芸術家(職業)とは何か

芸術/メディア

食えない芸術家

「芸術家は食えない」とよく言われます。
プロ(その道一本で食っていける)の芸術家と呼ばれる人も、大半が教えること(教育者)としての収入であり、純粋に自分の作品によるものではありません。
そういう意味では芸術大学の偉い教授より、繁華街の片隅で素人くさい絵を販売して生計を立てている絵描きなどの方が遥かにプロであると言えます。
特に日本の美術のアカデミズムにおいては、そういうニュアンスが強く、成功とは教育者(権威)として良い地位を得ることであり、作品の力で経済的に自立することではありません。

アカデミズムのヒエラルキーから外れる者は、当然、自分の力のみで食っていかねばならないわけですが、芸術大学ではただアカデミックな権威の儀式(非常に狭隘な空間での席次争いの為の)を上手に行うことしか教えてくれないため、卒業すれば何の準備も無しに現実社会という砂漠に放り込まれ、サバイバルがはじまります。
そして無力な彼らの多くは、「芸術家は食えない」という言葉にすがりつき、自分を慰めます。

表現なき表現者たち

「処世術のない心の純粋な自分はアカデミズムで成功できず、自分より実力の無い者が偉くなり、権威に与る」と嘆きつつ、中高年になっても石膏デッサンの延長のようなカビ臭い絵を描いている画家がよくいます。
権威の儀式を芸術ととらえ違えたまま生き、そこから落ちこぼれても他の道を知らないからすがりつくという、ほとんど絶望的な症例ですが、笑いごとでないくらい日本にはそういう哀しい芸術家が多くいます。

道は自分で探すものであって、その道を歩くのも自分自身です。
芸術とは何かを定義付けるのは自分自身であり(その反映が作品)、それをどうお金にするのかを選ぶのも自分自身です。
その両方を権威の儀式にゆだねるということは、すなわち自分が芸術家、表現者であることを止めるということです。
なぜなら、経済的に権威に依存する場合、お金を得るために上の席次に行かねばならず、自分の作品(己の芸術の定義)は必然的に権威の儀式に必死に合わせただけのものになり、自ら自己表現なき表現者となってしまいます。

経済的に自分をどう立てるかは、自分の芸術の内容に密接に関わることであり、それを自覚しないまま偉そうに芸術の本質など語っても、ただの自己弁護と現実逃避の強化に終わるだけです。

分をわきまえる

社会的に成功できない(いわば売れない)ことを嘆く芸術家に対し、哲学者のアランは以下のような主旨のことを述べます。
芸術家は美や真実を追究する者であるので、美しく真実のものが作れたなら、それで満足しなければいけない。
売り買いを追及する者は商売人であるので、儲けたければ商売を追及しなければならない。

小学生でも理解する当たり前のことですが、当の芸術家は小学生より無垢な人が多いので、この事実が分かりません。
例えば、ベストセラー作家を目指す詩人と言うのは、矛盾しています。
ベストセラー(最高のセールス)を追求するのはセールスマンであって、当然それを実現するためには詩ではなくセールスの勉強をしなければなりません。

よく言われるように、良いものと売れるものの違い、売れたと売ったの違いをきちんとわきまえ、芸術と商売の範疇を混同してはならないということです。
短絡的に「良い作品は売れる」と考えたり、「作品が売れた」ことを喜びまた期待するのは、典型的にこの錯誤に陥った思考です。

芸術家を束縛する偶像

偶然ではなく自力で売れる芸術家になった人は、芸術家であると同時に優れたセールスマンでもあるのです。
例えば、純粋無垢な世界を描く宮崎駿も経済学部出身であり育ちも商売人の家であり、作品の実現に際しては、その辺かなりパワフルであったと聞きます。
もし彼が売れないことを嘆いているだけのナイーブな作家であったら、これほどの成功は見られなかったでしょう。

日本には奇妙な芸術家像、「才能はあるのに売れないまま死んで、死後その価値にようやく人々は気付き、作品には数億円の値が付く」みたいなものが根強くあります。
芸術家は決してお金に関わらない無垢な存在であって欲しいという、ほとんど差別的な欲望が、そういう偏見に満ちた芸術家像を作り上げます。
当然、ナイーブな芸術家はそれを真に受けてしまい、自身も売れない無垢な芸術家となってしまいます。

自己欺瞞的な逃避

基本的に生前に成功し、天才と呼ばれる芸術家は自分を売ることが上手い人です。
ピカソもダリもデュシャンも自己プロデュースによって天才になった人達です。
偶然、自分の作品と人々のニーズが合致し、芸術がお金や成功に化けることもありますが(売れた人)、基本的に売れっ子芸術家は自分の作りたいものと他者(状況や歴史の文脈)のニーズとのバランスを上手く取り、それらを同時に実現した作品を作っていきます(売った人)。

「誰かが見てくれていると信じ、自分はただ芸術を追求する。運よく生前に拾われるか、ゴッホのように死後認められるか分からないが、そこに一縷の希望を抱いて」 というのが、よくある芸術家の信念ですが、結構これはこれで無責任な生き方です。
お金を馬鹿にしながら自分は無垢で居続け、そのくせ汚いお金に関することは他人にやって貰おうとする、非常にずるい生き方です。
お金を馬鹿にしながらパトロンにおもねる芸術家は、客を馬鹿にしながら一緒に寝る娼婦のようなものです。

自分で橋を架ける

最初に戻りますが、芸術そのものにお金を得る力はありません。
それはスポーツも同様です。
生活に直結しない(役に立たない)ものは、直にお金と交換することは出来ません。

なんで野球では国内二軍の選手が普通に生活できるのに、ボクシングでは世界チャンピオンになっても牛丼屋でバイトしないといけないのか。
なんで囲碁ではチャンピオンになれば数千万円貰えるのに、オセロや連珠は数十万円なのか。

それは野球や囲碁という遊戯をお金にするシステムを作る為に、業界の優秀なセールスマンたちが一生懸命努力した、そして、今もしているからです。
それと同様、芸術がカネにならないと泣いている暇があったら、カネにする方法を探すしかありませんし、それができないなら黙っておけ、となるわけです。

理想を得るために現実を知る

本物になるためには、反対のものを通過する必要があります。
これまたアランの言うように、ただ真っ直ぐなだけでは駄目で、一度曲げたものを真っ直ぐに鍛え上げなければならないのです。
本当の「夢(理想)」をもつには、まず「現実」を知らねばなりません。
現実を知らない理想は、単なる空想やおとぎ話でしかありません。
空を飛ぶには離陸するための大地が必要なように、夢(理想)には現実という大地が必要です。
大地のない飛翔は、ただ眠りの夢中でプカプカ浮いているだけです。
芸術家として理想を追うためには、まず現実を知る必要があります。

「良い作品」と「お金」の両方得るためには、芸術と商売の両方を学ばなければなりません。
世渡り上手で成功した芸術家をバカにする、自称純粋無垢で貧乏な芸術家は、自分の持っていない能力を持っている優秀な人間を嫉妬しているだけの心まで貧しい人間です。
また、基本的なお金の勉強をしていなければ、血と汗の結晶である自分の大切な作品という子供を、奴隷契約のような悲惨な条件で売り飛ばさねばならなくなります。
本当に自分の作品の事を想うなら、汚いお金のことに関してもきちんと勉強しておいた方がいいのです。

それでも自分は…

もし、「自分は生粋の芸術家だ、お金の勉強なんてしたくない、よい作品を作ることが人生のすべてだ」と言うのであれば、お金持ちを羨んだり、嫉妬交じりで馬鹿にしたり、貧乏な自分を悔んだり、自虐交じりで誇ったり、偶然に一喜一憂する賭博師のように売れて喜んだり、売れずに悲しんだりしてはなりません。
また、一生バイオリンを弾き続け、老後になって家も家族も食べ物もないおとぎ話のキリギリスのようになったとしても、商売熱心だったお金持ちのアリさんにすがるような惨めな生き方をしてはなりません。
あなたは自分の意志で汚いお金という現実を無視し、美しい芸術という夢想に生きたのだから、いかに現実で貧しくなろうと、どうでもいいことのはずだからです。


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おわり

 

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