クーンの『科学革命の構造』(1)通常科学

科学/自然

 

 

第二章、通常科学への道

通常科学とは、ある過去の科学的業績を基礎にして進めていく研究を指し、それは次の科学革命が起こるまで一定期間続きます。
その基礎的な業績となる条件としては、第一に、その業績が他の対立する研究の支持者を転向させるほどの斬新さと独自性及び求心力を持っていること、第二に、彼らに解決すべき様々な問題を提示してくれること、です。
以下、そういう業績を、科学研究に際しての基礎になる模範(paradigm)的なものという意味で、「パラダイム」と呼びます。
身近な例を挙げれば、コペルニクス天文学や、ニュートン力学などで、さらに専門的に特化したパラダイムも存在します。

学生はこういうパラダイムを学ぶことによって、科学者集団のメンバーになるための準備をします。
彼等はこの学びを通して、集団に入る資格を与えられるため、そもそも将来この基礎や規準に反するような仕事をなすことは、ほとんどありません。
あくまでもこのパラダイムに則った研究(通常科学)の発展、成熟となります。

パラダイムが生ずる前の段階では、世界の諸現象をそれぞれの学派の解釈や世界観に従ったものとして叙述するため、同じ現象というものが存在しない混沌とした状態にあります。
しかし、この学派の中のひとつが成功し、それが支配的になると、やがてそれらの差異は消滅していきます。
勝利を挙げた学派は、そういう混沌とした情報の集積の中から自分の世界観に合うものや特別な部分のみを強調し、他は背景の闇に沈めるからです。
ある理論がパラダイムに成るためには、競争者よりも特別なものとして見える必要はあっても、直面するすべての現象を説明する必要はない(というか出来ない)のです。

パラダイムが生ずるからこそ、基礎的な議論を延々と繰り返す学派間の論争が止み、科学者は自信をもって前進することができます。
そうでなければ、有意義な動機付けも複雑で深い考察も不可能となります。
それにより、理論の定式化と事実の蒐集は、方向性の定められた生産的なものとなるのです。

あるパラダイムが生じ、それ以前の学派が次々消滅していく際、旧い研究者は新しいパラダイムへ改宗するか、以前の科学観に基づく研究を続けるかのどちらかになります。
しかし、後者の選択をすると、専門家集団から孤立し除名され、その仕事は無視されることになります。
専門雑誌の刊行や専門の学会の形成、教育課程における位置付けなどは、パラダイムを受容することにかかっています。

パラダイムを自明のものとして受容し、研究者集団に入る者は、その基礎概念や原理を検証することなく、研究をはじめます。
教科書に書いてあることを吟味することも、他の可能性を探ることもなく、ただ教科書の終りから出発し、そこからさらに専門的な研究の深みへと入っていきます。
それは必然的に共通のパラダイムを受容した専門家集団のみが解読できるような特殊なものとなり、むしろそれがある種の泊づけとなります。
それにより一般的な共通理解の機会が消失し、それぞれの学問分野の溝はますます深まっていきます。
これは、あるひとつの研究分野を一般知識人から専門科学者のものへと分離し確立するための規準(パラダイム)の獲得でもあります。

 

第三章、通常科学の性格

こうしたパラダイムの上に積み重ねられる研究(通常科学)の本質とはいったい何でしょうか。
あるパラダイムが持ち上げられるのは、それが問題を解決する際に、他のものよりも成果が上がるからです。
成果といっても、正解が出せるとか、問題を上手く説明できるとかいうことではなく、それがより多くの成果を<約束する>ということです。

[例えば、私がおもちゃ屋さんでパズルゲームを選ぶ際、それが未知の問題をたくさん提起し、なおかつそれが解決可能であるという約束をしてくれるようなものを選びます。発見的な要素が少ない、問題が退屈である、解決不可能である、ようなパズルを誰も選びません。]

通常科学とは、こうした約束を実現していく過程であり、新たなパラダイムの採用による、発見、知識の拡張、予測と事実の一致の増大、パラダイム自体の整備などが行われます。
ひとつのパラダイムの採用によって、無数の後始末的な仕事が生じ、科学者は生涯を賭けてそれを達成していくのです。
それは本人にとっては極めて有意義で面白いものと映ります。

しかしこれ(通常科学)は、自分のパラダイムの型枠に強引に自然を押し込む作業であり、枠に嵌らないものは見落とされます。
型枠に事前に既定(約束)された現象を、発見していくだけです。
それはパラダイムをより成熟させていく作業であり、科学者は新しい発明をしようとしているのではなく、実際はただ現在の状況に満足できないで、それを磨き上げようとしているだけなのです。

勿論、これは短所であると同時に長所でもあります。
視野を限定し、小さい範囲に研究を集中させることによって、詳細で深い探求を可能にします。
専門家は、あるパラダイムの採用なしには決して見出されなかったような問題を解き、成果を上げていきます。
パラダイムは科学者に真っ直ぐな道を提供し、反対にパラダイムを捨てれば(科学革命時を除いて)科学の道を降りることになります。

通常科学においての仕事は、概ね、事実の測定、理論の整備、事実と理論の調和、の三つのカテゴリー内に収まるものであり、異常な問題というものは、そういう通常科学の進歩がもたらした特別な状況において生起するものであり、求めて得られるものではありません。
後に述べますが、このような異常な事態、基となるパラダイムが機能しなくなる時、この通常科学とは別の動き(科学革命)がはじまります。

 

第四章、パズル解きとしての通常科学

通常科学の性格として、それは新しい概念や現象を生み出す作用をもちません。
結果は予想可能な想像力の範囲内に収まり、この範囲に入らないような仕事は失敗とされ、その失敗の結果は自然な現象ではなく、科学者側の誤りにあるとされます。
だから新しいパラダイムに移行した際、過去に存在したそういう役に立たなかった(当時のパラダイムの整備の)はずの結果が掘り起こされ、非常に重要な仕事であったことに後から気付くのです。

通常科学による研究の意義は、基本的にパラダイムの応用範囲と精度を増すことにあるのですが、それ以外の動機として、そこに存在するパズル解きの魅力が大きな役割を果たしています。
通常科学の問題の解決とは、予想した範囲の結果を、あらゆる種類の複雑な方法(装置上、概念上、数学上、等)によって獲得することにあり、それはある種のパズル解きの様相を呈します。

パズルとは一般的な意味通り、それを解くための優れた才能や技術が試される特定の問題のことです。
パズルの良し悪しの規準は、その結果得られるものの重要性ではなく、解答が確かに存在しうるということにあります。
隙間が溶接された知恵の輪のように、解けないパズルはパズルではありません。
科学者集団がパラダイムから得るものとは、そういう解のある問題を選ぶ規準であり、科学的であると認められ取り組まれる問題は、ここに限定されます。

それ以外の問題は、形而上学的なものや無関係あるいは無駄なものとして排斥されます。
パラダイムは、社会的に重要だが複雑すぎて手に負えない問題から、科学者集団を隔離し保護する働きがあります。
それらの問題が、パズルの形式に直すことのできないものだからです。
それにより通常科学は確実な道に専念でき、目覚しい進歩を保証されるのです。

社会的な動機(実用、開拓、秩序、批判など)は様々あれど、通常科学における研究者個人の直接的な動機として、誰も解くことのできないパズルを自分の能力によって解いてやろうという強い関心があり、それが一般的な道楽(いわゆるオタク)と同様に研究への耽溺を惹き起こします。

パズルの定義として「解が存在する」ということ以外に、「ルールが存在する」という特質があります。
ルールに則って出された正解でなければ、正解として認められないのです。
それが概念、理論、装置、方法など、いかなるカテゴリーにおけるルールであれ、それを遵守することが科学者を科学者たらしめるものとなるのです。
解を出すだけではなく、既成のルールの条件を満たすことも明確にできなければ、科学者集団はそれを無意味なものと結論付けます。
パラダイムと同様、ルールという既成のものの上に立つからこそ、研究者は確信を持って問題に没頭することができる、とも言えます。

通常科学は常にパズル解きとして、理論と事実の一致を求めます。
その暗黙の前提とされるのはパラダイムの正しさであり、上手く解けない場合はパズルの所為ではなく、科学者が悪いとされます。
もし、ゲームのルールやパズルそのもの、いわばパラダイムに疑義を呈する者がいれば、科学者集団から排斥されます。
科学の学生は、理論の証拠として教科書に描かれる模範的応用を受け容れるのではなく、教科書や教師という権威に従い、何の証拠にもならない応用を通して、ただ一方通行的にパラダイムを学ぶのです。
学生には選択の余地も、自力で検討するような能力もありません。

 

(2)へつづく