ルターの『キリスト者の自由』

宗教/倫理

十九、
以上、内なる人間については充分述べた。
次は第二部として外なる人間について述べる。
人を義とするものがただ信仰のみであるなら、なぜ善行を命じられるのか、善き者になりたいと思いながら信仰以外何も行わずともよいのか、という問いが浮かぶ。
もし、人が純粋に内のみの霊的・精神的存在であればそうであろう。
しかし、現世においてキリスト者は身体をもつ存在であるため、前項第一章で述べたように、「(霊的に)何人にも従属しない王でありながら、(身体的に)何人にも従属する僕」なのである。

二十、
内的な魂においては信仰によって充分に義であったとしても、まだ身体は現世に留まっている。
だから、信仰に次いで、今度は身体の制御をせねばならない。
身体を内なる者と信仰に従い、馴致し同化することです。
ここから、偽善ではない、本当の行為(善行)というものがはじまる。
信仰に裏打ちされた善行は、務めでありながらも神と一体にある喜びと楽しみであり、愛する者のための行為のように強制でありながら自由である。

二十一、
これらの行いは、神の前に義しくあろうとする目論見でやってはいけない。
何度も言うように、神の御前にあることができるのは、魂と信仰によってのみであり、外的行為によっては決してそこに近づけないからである。
魂の内的信仰によって、身体の外的行為が従順になり、悪い欲望が清められることが本来的なあり方であり、外的行為によって己の信仰を神に証示し義を得ようとするのは偽善でしかない。
そうした見返りを求める善行ではなく、神の御心に適いたいという自由な愛から生ずる行為がその本質であり、ここから身体を鍛える健全な行為や規準が得られる。
だからこそキリスト者は、心身ともに節度ある規律の中で健やかに鍛錬されるのであって、もし外的な善行が自己目的化してしまえば、頭も身体も壊してしまうほどの過度な善行を行うようになり、むしろ救いの無い愚昧に堕ちる。

二十二、
「神は創りたもうた人間を楽園に置き、そこを耕させ守らせたもうた(創世記2章15節)」
神によって義しく作られた罪のないアダムの楽園での生活は、ただそれだけで義しく、別に楽園を上手く管理し耕すことの報酬として義しくされるわけではない。
それと同様、キリスト者の生活も信仰によって楽園へ置かれたなら、義を得るための善行など必要とせず、ただ無為に過ごさず聖意に適うよう行為すれば自由と義は必然的に定められる。
なので信仰者が善行を行う時も、別にその行いが彼をより善くし、より多く清め、キリスト者とするわけではない(そもそも信仰によって既に聖別されてる)。

二十三、
義しい(善い)行為が義しい(善い)人を作るのではなく、義しい(善い)人が義しい(善い)行為をするのである。
同様、悪い行いが悪い人を作るのではなく、悪い人が悪い行為をする。
すべての行為に先立って、人格(魂・精神)の修養が必要なのである。
「悪い木は善い実を結ばず、善い木は悪い実を結ぶことができない(マタイ伝福音書7章18節)」
人の信仰のあり方によって行為の善悪が決定するのであり、反対に行為のあり方によって信仰の有無や義し悪しが変わるわけではない。
人は行為の前に信仰によって既に義でなければならない。

二十四、
すべての罪の始まりは、神から離れ神を信頼しないことにある。
行いからではなく、先ず信仰からはじめること。
善い実を獲ようとするなら、先ず木を善く育てなければならない。
信仰が善い人格を育て、善い人格が善い行為の実を結ぶ。
もし、行為という外面的な見かけによって人格を判断しようとすると、必ず見誤る。
一見、信心深そうで、義について語りながら、人々を牽引する者がいる。
しかし、彼らには根がなく、決して義にはたどり着けない。
それは盲人が盲人を手引きするようなものである。

二十五、
信仰のない善行は、羊の皮をかぶった狼のように、他人も自分も欺く。
これは自分自身でも気付くことは難しく、信仰が来ってこれを駆逐するまで続くため、多くの人々がこの偽善によって欺かれる。
痛悔、懺悔告解、滅罪(自分の犯した罪を悲しみ反省し、その罪を告白し、行いによってその罪を償う、というカトリックの教え)という悔い改めも、信仰がなければ一切が空しい徒労である。
悔い改めを説く際に、信仰による恩恵の約束を説き、痛悔や恩恵が一体どこからどのようにして来るかという本質を教えなければ、反省は中身のない空虚な身振りに終わる。

二十六、
以上、外なる人間(行動一般)については充分述べた。
次いでその行いにおける他者との関係について述べる。
地上において人間は自分の身体だけで生きるのではなく、他者に囲まれて生活している。
他者との交渉や付き合いは、義や救いに必要である訳ではないが、避けることもできない。
社会的な行為(生活)では、キリスト者は意志においては自由でありながら、行為においては他者に仕え役立つよう、専念せねばならない。
「たがいに愛を示し、たがいに仕え、たがいが己ではなく他者を顧みることによって、心をひとつにしなさい(ピリピ人への手紙2章1節)」
なぜ、そうなるかというと、キリスト者は信仰によって自分自身が十分に満たされている為、世俗的な行為においては隣人に仕えるための自由と愛が残されているからである。
キリストご自身は義と祝福に満ち、何ら必要としなかったにもかかわらず、すべてを捨てて僕(しもべ)のようにあらゆることを行い忍び、私たちの最善の他には何も顧みられなかった。
すなわち彼は自由でありながら、私たちのために僕となったのである。

二十七、
これらの行為は、ただ神を喜ばせること以外、何の報いもなしに行うものである。
神はキリストを通して、特別な価値も何の功績も祝福もないこの私に、純粋な憐れみの心から、全くただで、義と祝福に満ちた富を与えてくださった。
そんな神に対しては、私も喜んで見返りを求めず彼の喜びたもうことを行いたい。
そして、キリストが隣人である私のために与えて下さったように、私も隣人に対しキリストのように与えよう。
信仰によって神への愛が溢れ、この溢れる愛から、報いを求めず隣人に奉仕する自由で喜びに満ちた生活が自然と生ずる。

二十八、
しかし、一部の愚かな聖職者はこれを理解せず、世俗の権力に服しその規定や法に従うことが、さも救いに必要なことであるかのように強制する(教会の戒めという名の下に)。
それに対し、自由なキリスト者はこう言うだろう。

「私は断食し、祈り、命ぜられているあれこれのことをしよう。だが、私がそれを必要としたり、あるいはそのために義とされたり、幸いになるからというのではない。ちょうどキリストが、ご自身のためには私などよりはるかに必要とされなかったにもかかわらず、私のためにはるかに大きなことを私のために行い、また耐えてくださったように、私も教皇、司祭、教団、修道院の兄弟たち、君主たちのために、模範と奉仕を捧げて耐え忍ぶのである。たとえ暴君たちが不当にこういう要求をしても、それが神に逆らうものでないかぎり、私にとっては何の害にもならない」と。(中公バックス『キリスト者の自由』松田智雄訳より)

二十九、
以上の考察によって、誰もがあらゆる行いと戒めについて正確に判断し、聖職者の真偽が識別できるようになる。
神の信仰とそこから生じる他者への奉仕の精神がキリスト者の試金石であり、己のことだけを求め己の救いに終始する聖会、教会、修道院、聖壇、ミサ、寄進、祈願、断食などは、キリスト教にふさわしい行いとは言えない。
一部の聖職者はただこれらのものを称賛し人々を駆り立てるが、信仰については何も教えない。
もし、真のキリスト者であれば、己のためではなく他者の喜びと益のために、祈り、寄進し、断食するだろう。
信仰によって完全な充足を与えられたキリスト者には、己のために何かを得る必要などそもそもないからである。
このようにして、神の宝は人から人へと流れて皆を潤し、それぞれが隣人を己自身であるかのように受容する。
キリストが同胞として人々を受容し宝を注いで下さったように、私たちもそれを必要とする人のために注がなければならない。
私の信仰と義さえ、隣人のために神に捧げ、その罪を自ら自身のものとして背負う。
これが真実の愛の本質である。
「愛は己の益を求めず、隣人の益を求める(第一コリント13章5節)」

三十、
結論を述べる。
キリスト者は自分自身のうちでなくキリストと隣人において生き、キリストに対しては信仰によって、隣人に対しては愛によってつながる。
人は信仰によって自己を超え出て神へとのぼり、神のもとから愛によって自己へと還りくだる(しかも神と愛のうちにとどまりながら)。
これが真の霊的なキリスト者の自由であり、あらゆる罪と律法と戒めから心を解放する。
これは他のあらゆる地上の自由にまさる天高き自由である。

 

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