<第三章、哲学上の自殺>
不条理の本質
ここまでは不条理をその外側から分析してきましたが、今度は直接的な分析によってこの観念の意味内実を探ります。
「不条理性」というのは単独の経験や印象からとらえられるものではなく、必ず比較を通して成立するものです。
ある日突然クラスの皆が「1+1=3」だと言いはじめた時、「1+1=2」というものとの比較を通して不条理性が生まれます。
不条理とは二つのものの本質的な乖離関係そのものです。
ある事態の「筋道が通る(条理性)」時、それは乖離のない統一された円滑な状態であり、ある事態の「筋道が通らない」時のその乖離の状態が不条理性なのです。
今まで考察してきたように、不条理というものは世界の中にも人間の中にもないのであって、あくまで両者の間(共存かつ乖離しているつながり)にあるのです。
この世界・不条理・人間の三項関係(三位一体)は分割不能のものであり、ひとつでも無くせば、すべてが無に帰します。
私がいなければ、あるいは世界がなければ不条理は存在しえず、不条理がなければ、私も世界も存在しえません。
もし、私と世界に乖離がなければ、私と世界が一体となってしまい、人間(認識主体)が消失し、世界を認識する人間もいなくなります(サルトルの言う即自存在)。
このように、不条理の観念こそが、存在論的にも、最も本質的なものであり、第一の原理であるのです。
最初にも述べたように、もしこれを私が本当に真実だと判断するなら、それに基づいた行動をせねばなりません。
私の所与は不条理のみであり、ここからあらゆる問題の解決をもたらすことです。
不条理の本質とは絶えざる対置と闘争と定義しました。
私はそれを尊重し、行動していかざるをえません。
それは、希望を持たぬこと(絶望ではない)、絶えざる拒否(断念ではない)、不満足の意識、こうしたものを前提に生きるということです。
これらを誤魔化したり、かわしたり、あるいは乖離を破壊しようとしたりすることは、不条理を滅ぼすことであり、人間と不条理との本質的な関係を失わせてしまいます。
そのためには、人は不条理に対し見て見ぬふりをしてはならないだけでなく、許容(諦念、断念)もしてはならないのです。
人は不条理を許容せず(対立を許容すれば対立でなくなる)、不条理のままに不条理の中を生きることによってのみ、それは意味を持つのです。
人間はつねに自分が真理と認めたものの虜になり、なかなかそこから自由になれません。
不条理という真実を認識するにいたった人間も同様に、不条理に縛られ、希望を持てず、未来から締め出されます。
しかし、同時に人はこの状況(自分の小宇宙)から逃れようとも努力します。
不条理からの逃避
実存哲学の主翼をになう人達(キルケゴール、シェストフ、ヤスパースなど)は、例外なくこの不条理からの逃亡をすすめてきます。
理性の廃墟の上に立ち、不条理から出発しながら、最終的にはその自分を征圧しようとするものそのものを神とあがめ、希望の理由を見出そうとする、奇妙な論証を展開します。
この強迫的な希望は、必然的に宗教的な特性をもちます。
人間は究極的な挫折と自己の無力の自覚によって、それが徴となり、理性的な解釈を超えたものの存在に気付くのではないだろうか、とヤスパースは言います。
ここでは虚無を神のような超越者として肯定され、それによって人間の生の超人間的な意味まで出現させようとします。
これは論証によってではなく、「一般的なものと個別的なものとの、人間には理解不可能な統一(ヤスパース)」としてもたらされます。
不条理が神となり、むしろ理解不可能なものが一切の理解を可能にする存在として、定義付けられます。
これは論理的帰結ではなく、飛躍と名付けた方がよいものです。
ヤスパースのこの思考の手続きは、昔から神秘主義の思想の中にある常套手段です。
「唯一の出口は、人間には出口など存在しないということにある。人が神と向き合うのは、不可能なものを獲得するためであり、可能なものなら人間だけで十分である」とはシェストフの言葉です。
神の偉大さとは、その矛盾、不条理性にあり、神の存在を証明するものは、偽も悪も醜も(例えば、戦争や悪行や不幸や人間の醜さ等)何のためらいもなく存在させるその非人間性にあるわけです。
ここにおいては不条理の認識が不条理の受容と同時的であり、彼は不条理を前にしても「不条理がある」とは言わず「ここに神がある」と言うのです。
彼の努力は不条理を明るみに出し、不条理がもたらす無限の希望を解放することを目的とします。
結局、これらの思考が不条理を論証しようとするのは、ただ不条理を消滅させるためなのです。
後で騙すために、騙されたふりをしているだけなのです。
それはぎりぎりの地点で跳躍する軽業師のはなれ業のようなものです。
不条理が永遠(統一)への跳躍台になってしまえば、それはもはや知や明証性とは無縁のものとなってしまいます。
不条理は人間の中に統合され、闘争、対立、乖離という不条理の本質は消滅させられてしまいます。
不条理が存在するためには、それに同意しないことが必須であると以前述べました。
この跳躍は、事実上の不条理からの逃避です。
不条理を生きる
軽業師たちは、理性の虚しさの向こう側に理性を超えたなにものかの存在を措定しますが、不条理を明証的に見る者は、理性の虚しさの向こう側にも虚無しかないことを理解しています。
不条理の本質は二項対立の均衡状態にあり、一方の項にのみ重みをかけると、対立の均衡が破られ、不条理は破壊されます。
不条理な人間は、このような均一化を行わず、対立を承認し、理性も非合理も共に尊重し、経験に与えられたものすべてを対等に見つめます。
すべてに注意をゆきわたらせた覚めた意識の中には、希望の入り込む余地など必要ありません。
キルケゴールも軽業師と同様に、「信仰者は自らの敗北の中に勝利を見出す」などと言います。
本来、不条理はこの世の経験の果てにある行き止まりでしかないはずなのに、彼も不条理を彼岸への通行手形にしてしまいます。
非合理的なものに神の容貌を与え、その神に矛盾や不可解という不条理の属性を与えます。
ここにおいては何も証明されない以上、すべては証明可能だと言うのです。
「それは人間の尺度を超えている、だから、超人間的なものでなければならない」というわけです。
しかし、この「だから」には論理的な確実性や経験的な蓋然性は少しもありません。
確実に言いうることは「それは人間の尺度を超えている」の一言だけのはずであり、だから以降は余計です。
己の限界を知った理性はその思い上がりを犠牲にし、超理性的なものに身をゆだねるべきだと彼らは言いいます。
けれど、理性の限界を認めることが、即、理性の否定に向かわねばならない、ということに結びつく必然性も論理的整合性も見えません。
ただ私は理性がその明晰さを保っていられる限界点(二項の間)に身を置いていたいだけなのです。
それが知の傲慢だと言われても、私にはなぜそう言われるかの理由を見つけることができません。
キルケゴールは、「絶望」とは神から遠ざけられた人間の罪の状態そのものであると言います。
しかし、実際は「不条理」とは端的に神のない罪の状態であり、それ(神なき罪)が人間というものを本質的に定義付けるあり様の記述なのです。
問題はこうした不条理の最中で実際に生きることです。
この不条理な生を生きようとし、何らかの指針や規則を求めても、提示されるのは不条理の基礎を崩壊させるものや、不条理な生そのものを破棄せよという命令ばかりです。
彼らは本質的な部分を曖昧にし、真なるものを探究するそぶりをしながら、ただ願わしいものを探究しているだけなのです。
「もし人間が永遠なるものをもっていないとしたなら、決して埋めることのできない底なしの虚無が事物の下に隠れているとしたら、人生とは絶望以外のなにものであろうか」とキルケゴールは問います。
その可能な答えは、ただ断固たる態度で「絶望」を選びとればよいだけです。
私はこれら実存哲学者の態度を「哲学上の自殺」と呼びます。
思考が思考自体を否定し、自分を否定するものの中に飛び込んで自己を無にしようとする試みです。
実存哲学者の否定がすなわち神であり、これは人間的理性の抹殺によってのみ成立します。
自殺の仕方にも色々あるように、神への飛躍の仕方も、その表れとしての神の性質も、色々あります。
本質的なことは、不安定な矛盾した存在である人間精神は、つねに永遠に憧れており、ただそれ目がけて飛躍を行ってしまうということです。
彼らも、はじめは世界には統制的な原理など少しも存在しないと考えながら、結局この飛躍によって、最終的には世界に説明原理を与えてしまうのです。
現象学の態度
では、理性の無力を自覚するもうひとつの潮流、フッサールと現象学者たちについてはどうでしょうか。
フッサールの方法は理性の古典的な歩みを否定します。
古典的な思考とは統一であり、諸現象をある大きな原理のもとに統合し整理し秩序づけることです。
それに対して現象学は、世界の説明を拒絶し、諸現象の成立過程の記述のみに終始します。
ここにおける思考とは、見ることの学び直しであり、ひとつひとつの現象に固有の場所を与え、それらを大きな原理に回収しないものです。
そこには諸現象を統合する統一(普遍的真理)が存在するのではなく、ただ無数の固有の現象(相対的な無数の真理)があるだけです。
夕暮れ時の潮風や、コーヒーカップのぬくもり、あらゆるものがそれぞれの真理を持っており、宙に浮いた漂うような意識の中で、シナリオのないモンタージュの映像のように、それぞれが等価に特別な価値を持っています。
対象の説明を拒み、記述に徹するその謙虚な態度は、可能性を解放することによって、むしろ経験を深くし、世界をその豊穣さの中で再生(再び生かすの意)することになります。
このような現象学の態度は、不条理の精神や思考につながっているように思えます。
しかし、現象学が、対象に関心を抱く志向性の問題から、その対象の奥に潜む「本質」の問題を扱いはじめた時、不条理との間に亀裂が入ります。
特にフッサールのいう「超時間的(偏時間的)」な本質なるものは、ほとんどプラトン的なイデア論(イデアとは普遍的な本質のこと)の再演に見えるからです。
たしかに意識は個別的なものの記述の果てに本質を生じさせますが、それは問題ない手続きです。
しかし、その本質を、フッサールが「超時間的(偏時間的)」という言葉で理念的なものとして扱う時、イデア論との違いは、ひとつですべてを説明する一神教か、すべてですべてを説明する多神教かの違いでしかなくなります。
〔この部分を限られた字数で解説するのは困難ですが、別に読み飛ばしても本書の内容の理解に影響はありません〕
不条理の態度
理性(フッサール)も非理性(キルケゴール)も、道は違えど結局たどり着くところは同じであり、それは思考による思考自体の否定です。
彼らの考える非合理的、反理性的な主題は混濁し、自らを否定することによって逃走するような理性なのです。
これに対し不条理は、自らの限界を確認している明晰な理性です。
不条理という唯一の明証的事実は、欲望する人間精神とそれを裏切る世界との背反状態であり、統一性への郷愁とバラバラになる宇宙との乖離であり、それと同時に、それら矛盾する断片郡を結びつけるものでもあります。
キルケゴールは私のこの郷愁を抹殺し、フッサールは分裂し矛盾した宇宙をしれっとまとめ直します。
私が求めるのは、このような哲学の自殺ではなく、端的に自殺の可能性そのものです。
人は不条理に基いて生きることはできるのか、それとも不条理ゆえに死ななければならないのか。
自殺から情緒的な内容を除去し、自殺の誠実な論理を知りたいだけなのです。
「すでによく知っていて居心地の良い生存条件の中で生きかつ思考するという強固な習慣から抜け出せ」とフッサールは言うわけですが、彼も最後の瞬間に飛躍してしまうため、結局、居心地の良い永遠的で統一的なものに帰還するのです。
飛躍に先行する微妙な瞬間の中にある危険な状態、眩暈のするような境界の稜角に立ち身を支えることが、唯一誠実な生き方なのであり、他はごまかしに過ぎないのです。