ベンサムの最大多数の最大幸福

社会/政治

道徳科学とその基準

ニュートン物理学の歴史的な成功の時代にあり、その普遍的で客観的な科学観の影響を受けて、主観的で感覚的なものに拠ることの多かった道徳や法などの倫理的基準にも客観性をもたせることを目指します(ニュートンもベンサムも同じイギリス人です)。
また、イギリス産業革命による資本主義の台頭も重なり、貨幣を基にした価値の数量化による人間の幸不幸の計算と客観的判断が可能となってきます。

物事に客観性を持たせるためには、どうしてもすべてに共通の「基準」になるものが必要となります。
ニュートン力学では「万有引力」が、資本主義では「貨幣(マルクスの項を参照)」がそれにあたります。
そしてベンサムが客観的な道徳科学を打ち立てるためにすべての元となる基準としたものが「快・苦」というものです。

 

行動原理としての快楽

快苦を人間行動の基準と考えることはベンサムよりずっと以前からあった発想です。
あらゆる動機は本質的に突き詰めていくと、すべて「快苦」にたどり着きます。

長期的な動機としては、私がいま一生懸命受験勉強するのは良い大学に行くためであり、良い大学を目指すのは良い会社に就職するためであり、さらにそれは将来の安定した生活のためであり、さらに安定した生活は快い生を約束します。
短期的に見れば、大学受験に成功すると、達成感や自尊心という快が得られ、社会からの尊敬と利益を得られます。
逆に失敗すると、挫折感、虚無感、劣等感、羞恥心、社会からの蔑視と不利益、等々の苦が待っています。

他人に善いことをするのは他者の笑顔を見るという快を得たいためであったり、他人を助けるのは、罪悪感や後悔や他者からの蔑視という苦痛を避けるためであったりします。
宗教者がいまあえて苦痛を望むのは、神に褒めてもらうという快を得るため、来世の快を得るため、悲劇のヒロインのような選民意識という快を得るため、等々。
人間のあらゆる行為の目的は快を得ること(と同時に苦痛を避けること)であり、一見苦痛を求めるような行動に見えても、それはもっと大きな快を得るための手段としての苦痛です。

人間はそうやって快苦の計算をしながら、つねに行動を選択しています。
原理的にはただ、人間行動を促進するものを「快」、抑制するものを「苦」と定義づけているだけなのですが(批判的に見れば、快だからやる⇔やるから快である、の循環論です)。

 

最大多数の最大幸福

快楽や功利の原理などというと、どうしても個人の利益のみをイメージしてしまいますが、ベンサムが言うのはあくまでも公的なみんなの利益の総計としての快楽計算です。
そういう誤解を避けるためにベンサムは「最大多数の最大幸福」と言い替えるわけです。
最大多数というのは「公(みんなの総計)」の意であり、最大幸福は「利(の最大量)」の意です。
「功利の原理」は「公利の原理」でもあるのです。
ベンサムはあくまで法学者であり、それを倫理的行為や政策の基準として考えています。

例えば、別に食うに困らない私が小腹の空いた時、ふと柿の木になるひとつの実を見つけて手を伸ばしたとします。
それと同時に三日三晩何も食べていない飢えた子供が手を伸ばしたとします。
わたしがそれを食べたとしても、腹七分目が八分目になる程度の小さな快しか与えませんが、飢えた子供にとってそれは大きな快になります。
その快の両者の総計を計算した時、飢えた子供がその柿を食べた方が「最大多数の最大幸福量」を増大させるため、倫理的にその柿を子供の所有にすることが正しくなります。

 

快苦の計算

ベンサムは快苦の計算において基準となる七項目を挙げます。

1、強さ・・・快楽の強さです。
2、持続性・・・快楽の持続時間量です。
3、確実性・・・その行為によって快楽が得られるかどうかの確率です。
4、遠近性・・・その快楽がどれだけ早く手に入るか(近いものは大きく、遠いものは小さい)。
5、多産性・・・快楽が別の快楽にどれだけ多くつながり快をより多く産出するかです。例えば、受験合格が自尊心という快を生み、自尊心はポジティブな生活態度から生ずる諸々の快を生みます。
6、純粋性・・・多産性とは逆に快楽を打ち消すような苦痛を産出する場合があります(例えばスポーツという快を得ると、同時に疲労や怪我などの苦痛を生じさせます)。
どれだけそういう苦痛を産出しない純粋な快楽であるかの基準です。
7、範囲・・・どれだけ最大多数の個人にそれらの快楽が与えられるかの範囲の大きさです。

これら快苦の計算によって得られた快楽の総量から苦痛の総量をひいた数値的な尺度によって、道徳や法の規範が導き出されるわけです。
もちろん、完全な数値化ではなく参考です。
各人が行動において頭の中でなす日常的な思考を一般則として抽出したものです。

 

動機説と結果説

倫理的問題を考える際に「動機」を基準にするか「結果」を基準にするかでその答えは大きく変わります。
ベンサムは結果としての快楽の総量を基準とする結果説で、動機説側から多くの批判にさらされます。
例えば結果のみしか見ないなら、人を助けようとした医療行為のミスにより病人を死なせてしまった医者と、意図的な毒殺を謀る殺人者の行為が等価になってしまいます。
倫理的価値判断において動機というものがいかに大切かが分かります。

しかし、結果説から見れば、動機説の言う「動機」というものの価値は単に快の総量という「結果」から逆算されて生ずるもので、それは本末転倒だということです。
人を助けようという意図が善いことで、人を殺そうという意図が悪いことだというのは、あくまでも結果から導き出された価値判断です。
例えば、敵兵に襲われた村人が娘を屈辱から守るために毒を飲ませ殺す場合、どうでしょうか。
その意図と行為が倫理的に悪いと言えないのは、娘には敵兵に虐殺される苦痛より父に毒殺される方が苦痛が少なく、父にとっても精神的にそちらの方が耐えやすいためという、功利的な結果から導き出されるものです。

ベンサム的な視点に立てば、動機説の言う「動機」とは、快を求め苦を避けるという根本的な動機と行為の間をつなぐプロセス(意図・見積もり)であって、根本動機(快の追求)そのものは端的に善でしかありません。
プラトン的な倫理観で言えば、「動機としては誰もがみな善かれと思って行動している。しかし理性的判断の誤りの為にそれらは結果として悪になる。無知を正し、理性によって正しく行為を馴致することが、悪という行為をなくす最良の手段である」という感じでしょうか。
そしてその理性によって正しく行為を馴致するというプロセスを立てる上での基準となるものが、「最大多数の最大幸福」という原理になるのです。

 

「自然は人間を快および苦という二つの君主の支配下においた。われわれがなすべきところのことを指示するとともに、同じく我々がなすであろうところのことを決定するのは、ただ、これらの君主だけである。~功利の原理はこの隷属の事実を認め、それを、理性と法律の手によって、至福の建物をたてることを目的とする理論体系の基礎たらしめようとするものである」
ベンサム『道徳および立法の原理序論』より

 

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