レヴィ=ストロースの構造主義(3)野生の思考

哲学/思想

(2)のつづき

 

抽象の科学と具体の科学(野生の思考)

子供の頃、私はロボットのプラモデルを作るのが好きでした。
それには組み立て説明書という、超越的な視点からパーツの意味や用途を規定するアイデアマップ(本質の設計図)のようなものがあり、その筋道にそって組み立てれば、完成形の写真通りのロボットが出来あがります。
その目的(完成態)を実現するために、各パーツは機械時計のように一切の無駄なく全体に組み込まれています。
これが近代(モダン)的な合理的思考、抽象の科学です。

しかし、私は完成したプラモデルが部屋のショーケースにいっぱいになると、あぶれた物はすべて解体しパーツの状態にして、箱の中に入れておきました。
いわばその箱はロボットたちのスクラップ置き場です。
既成のプラモデルを作るよりも楽しかったのは、このスクラップの宝箱から自由に選択して設計図のない新たなロボットを作り上げるという遊びです。
足パーツのかわりにミニカーをつけてローラースケートにしたり、太い脚のパーツを腕にはめてゴリラのようにたくましくしたり、五指の手にかえて大砲や剣をつけたり、戦車の車体の上にロボットの上半身を搭載したり、等々。

とりあえず今ある限られたパーツの間に合わせで、目下の状況において必要な目的を達成するという、設計図なき方法です。
本来あるべきコンテクスト(居場所)や本来の目的・用途から引き剥がされたパーツの偶然の寄せ集めを、別の目的を達成するための手段として状況に応じて流用するということです。
これがポスト近代的な思考、不合理の中の合理性、「具体の科学(野生の思考)」です。

 

ブリコラージュ

この具体の科学としての思考を「ブリコラージュ(器用仕事、寄集め細工)」といいます。
例えば、今使用している私のワークデスクは、ペンキで白く塗った約1×2mのコンパネに小型のカラーボックス6個を脚にしてクランプでそれらを固定して出来ています。
部品本来の用途は、コンクリート打設用の型枠(コンパネ)、物を置く棚(カラーボックス)、電気アームスタンドの回転軸(クランプ)、です。
適切なサイズと予算の都合が合わなかったため、「ブリコラージュ(器用仕事、寄集め細工)」によりあり合わせの部品で作ったデスクです。
クランプに関しては、何か他に流用できるブリコラージュ的可能性を感じたため、電気スタンドのみ捨てて、それは残しておいたわけです。

近代的合理の思考において各部品はつねに帰属すべき適切な場所があり、その全体の中に組み込まれた部品はその場に馴染み、存在を主張しない透明なものになります。
しかし、ブリコラージュにおいては、部品が本来もっていた居場所や来歴や特定の機能をさらけ出したまま、潜在的な可能性を持つ複数の機能によって別の目的に流用されるため、存在(感)を消すことがありません。
プラモデルの「ガンタンク(図左)」のタンクの部分は特別に意識されない透明な存在ですが、「日本陸軍97式中戦車」の車体に「ガンダム」の上半身を嵌めたコラージュ的ガンタンク(図右)は、ロボットの下半身という新しい意味を持ちながらも、あくまでもその存在「97式中戦車」を主張することを止めません。
必然的にそれはモザイク状のちぐはぐなキッチュな外観をていします。

近代的思考においては中心的な理念から各部品全体の意味を決定するため、「部品(記号)」とその指し示す「意味内容」は一対一で連結しています。
しかし、中心なき目下の営みであるブリコラージュにおいては、ひとつの「部品(記号)」に状況に応じた無数の意味が対応したり、また逆に意味内容の欠いた浮動する部品(記号)が生じたりします。
この記号の柔軟性・可動性こそが、構造を組み立て、組み替え、世界を理解していくという全体化の当為を、いわば近代的思考の基本条件を可能にしているのです。

しかし近代的合理の思考は、自らの出自であるこのとりとめのない不合理な野生の思考を劣ったものとみなし、この不整合性(=柔軟性)を排除し、超越的な神の視点から各部品全体の意味を決定しようとします。
この矛盾が近代知のニヒリズムを生み出すことになります。
本来、超越者などいない設計図なき柔軟で豊穣な意味の世界であるはずなのに、意味は固定したものであるという蜃気楼のような希望を勝手に抱き、近代知のその希望は必然的に破れ、勝手に絶望しているわけです。