差別の二つの類型
誰もが簡単に自分の意見を述べられる時代、誰もが自分を被差別者だと訴えます。
それによって本当の差別が覆い隠され、見えにくくなっているのが現状です。
そこで少し差別というものの本質や定義を、もう一度見返す必要がありそうです。
差別を訴える人には、大きく二つの類型に分けられます。
ひとつは「役割を押し付けないで」と言う人、もうひとつは「役割に優劣を付けないで」と言う人です。
その一、自由でありたい
「女は女として生まれるのではない、女になるのだ(ボーヴォワール)」とは、フェミニズムの有名な言葉です。
この言葉の基本原理はパートナーであるサルトルの実存主義に負っています。
サルトルの実存主義を一言でいえば、「人間は人間として生まれるのではない、人間になるのだ」です。
私たちは生まれたときには何者でもない無垢な存在です。
しかし、人間社会に生まれた以上、様々な社会的な役割(いわゆるキャラ)が与えられます。
人間、男性、日本人、長男、大阪人、学生、社会人、等々。
それに従い、社会からその役割に忠実であるよう求められます。
お前は人間らしくあれ、男らしくあれ、日本人らしくあれ、長男らしくあれ、大阪人らしくあれ、学生らしくあれ、社会人らしくあれ、等々。
生まれた時は何者でもない私が、男性という社会役割を引き受け男性らしく振舞う時、「私は男として生まれるのではない、(男という役割を引き受け)男になる」のです。
この社会役割というものをすんなり受け容れ、忠実にこなせる人には、社会というものはそれなりに生きやすい場所です。
しかし、当たり前の話、そうでない人もかなりいて、その役割の押し付けや圧力を負担に感じ、苦しむ人もいます。
なぜそういうことが起こるかというと、社会役割というものが単なる抽象的な記号、恣意的な決め事として成り立っているものだからです。
国境線というものは政治家が勝手に決めたものであり、生物学のカテゴリーは学者が勝手に決めたものであり、職業のカテゴリーも社会が勝手に決めたものです。
厳密にいえば私は男性でも日本人でも人間でもありません。
学問的あるいは事務的な手続きとして、ただそう分類され登録されているだけです。
「俺は俺だ!」「私は私だ!」「君は君だ!」という言葉は、歌や映画や小説などで叫ばれる常套句です。
自分という人間の何であるか(本質)を社会が勝手に決めないでくれ!という、自由を求める叫びです。
この社会役割の圧力を差別としてとらえ訴える人が、第一の類型です。
その二、平等にあつかってほしい
第二の類型に属する人達が望むのは、社会役割は引き受けるけどそれに優劣つけないで欲しいということです。
いわゆる、区別はいいけど差別はだめ、なのです。
語義的に「区」は平面的な横の分割です。
北区、南区、東区、西区、のように、それらは平等な同列のものとしてあります。
これが「区別」です。
語義的に「差」は上下間の分割で、優劣の意を含みます。
落差、段差、温度差、貧富の差、のように、程度の概念を含んでいます。
だからトイレを男と女に分けることは、単なる区別です。
しかしそのトイレの設備に優劣の差が付いた時、「差別」になります。
「私は社会役割として女性であることの区別を引き受けます。しかしなぜ男性役割とこれほどまでに利益や待遇において程度の差を付けられなければならないのでしょうか。それは差別であり、平等を望みます」と、いうことです。
もちろん、社会役割という区別そのものに、優劣や程度の概念が入っています。
成るのが難しく社会的責任の重い外科医と、服のかけはぎを職業とする近所のおっちゃんが同じ待遇であれば、それこそ差別です。
しかし、いずれにせよ基準になっているのは「平等」です。
それは、あらゆる区別を平等に扱い、差別しないで欲しいという願いです。
差別のない社会とはどういうものか
「差別のない社会」を理想として持つのには良いですが、それを完全に現実化することは不可能です。
人が集まり社会というものを形成する以上、各々が何らかの区別された役割を引き受け、分業と交換をもとに生きるからこそ、人は社会の恩恵を受けます。
それと同時に先祖が受け継いできた役割の遺産があればこそ、社会や文化は発展していきます。
社会が与える役割や歴史が背負わす役割が負担だからといって、皆が風来坊になれば、社会というものは消滅してします。
だから、必要なのは社会役割(区別)を無くすことではなく、その選択の自由です。
また、社会役割の区別の中に優劣が生じることも必然です。
区別の中でも貴重なものや重要なものや有益なものや主体となるものは優位に置かれるでしょうし、そうでないものは従属的なものとして扱われるでしょう。
しかし、もしすべての役割に対し上下を設けず、フラットにしてしまえば、人間社会は何の秩序もない原始的な物々交換の共同体に舞い戻ります。
役割に上下の落差が生まれたとき、はじめて人間行動に秩序や合理化や効率化が生じます(人間の管理というものが可能になるということです)。
人間社会の豊かさとは、社会役割の区別によって生じる分業と、上下の差によって生じるそれら役割の秩序化に拠っています。
ここでも重要なことは上下の差をなくすことではなく、なんの根拠のない上下差、何の秩序も生まない不合理な上下差、恣意的かつ感情的で、むしろ秩序やつながりを分断するような上下差をなくすことです。
差別の基本構造
差別の基本は、その人自体やその人の中身を見ないで、ステレオタイプ(固定観念)化された記号(肩書)で判断するということです。
例えば、「大阪人=明るい・面白い」というステレオタイプ化された記号によって、大阪出身の人は大阪のステレオタイプ(~らしさ)を強要されます。
その人自体としては生真面目であっても、ノリツッコミできる程度の面白さくらい持たねば、生きにくい世界になります。
ツッコミで頭を叩かれる度に心傷付いていたとしても、真面目で繊細な”その人自体”は考慮してもらえず、あくまで彼はツッコミを美味しいと思う「明るく・面白い」大阪人です。
その人自体を考慮する必要のない統計的な情報収集や、その人自体を考慮している時間のない就活の書類選考などにおいては、ステレオタイプ(~らしさ)で物を見ることは有益です。
しかし、友人関係のように、その人自体を見る必要も機会も時間もあるのに、ステレオタイプ(~らしさ)で判断するのは有害です。
注意しなければならないことは、悪い意味でのステレオタイプ(例、ユダヤ人=好色で守銭奴)は明確に差別だと分かりますが、良い意味でのステレオタイプ(例、ユダヤ人=頭が良く仲間思い)も差別であるということです。
その人の中身を見ず、記号で判断するという意味で、誰かを盲目的に崇拝し、「天才」呼ばわりしたり「聖人」扱いするすることも差別なのです。
例えば、ひと昔まで多くの日本人は、漫画やドラマの影響によって、教師や医者を「=善人・聖人」のステレオタイプで見ていました。
そのため、普通の人なら許される程度の小さな悪を犯しただけで、彼ら(教師や医者)は袋叩きに合います。
純白の布は小さな汚れでも目立つように、ステレオタイプによって聖人とされた人々には、普通の人が許されることが許されない、つまり(ネットスラング的な意味で)人権がないのです。
負のステレオタイプ(例、黒人=愚鈍)を正のステレオタイプ(黒人=聡明)に変えること(イメージや固定観念の刷新)によって差別を無くすことはできません。
それは差別(記号で判断する事)に便乗した問題の転嫁にすぎず、差別の眼差しを別の方へ向け変えさせるだけに終わります(いじめの対象を変えることによって自分は助かる的な問題解消法)。
私がイメチェンしてイジメられなくなったとしても、クラスメートに差別の眼差しがある限り、すぐに別の子がイジメの対象になります。
根本的に差別を無くすためには、個々人が、外見の情報だけでなく中身の情報までしっかり確認する労力を惜しまない姿勢、いわば人格把握の際のリテラシーの能力を育む必要があります。
その人の記号が「下町出身・中卒・とび職」であろうが「山の手出身・東大医学部卒・病院長」であろうが、その人の中身が聡明であれば聡明、馬鹿であれば馬鹿と判断できる本質を見る目を養わなければ、私たちは差別から離れることはできないでしょう。
おわり