虚無感
ある休日、長い昼寝をしてしまって日暮れ過ぎに起きた時、理由も分からない虚無感や不安に襲われることがあります。
そんな日常のほんの些細な出来事や瞬間に訪れるこの虚無感の正体とは一体なんでしょうか。
作られていく「私」
人間は本来、生まれたときには何者でもない無垢な存在です。
しかし、人間社会に生まれた以上、様々な社会的役割が与えられます。
生物学は私に種としての「人間」という役割を与え、医学は私を「男性」という役割にカテゴライズし、国家は私を「日本人」という役割において登録します。
そういう風にある程度他者に与えられた社会役割を基礎にして、今度は自分自身でそれら役割を選び取っていくことになります。
人間であり、男性であり、日本人であり、東京人であることを選び、私立大学生であることを選び、アニメオタクであることを選び、ニヒルな生き方を選び、・・・。
そうやって私は本来無垢であった私に社会役割や属性を付与し、その責任を引き受けていくことによって、社会の中での「居場所」を確立していきます。
役割や属性の選択によって、他者との区別と自己の個性を同時に生じさせます。
いわゆるアイデンティティー(自己同一性)の構築です。
これは空間的な社会における位置付けのみならず、時間的なもの、いわゆる歴史についてもいえることです。
私たちは基本的に私の自分史を作りながら生きています。
例えば、貧乏な家に生まれ、必死で努力し良い学校へ行き、尊敬できる教師に出会い、彼の影響で自分は医者になり、リタイアした今はその資産で貧しい子供たちのための無償の学校を運営している、という風に、私のストーリーが私という人間(キャラクター)の存在理由を生じさせます。
それぞれの人が過去・現在・未来の時間軸の中で、自分の歴史的な居場所を構築し、すべての経験は自分の物語(自分史)の中に統合され意味づけられていきます。
これら社会役割と自分史が、「私」というものの本質(何であるか)を構成しています。
壊れる「私」
しかし、ある瞬間、これら作り上げた「私」が崩れることがあります。
受験の失敗や失業、大病や身近な人の死などによって、「私」を作っていた社会役割及び自分史の重要な構成要素を失った時、その剥がれ落ちた空隙から、元あった「無垢な私」というものが出現します。
例えば、私が十年以上住んだ賃貸マンションの部屋は、もう私の身体同様に親密なものとなっていましたが、ある日エアコンが壊れそれを外した時、前の住人の壁紙が出現し驚き、決してこの部屋は私のものではないと気付かされます。
私が作り上げてきた「私」は、あまりにも親密すぎ、すっと一緒にいるため、それがまるで永久不変のものであるかのように錯覚してしまいます。
だから本来あった自分の無垢な姿に出会ったとき、その幻想の「私」が瓦解し、そこに虚無を感じてしまうのです。
ここに冒頭に挙げた休日の虚無感の正体があります。
休日という社会役割から解放される日、普段のスケジュールとは違うイレギュラーな睡眠によって時間の連結から外れる瞬間、自分の社会役割と自分史が宙に浮き、私は本来の無垢な自己に還ります。
それが虚無感を生じさせ、自己同一性の地盤(社会役割と自分史)を失った根無し草のような不安を生じさせるのです。
「私」を再構成する私
しかし、虚無感というものは、たんに私が「作り上げてきた私」を当然なものとして勘違いしてしまう先入観によって生じるものでしかありません。
マンションの管理者は、私の部屋の居住履歴を明確に知っているため、壁紙が剥がれて先住者の壁紙が出てきても、それは当たりまえ過ぎて驚くことなどありません。
だから虚無感を感じる人とは、それだけ「作り上げられた自分」に本来の自分が囚われているということです。
それは、化粧ばかりしてきた女性が、化粧後の美しい自分を本当の自分と思い込み、すっぴんの自分を怖れるようなものです。
虚無感はなんら恐れるべきものではありません。
それは無垢な自分との出会いであり、社会役割と歴史に呪縛される前の自由な存在であった本来の自分を思い出す瞬間です。
例えば何らかの社会的失敗や喪失によって虚無に陥った時、それは終りではなく新しい可能性へのスタートでしかありません。
ある哲学者はこの虚無感を「良心の呼び声」と言います。
作られた自分に支配された本当の自分が、虚無感を通して、もう一度無垢な自分を思い出してくれと訴えているのです。
無垢な自分と出会うこと(虚無)を恐れ、人を信じず、希望をもたず、行動を起こさずにいる人は、一度、無垢であった自分を思い出し、そもそも自分は失うものなど何ももっていないことに気付くべきです。
失うものといえば、ただ自分で勝手に作り上げてきた自分に対する幻想だけです。
多くの作家や思想家が、この虚無からの逃避を訴えるわけですが、それは逃げれば逃げるほど強大になる不安であって、むしろ逆効果です。
そもそも虚無は人間の本質です。
影が怖いからといって影を無くせば、光そのものも無くなってしまうように、虚無を無くすことは人間を止めること(主体と自由を失う)に等しいのです。
虚無を怖れる必要など一切ありません。
虚無の不安と、冒険の前のワクワク感は本質的には同じものです。
問題はそれに対する人の心のあり方です。
視線が過去に向いている人には、今まで培ってきたものを壊す虚無は不安となりますが、視線が未来に向いている人には、虚無は自由としてあらわれます。
社会の中で作り上げてきた過去の結果としての「作られた自己」に重きをおけば、虚無は不安以外の何ものでもありません。
しかし、これから未来に向けてさらに自己を「作っていこうとする自己」に重きをおく人には、虚無は自由のワクワクとして感じられるものとなるのです。