四、真の有閑(多忙の反対)とは、英知を求める生活にある
自由な時間を、過去の偉人に学び英知を手にすることに使う人だけが、生きた人間と言える。
それによって、自分の時代や人生だけでなく、過去の時代や、優れた過去の偉人の経験を、自分に継ぎ足すことができるからだ。
私たちは、他人が苦労して手に入れた素晴らしい遺産を自由に相続する権利を持ち、それによって培った大きな心で、人間の弱点である視野の狭さを克服することができる。
ソクラテスと議論し、エピクロスと安らぎ、ディオゲネスと自由を謳歌できる。
すべての時間と交流する可能性が与えられているのだから、狭く儚い時間を離れ、時代を跨いで、もっと多くの優れた人たちと経験を共にしよう。
人間はよく「自分の親を選ぶことはできず、境遇は偶然によって与えられる」と嘆く。
しかし、偉人たちは多くの場合、「学派」というそれぞれの家を持ち、先人に教育を受け、その財産を受け継いだ。
彼らは何の強要も見返りもなしに与えてくれ、どんな時も相談に乗ってくれ、見習うべき手本にもなってくれる。
彼らはあなたに道を開いてくれ、時に手を引いてくれる。
これこそが死すべき生を引き伸ばす、唯一の方法である。
人間の社会的名誉も財産も、長い年月がすべてを風化し滅び去る。
しかし、人類の英知は永い時代をまたいで生き続ける。
だからこそ、英知を求める者は人間の世俗的な制約から解放され自由でいられる。
英知ある者は、過去を所有し、現在を使いこなし、未来を予測する。
そうやって、すべての時をつなげることによって、自分の人生をも永くするのである。
五、時間に向き合わない人の人生は短く、不安に満ちる
これに対し、過去を忘れ、現在を疎かにし、未来を怖れる者の人生は短く、不安に満ちる。
彼らは死が間近に迫った時、自分の人生が無意味なものに使われていたことに気付くが、もう手遅れである。
彼らの中には、人生に飽きて死んでしまいたいと思う者もいるが、それは彼らの人生が長く飽きてしまったのではなく、無知からくる不安定な精神状態に耐えられなくなっているだけである。
不安であるがゆえに怖れの対象そのものに飛び込んで、自分もろとも不安を玉砕しようとする。
彼らは死を怖れるがゆえに、死を望むのだ。
反対に、立派な人達は死を怖れないため、自殺願望などもたない。
そんな愚かな人達は、しばしば一日を長く感じ、時間の経つのが遅いと愚痴る。
しかし、それは彼らの人生が長いということではなく、未来の期待(予定)に囚われており、今という時間を有効に生きることを知らないからである。
待ち望む未来の出来事(出勤、夕食、休日、等)までの間隔は、使い道の分からない人生の空白の時間であり、彼らはそれをただ無駄に過ごす。
そんな彼らにとってみれば、人生の日々は、長く厭わしいものになってしまう。
なぜなら、楽しみにした休日やテレビ番組は一瞬で終わり、その次の予定まで、無意味な空白の時間を耐えなければならないからである。
夜の楽しみを願って昼を失い、朝が来ることを恐れ夜を失ってしまうのである。
未来に篭絡された人間は、今を十分に生き、楽しむことができない。
彼らの楽しみはそれ自体が不安であり、楽しんでいる最中に、「これはいつまで続くのだろう」と頭をよぎる。
裕福や幸福を得ても、いつかやってくる破滅を思い、怯えている。
その理由は、それらが確固とした基礎の上に建てられていない、虚しい空中楼閣のようなものだからである。
そのどんな幸せも、不安に満ちている。
幸運は気まぐれの偶然性であり、信頼がおけない。
幸福であり続けるには、さらなる幸福が必要になる。
願いが叶えば、また別の願いを持たねばならない。
苦労して手に入れたものを保持するには、さらなる苦労を必要とする。
高く昇れば昇るほど、転落のリスクが大きくなるように、幸せは不安を生み出していく。
このように、不安の原因は、不幸だけでなく幸福からも生み出され、なくなることはない。
希望が希望をかきたて、野心が野心をかきたて、不安と多忙の中でかけがえのない人生の時間は忘却され、悲惨は形を変えながら、人間についてまわる。
六、多忙な生活を止め、本当の人生を生きること
だからこそ、そんな俗人俗世の世界を離れ、若い活力があるうちによりよい道を選ぶべきだ。
徳を実践し、欲望から解放され、生きること、そして死ぬことを知り、深い安寧の中で生きるのだ。
多忙な人は、みな惨めな状態にある。
常に彼らは他人のことあくせくしている。
他人の歩調に合わせて歩き、そして休み、自分の好き嫌いも自由な決断も、結局他人の意見である。
自分の人生がどれだけ短いかを知りたかったら、人生の中で自分のものである領域が、いかに小さいかを省みれば分かる。
高官の立派な制服や公の場でさずけられる勲章を、羨ましがってはいけない。
それを手に入れるためには、人生を犠牲にしなければならない。
一生の内のほんのひと時の名誉に与るために、人生のすべての年月を費やす。
野心を持って挑んだ闘争の中で敗れる者たちがいる。
血と汗の滲む必死の努力がたたって、道半ばで自滅する者もいる。
そして、労苦を積み重ねやっとの思いで目的の名誉へたどり着いた者も、結局それはただ自分の墓碑に称号を刻むための記号でしかなかったと気付き、悲しむ。
ひとは、互いの時間を奪いあい、互いの平穏を破りあい、互いを不幸にしている。そんなことをしているうちは、人生には、なんの実りも、なんの喜びも、なんの心の進歩もない。だれも死を見すえることなく、遠くの希望ばかりを見ている。じっさい、人生を終えた先の準備までしている者もいる。巨大な墓とか、本人を記念する公共建造物とか、葬式で催される見世物とか、盛大な葬列などだ。
だが、いいかね。ほんとうは、こんな人たちの葬式は、たいまつとろうそくを灯しておこなうべきなのだ(当時子供の葬式は夜に行われた)。彼らの人生が、とても短かったかのように。~セネカ著、中澤務訳『人生の短さについて』光文社古典新訳文庫より