はじめに
努力は報われないとよく言われますが、たぶん努力は報われます。
努力が報われないと感じるのは、努力の意味を間違えて捉えてしまっているからです。
生産性のない無意味な根性論や努力の美化も、そういう捉え違いから生じます。
手段と目的の誤認
例えば、ある人がプロボクサーになるために、一生懸命練習していたとします。
その人はプロボクサーに成るという目的のために、その手段として練習します。
あくまで主眼はボクサーに成るという目的で、練習はその目的をかなえるための単なる手段です。
しかし、これを第三者から見ると、「彼は一生懸命練習をしたからプロボクサーに成れたんだ」と転倒して捉えられがちで、反対に手段が主眼となってしまいます。
私とあなたが向かい合う時、私にとってのそっちがあなたにとってのこっちになるように。
そこで「一生懸命練習をすればプロボクサーに成れるんだ」という錯覚が生じます。
努力や練習そのものが目的になり(いわゆる手段と目的の転倒)、「いっぱい汗をかけばボクサーになれる」という因果関係の誤認が起こります。
努力をしても夢は叶わない
「努力をすれば夢がかなう」という、常識のように使われる言葉がありますが、よく考えるとこの言葉は非常に奇妙です。
分かりやすくするために、言いかえてみます。
私は目的地(例えば○×小学校)へ行くために歩きます。
学校という目的地のために手段として歩きます。
これを先ほどの夢の言葉のように逆転してみます。
「歩けば目的地へ着く」
そんな訳はありません。
歩いたら前へ進む(移動する)だけで、別に目的地へ着くという因果関係は全くありません(遊園地でも刑務所でも市役所でも、無差別にどこでも行きます)。
正しくは「玄関を出て右、二つ目の交差点を左、200m先にあるコンビニと神社の間の細い道を入って突き当たりの大階段を5分ほど上ったから○×小学校へ着く」です。
小学校へ行くお兄ちゃんをうらやむ幼児が、毎日兄が走って学校へ行く姿を見て、「走ったら学校へ行けるんだ」と勘違いしひたすら町内を走り続けても、一生学校へは着きません。
夢(目的)を叶えるために必要なのは、具体的なプロセスだけであり、走るという努力そのものではありません。
ニセの努力
完全にギャグの世界ですが、この転倒された思考は私たちの中に深くまで根を下ろしています。
ボクサーの例のように、目的を達成するために一生懸命それに向かい合う人は、必然的に他の瑣末なことにかまっている余裕はなくなります。
テレビも見ないし、食事に時間をかけない、遊びにも行かないし、いつも早起きして活動をしている。
しかし彼は別にストイックであろうとしているわけではなく、ただ単に目的を達成しようとしているだけで、その結果として勝手にストイックな生活が生じているだけです。
そんな結果的な外見だけを見て、「目的を達成するにはストイックであらねばならない」という、これまた奇妙な常識(誤認)が生じます。
こんな転倒したものの観方をしていれば、いずれ「私は必死で努力して、様々なものを犠牲にしてストイックに頑張っているのに結果が出ない。努力なんてしたって無駄なんだ」となってしまいます。
家や学校や会社でも作業内容を評価せずに、ただ一生懸命頑張る姿、努力、根性、禁欲姿勢を評価基準とする親や教師や上司がよくいます。
たしかに人が一生懸命がんばる姿は美しい、夢に向かってストイックに努力する私はカッコいい。
しかし、そういう二次的なものを目的化してしまうと、一生ほんとうの目的を達成することはできません。
夢を追うという自己満足感がえられるだけでいいのであれば、話は別ですが。
本当の努力
俗にいう努力も根性も禁欲も必要ありません。
必要なのは、目的を達成するための方法をよく考え、よく試み(活動)、よく反省するというプロセスです。
科学が仮説(考え)と実験(行動)のサイクルによって着実に進歩するように。
ほんとうの努力とは、このサイクルのことです。
結局、努力しても目的が達成できないという人は、できないのではなく、やらないだけです。
ほんとうの目的に向き合っておらず、そもそもその目的を達成しようとすらしていないのです。
実力はあるが売れないと嘆くミュージシャンは、売るという目的に向き合っていないだけです。
たんに売る努力をしていないから売れないのです。
努力は報われます。
他人が目的へ向かう姿をはたから見て真似るだけの努力の模造品ではなく、自分自身が目的へ向かうという現場から生じる活きた努力さえすれば。