所などに、そのコンパスによってたどり着きます。

2、「触空間」

これは触れて直接調べることによって知覚される空間把握です。
指でなぞって箱の中の物体の形状を当てるクイズなどで使われる、空間知覚の能力です。
ネズミは触毛(触覚を感受する感覚毛)が発達しているため、視力を失っても、正確に運動することができます。
この触空間は作用空間を伴い同時に働くため、違いが分かりにくいのですが、それは作用空間のような大きさや尺度といった間接的なものではなく、その直接的な場所感です。
三歩(180cm)あるいて三歩下がれば元の場所に戻るのが作用空間、同じ床に寝転がって自分の身体に直接接触し感じている「180cm」が触空間です。
共に主体を基礎とする知覚標識で、環境や物(客体)に依存するものではありません(詳細は「ウェーバーの法則、触二点閾」でググってみて下さい)。

3、「視空間」

これは私たちにとって一番なじみの深い、視覚による空間把握です。
視覚を持つ動物にいたってはじめて、視空間と触空間が分離されます。
手に持つコップは、触空間としては大きさは同一でも、視空間としては、顔に近付くほど変化(大きく)します。
そして、これら別々の空間のデータを統合し、共通の空間として把握しています。

視空間といっても、動物それぞれが持つ視覚の構造によって、その見える世界は全く異なります。
例えば、ハエの視空間は人間に比べ、非常に粗いモザイク状であるため、人間には見えている細いクモの糸が見えず(存在せず)、まんまと引っかかってしまうわけです。

 

第二章、最遠平面

私たちの眼前(視空間)には、無限に広がる空間世界が存在していると、一般的には考えられています。
しかし、実際は、人間は球状の巨大な書割(舞台の後ろにある絵で描かれた風景)のような壁によって閉じ込められています。

目の前のコップと、窓の外の樹の枝には、明確な遠近感があり、それは空間として把握されています。
しかし、焦点(片眼のピント合わせによる遠近把握)にせよ、両眼視差による空間把握にせよ、その能力には限界があります。
月と太陽は、実際には恐ろしく離れているにもかかわらず、同じ平面上に見えるのは、それが人間の視覚の空間把握可能な限界の向こう側にあるため、遠近というものが消失し、すべて二次元化しているからです。
いわば、この限界の向こうにあるものは、舞台の書割のような存在であり、空間としては死んでいます。

この壁を「最遠平面」と呼びます。
視覚を持つあらゆる動物は、この最遠平面によって六方を囲まれたしゃぼん玉のような世界の中で生きています。
その大きさは、各動物に備わった視覚の空間把握の能力の限界によって規定されています(同じ人間でも、幼児と大人で差があります)。
主体から独立した、すべてを包括する世界空間というものは、この小さなしゃぼん玉世界の中で生きる人間が、他者との共通認識を得るために作り出したフィクションであり、それは現実ではなく、抽象化の産物です。

 

第三章、知覚時間

時間についても、空間同様それぞれ生物主体によって生み出されるものです。
例えば、人間の一瞬とは、1/18秒です。
一秒間に十八回以上の空気振動(音)は聴き分けられず、単一音として聴こえます。
一秒間に十八回以上、皮膚を叩くと、刺激を判別できなくなり、一定の圧迫として感じてしまいます。
視覚においても同様で、一秒間に十枚程度の画像であれば認識できますが、それ以上になると分からなくなります。
(ユクスキュルは映画のコマ数から視覚も1/18秒程度が限界と推測していますが、現在の実験結果では1/10秒です。ちなみにサブリミナル効果の0.03秒というのは単なるネタです)

高速撮影というものは、一秒間のコマ数を増やすことによって、時間が引き伸ばされ、昆虫の羽ばたきのように人間の眼には見えない速度の動きもとらえられるようになります。
逆にコマ数を落とし、低速撮影にすると、とまっている様に見えた花の動き(開花など)が観察可能になります。

もし、生物によって、この一瞬の時間が異なるのであれば、各々の生物がまったく違う時間の流れの中で生きていることになります。
すばしっこい相手を捕食する闘魚の実験では、一瞬が人間に比べ非常に短く(1/30秒から1/50秒)、高速撮影のように、世界の運動過程がゆっくりしていることが推測されます。
一方、カタツムリの実験においては、逆に一瞬が非常に長い(1/3秒から1/4秒)という結果が出ました。

 

第四章、単純な環世界

生物にとって空間と時間というものは、区別された多数の知覚標識を主体を中心にして統合するためのベース(枠組み)のような基礎的なものであり、直接的にそこから何らかの益を得るためのものではありません。
だから単純な環世界に生きる生物の場合は、空間や時間という知覚の枠組みは必要ありません。

例えば、ゾウリムシは、ひとつの機能環だけで生命活動が可能です。
子供のお掃除ロボットのオモチャのように、前進してぶつかれば方向転換し、前進してぶつかれば方向転換し、を繰り返すことによって、いずれ目的物(食物)にたどり着きます。
ただそれだけの単純な世界です。

前項のマダニの機能環では、食物にありつくまでに三つの反射弓(知覚と実行、刺激と反応の経路のこと)が必要で、それらはあくまでダニという主体に統合されているものでした。
しかし、中には複数の反射弓が主体に統合されず、ひとつの個体の各器官や身体部位が個々別々に機能しながら、ひとつの生物体を維持していることもあります(ウニやクラゲなど)。

例えば、お掃除ロボットの吸込み口に、別途パンタグラフ型のマジックハンドを付けて作動させ、獲物を捕獲する機能を付けても、あくまで互いにガシャガシャ別々に作動しつつ、ひとつの機構(遠くのものをマジックハンドが拾い上げ、それを掃除ロボットが吸い込む)として成立しています。

 

第五章、知覚標識としての形と運動

上述のウニのような環世界においては、各器官それぞれ別々の自立した反射系と知覚標識をもっているため、それらが統合されひとつの場所(空間)としてつながる事はありません。
この環世界では、必然的に、「物体の形」と「その連続的な変化としての運動」というものの関係が断絶しています。
なぜなら、それには、複数の場所の統合というものが前提として必要とされるからです。
形とその連続としての運動という空間把握(空間と時間の成立)は、かなり高度な知覚世界にのみ生じるのです。

例えば、コクマルガラスにおいては、形と切り離された運動のみが知覚標識として機能しているため、餌のバッタが止まっていたり、死んだフリをして動かなくなると、コクマルガラスの知覚世界の中から存在として消えてしまいます。
そもそも、コクマルガラスは静止したバッタの姿を知らないのです。

同様に、イタヤ貝は自分を捕食する天敵のヒトデが真横にいても平然としていますが、ヒトデが動いた瞬間、逃げ出します。
実験の結果、動く物体の色や形は関係なく、いかにもヒトデらしいゆっくりとした動きをした時にのみ、それが知覚標識になり、逃げ去るのです。

 

第六章、目的と設計(プラン)

人間に特有の自由意志の感覚と、日常の目的論的な行動によって、どうしても動物も人と同じように目的論的に動いてると思いがちです。
「マダニが獲物を(目的として)待ち伏せている」と以前書いたように、無意識的にも動物を擬人的に見てしまいるのです。
しかし、実際の動物は、自然に備わった設計(プラン)に従って動いているだけです。

ヒナ鳥が危険を知らせるような鳴き声を発すると、親鳥は駆けつけ、敵をつつきまわします。
まさに、ヒナ鳥を助けるという目的で、駆けつけたように見えます。
しかし、ヒナ鳥にガラスケースをかぶせた上で、同様の危険状態を作って鳴かせても、声が聴こえないため、親鳥はヒナ鳥が目の前でもがき苦しむのを見ながら、平然としています。
ヒナ鳥の鳴き声という知覚(聴覚)標識に触発されて、敵を嘴でつつくという作用が生じる機能環の連鎖が、遮断されてしまっているのです。
もがき苦しんではいても鳴き声を発しないヒナ鳥は、つつくという作用を解発する知覚標識となりえず、助けてもらえないのです。
このように動物は、目的によって動いているのではなく、あらかじめ与えられた設計図に従って動いているだけなのです。

 

第七章、知覚像と作用像

この自然の設計という観方を採用すれば、動物の「本能」というものにまつわる問題(というより擬似問題)を排除できます。
自然の設計というものは目に見えず、捉え難いものである為、人は「本能」という概念の中にそれらを詰め込み、回避しているだけです。
では、この生物を支配する自然の設計(プラン)というものが、どういうものであるか、考察していきます。

例えば、私が壁に釘を打つ時、「ハンマー、釘、壁」という事物は、何らかの設計(プラン)によって秩序づけられ繋がっています。
この設計がなければ、事物のつながりも、事物自体の存在価値も無くなって、ただ混沌とした世界のみが残ります。
釘は用途不明のただの長細い鉄であり、ハンマーは木の棒先についた鉄です。
物理学者が結晶の原子の配列構造を描き出す時、それは非生物的な自然の設計を解明しているのです。

生物の環世界における自然の設計を、ヤドカリの研究を通して見てみます。
ヤドカリを三種の状況下に置き、目の前のイソギンチャクに対し、どういう行動を取るか観察します(下図『生物から見た世界』岩波文庫89項より転載)。
1、巻貝の殻の家を背負った普通のヤドカリは、捕食者の攻撃からの防御として、イソギンチャクを殻にひっつけ共生を図ります。
2、殻の家を持たない裸のヤドカリは、無理であっても、イソギンチャクに強引に潜り込み、家にしようとします。
3、殻の家も防御のイソギンチャクも既に持ったヤドカリが飢えると、目の前のイソギンチャクを食べはじめます。

これは、ヤドカリの気分(状況)によって、対象の知覚像が変化するということです。
1の保護のトーン、2の居住のトーン、3の摂食のトーンとして、感覚器官から生じた単純な「知覚像」が、その後の行動に対応した「作用像」としてとらえられるということです。

これは人間の認識構造において、かなり複雑で重要な問題です。
例えば、「ハシゴ」というものが存在しない文化の人に、ハシゴのある段差を昇るように指示すると、「え?昇るってどういうことですか?棒と隙間しかありませんよ」と言われます。
そこで実際に実演してみると、その後、その棒と隙間という単純な「知覚像」は、その人にとって意味のある「作用像」として変化し、常にハシゴは作用(行為)のトーン「昇るもの」で見られるようになります。

実は私たち人間が事物に与えている意味や本質というものは、自分の環世界における対象物の純粋な知覚像を作用像に不可避的に変化させたものであるということが分かります。
イスは「座るもの」、コメは「食べるもの」、ハシゴは「昇るもの」、などという事物の意味や本質は、その後の行為に準拠して生成する経験的なものであり、先験的に内在するものではないのです。
ある事物(例えばイヌ)の意味や本質は、それを見る人のトーンによって、愛玩動物、食べ物、楽器の材料など、多様に変化します。

同じ知覚像に対し、複数のトーンにしたがった作用像を与えるわけですが、これは先ず知覚像が先行し、その後作用像が生ずるのではなく、何をどう知覚するかの受容の選別が、すでに作用トーンによって既定されているということです。
例えば、お腹がペコペコのトーンで複合商業施設に入れば、その地から浮かび上がってくる図は飲食店のショーウインドウばかりで、他に何があるなどあまり意識されませんし、お腹を下して必死なトーンの時は、トイレのマークの案内板以外はほとんど知覚されません。

鳥の環世界なら、休むトーンの識別で浮かび上がる止まり木、食べるトーンの識別で浮かび上がる虫、交尾のトーンの識別で浮かび上がる雌鳥などでしょうか。
前項で説明した、生物の限られた知覚器官による、生存のために必要な最小限の知覚標識の貧弱な世界に、このトーンというものの限定性が加わり、さらに動物は高い確実性の中で生きられることになります。

ある動物に可能な行為の数が増すにつれて、その環世界に存在する対象も増えていきます。
これはもって生まれた行為可能性だけでなく、経験を重ねることによっても付加されていくものです。
新しい経験は、新たな態度や行為可能性を生み出していき、それによって新しい作用トーンと新しい作用知覚像が連鎖的に生じていきます。
例えば、家で飼われるイヌなどは、日々の経験の中で、人間の日用品の作用トーンを学び、共有していきます。
逆に、人間にとっては溺れるほど物に溢れた部屋も、ハエにとっては数えるほどのものしかない、非常にシンプルな部屋として映っています。

(ここまでで基本的な理論は解説し終えましたので、ここからは駆け足で見ていきます)

第八章

この経験によって付加される個々の主体独自の作用像や作用トーンというものが、時に外的な知覚を歪めることがあります。

例えば、毎日、コの字型の水槽の先に餌を置いた装置の、もう一方の先から闘魚を入れ、給餌したとします。
しばらくそれを繰り返した後、コの字型のスタートとゴールを直結する穴を開けてロの字型にします。
しかし、闘魚は持ち前の作用トーンに従い、目の前の穴という知覚像を無視し、いつも通りコの字型の迂回路を通って、餌に向かいます。

これとは逆に、盲導犬の場合は、自分(イヌ)の作用トーンによる環世界を、盲人の作用トーンによる環世界に合わせて歪めるように学習します。
それによりイヌにとっては存在ですらない段差を、盲人のトーンによって出現させ、回避します。

第九章

動物がある一定の場所に故郷のように住み着くのも、自分の主観的な環世界の作用トーンへの偏重ともとらえられます。
粘性の高い流体の中を粘性の低い流体が通っているように、なじみの道、なじみの場所を離れることには、ある種の抵抗が存在しています。

第十章

また、カモがはじめて見た物を親だと思い込む「刷り込み(imprinting)」のように、一度経験的に付加された作用トーンが、生得的なものと思えるくらい堅固で長期間持続し、知覚像を支配し続けるものもあります。

第十一章

その動物がある特定の作用像や作用トーンに強く支配されていれば、それだけ知覚像も歪んだものとなります。
例えば、私が家から居なくなった飼い猫を必死で探す時、普段は当たり前に知覚していた街のゴミ、ボロ布や買物袋や濡れた段ボールに、探索像である猫が上書きされて、それを轢かれた猫と知覚して駆け寄ってしまいます。
恐怖のトーンにあるときは、柳の木が人間の姿に、猫の声が赤子の泣き声として知覚されます。
ヒキガエルに長い間エサを与えずに空腹のトーンにして、ミミズを一匹与えると、その強い印象の作用像に支配され、その後、マッチ棒のようなものにでも、即座に飛びかかるようになります。

第十二章

これが極端になると、主観的なトーンが環世界を覆い、ある種の魔術的世界となります。
経験との関係が希薄であり、その主体にしか見えない現象が生じます。
ドン・キホーテが風車の巨人と真剣に戦うように。
ムクドリの観察において、突然見えない何かに向かって突進し、虚空をついばみ、餌場に戻り、それを嚥下するという行動が見られました。
空腹による過度の摂食のトーンによって、ある種の幻視行動が見られたとも考えられます。

以上、これまでの考察から導き出されるのは、環世界というものは純粋に主観的な現実であり、世界の客観的現実なるものがそのまま環世界の中に登場することはありません。
世界そのもの(いわゆるカントの物自体)は、その生物独自の知覚標識に従った形式に変更された上で受容され、さらにその刺激は各個体の作用トーンによって様々な意味のものとして変更された上で、ようやく現実の対象物となるのです。

はじめに述べたように、知覚標識も作用標識も、あくまで主体から生ずるものであり、客体はそれら標識の担い手でしかないということです。
あらゆる主体は、主観的現実のみが存在する世界に生きており、それが環世界だということです。

第十三章

仮に客観的現実をとらえようとしても、そこから生ずるのは混沌の眩暈だけです。
例えば、カシワの木は、少女にとっては瘤顔の悪魔であり、木こりにとっては単なる商品であり、キツネには寝座、リスには跳躍台、ヒメバチには産卵場、キクイムシにとっては食物です。
カシワの木というものは、そんな無数の生物それぞれの環世界を部分的に担う何らかのものでしかありません。
それぞれの生物はそれぞれの環世界から出ることが決してできない以上、カシワの木そのものも、他生物にとってのカシワの木の姿も、認識することは決してできません。

第十四章

これは人間の世界においても言えることで、それぞれの人間や共同体の持つ世界観というものは、それぞれの主体の能力や特性や状況に合わせて切り取った、自然のほんの小さなひとコマにすぎません。
様々な学派や学問領域が主張する世界(自然)の姿は、ただ彼らの生きる環世界の中における自然の姿を描いているだけであり、その実みな同じものなのです。

物理学者が描く世界と芸術家が描く世界は相反するものではなく、ただ相補的に世界を描写しているだけです。
行動主義的心理学と心理主義的心理学の激しい対立は、ただ、行動によって精神を説明するか、精神によって行動を説明するかの、観点の違いでしかないのです。

この多様な環世界ひとつひとつが、あらゆる別の環世界に対して閉ざされていると同時に、そのすべての環世界が、「自然そのもの」という、永遠に認識されない隠れた存在によって支えられているのです。

 

おわり

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