グルー色のエメラルド
グルーのパラドクスとは、ある法則や命題の正しさを確証するために、データや事例を枚挙してその証拠とするという実証科学的手続き(帰納法)を破綻させるパラドクスです。
私は「すべてのエメラルドはグリーンである」という仮説的命題を確証するため、毎日エメラルドを産出する鉱山を掘っていたとします。
私は既に100,000個のエメラルドを掘り出し、すべてグリーンだったため、この命題は確証されたと思います。
しかしここで別の色述語「グルー」を導入したとします。
「ある時間的地点T以前においてはグリーンであり、T以後においてはブルーである色」です。
ファンタジーで例えるなら、「ある彗星が最接近する皆既月食の晩(T)にその石(グレー)は黄金(ゴールド)に変わる」そういう変化色を「グレールド」と名付けよう、などという感じです。
そうすると、私が掘り出すグリーンのエメラルドは、「すべてのエメラルドはグリーンである」という証拠であると同時に、「すべてのエメラルドはグルーである」の証拠でもあることになってしまいます。
「グリロー(グリーン+イエロー)」「グレッド(グリーン+レッド)」等々、この色述語はいくらでも考えうるため、私が掘り出すグリーンのエメラルドは同時に無数の命題を確証することになってしまいます。
すべてがすべてを確証する
分かりやすくするため、現実的な角度から見てみます。
「時間は生物の数と同じだけ存在する相対的な多元的宇宙だ」とインドの導師が言ったとします。
そんな非科学的なことを信じられないある近代のヨーロッパの科学者が、ニュートン的な絶対時間「すべての人間は共通の時間の中にいる」を確証するため、世界各地の人間に時計を持たせて、様々な方法でその同時性を計測したとします。
1万回実験したデータから「皆は共通の時間の中にいる」が確証されます。
しかし、後日、光速に近いような状況でも観察、実験が可能な機械が発明されます。
その発明時点(T)以後は、時間は相対的に流れているというアインシュタイン的時間論が確証されます。
私たち人間程度の運動速度では観察不能なほどの微差でしかないため、「皆は共通の時間の中にいる」と思い込んでしまっていたわけです。
いうなれば、インドの導師の相対時間の命題の部分的な特殊事例として、近代科学者の絶対時間の命題があったのです。
近代科学者が1万回実験したデータは、「絶対時間」の確証であったと同時に、その反対の「相対時間」をも確証するデータであったのです。
必死でエメラルドを掘る私も、必死で時間を計測する近代科学者も、一体何を確証しようとしているのでしょうか。
私の採掘技術で掘れる範囲のエメラルドはグリーンであったとしても、より深い高圧下では、別の様態をしているかもしれません。
100,000個のエメラルドを掘った後、もうひと堀した時、100,001個目のエメラルドがブルーである可能性はつねに存在しています。
このように、経験的事例の枚挙で一般命題や法則を導く帰納という実証科学の方法論は、おおきな問題をかかえています。