自信の定義
「自信」というものが語られる際、多くの場合それは自分を信じる信じない以前の問題を意味しています。
「信じる」ということは、そもそもその選択の前に「疑い」がなければ生じないものです。
例えば、私の子供が私の子供である事はたんなる「当然」です。
しかし、突然、昔お世話になった病院の産婦人科から連絡があり、出生時の取り違えの可能性があるとの連絡を受けたとします。
そうして私の子が私の子ではないかもしれないという「疑い」が生まれた時に、はじめて、私の子が私の子であることを「信じる」という事態が生まれます。
だから、私が模試で悪い判定ばかりとっていたとして、本試験にのぞむにあたって「自信がない」というのはナンセンスです。
そんなものは単なる「当然」であって、信じる信じないの問題ではありません。
根拠があれば、そもそも「信じる」ということが成立しないのです。
勝ちまくっているピッチャーが次の試合で「自信がある」とか、負けがこんでるピッチャーが「自信がない」などと言うのは、過去のデータ(根拠)から導き出された「当然」です。
「不合理ゆえに我信ず」という有名な言葉は、裏を返せば、合理的であればそもそも信じる必要もないということです。
自信の本質
だから「信じる」ということは、根拠から推して勝てない公算が同等以上に大きい(いわば疑いがある)場合に、それでも戦いにのぞむような時に生ずる概念です。
「信じる」ということは、いわば「賭け」です。
ドラマや漫画によくあるように、少ない可能性しかない時に、それでもそこに自分を賭すときに、はじめて「自分を信じる」という言葉が意味を持ちます。
だから、ただ自分の出来が悪くて「自分を信じられない」などという人は、まずそんな言葉を使うことをやめて、それが当然であること(過去にできなかったことは次もできない)を受け容れて、出来るようになるための努力をすべきなのです。
そうやって限界まで努力したけれど、次の勝負で勝てる確率は少ない、けれどそれでも私は「自分を信じて」そこに賭ける。
それが「自分を信じる」ということです。
やるべきことは十分やったとしても、それでも自分を疑いながら自分を賭さなければならない状況が、この長い人生において幾度もあります。
そんな時に「えいやっ」と、根拠のない自分を賭けて飛び込むことを可能にする力が「自分を信じる」ということのなかにあります。
そういう意味では、「信じられない」ということは、「賭けられない」ということと同義なのです。
自信をつける方法
「信じる」ということの本質が根拠のない賭けであるとは言っても、最初に述べたように、多くの場合、「自信」は「当然」と同じような意味で使われています。
そういう通俗的な意味での自信をつけるためには、その当然の確率を上げていくしかありません。
生まれた落ちた時は、自分は自分を信じても疑ってもいなかったはずです。
しかし、生きていく過程で自分が自分を信じられるような行為や、逆に自分を疑ってしまうような行為を積み重ねることによって、今の自分を作り上げてきたわけです。
だから、もし、今の自分を信じられないのなら、今度は自分を信じられるような行為を積み重ねることによって、信じられる自分を作っていけばよいだけです。
朝、目覚まし時計が鳴って止める。
このまま二度寝する自分と、きちんと起きて余裕を持った朝支度をする自分、どちらが自信につながるか。
授業で先生に当てられて答えられなかった問題。
分からないままにしておく自分と、家に帰って調べる自分、どちらが自信につながるか。
そうやって日々の行為の中で、少しずつでも自分が自分を信じられる選択肢を選んでいけば、いつか自信がもてるようになります。
自分の中に理想の人間像(当然あるべき姿)があって、現実の自分がそれと比較して劣っているからこそ、自信がもてないわけです。
行為によって努力して、その理想(当然)に近付かない限り、自分は一生自分を信じられないままです。
おわり