スキナーの心理学

心理/精神

オペラント条件付け

行動主義心理学の基礎となる理論です。
これは条件反射や刺激-反応関係という古典的な機械論的行動理論ではなく(古典的条件付けの項を参照)、あくまでも生物の自発的行動についての理論です。
オペラントはオペレートをもじって造られた言葉です。

例えば子供がお母さんの真似をして食後に自分でお皿を洗ったとします。
それを見たお母さんが偉いねと褒めてお菓子をあげたとします。
これによりその後、子供はまた皿洗いをしようとするでしょう。
逆に「高いお皿なんだから触らないで!」とお母さんが叱責すれば、子供はその後皿洗いをしようとは思わなくなるでしょう。

 

強化と弱化

自発的行動の頻度を高めることを「強化」、頻度を低めることを「弱化(罰)」と呼びます。
[古典的条件付けにおける「強化」と似ていますが、定義が異なっています。]

また、自発的行動を誘発する強化刺激を「好子(強化子)」と呼び、この例では「お菓子」や「褒め言葉」がそれにあたります。
逆に自発的行動を抑えるような弱化刺激を「嫌子(罰子)」と呼び、この例では「叱責」がそれにあたります。

好子、嫌子という字面からして褒美や罰と捉えられがちですが、厳密にはそういう感情的な概念ではなく、あくまで自発的行動頻度の増減を促す刺激でしかありません。
例えば、インターホンを押すと人が出てくるという造作ないことも「好子」です。
例えば、一見ご褒美に見えてもそれが行動頻度を低めるならそれは「嫌子」となります。

 

ポジティブとネガティブ

「好子」の出現によって自発的行動が強化される訳ですが(例-褒められるから勉強する)、これを「正の強化」といいます。
しかし、「好子」が消失すれば、当然、自発的行動は弱化されますが(例-誰も褒めなくなったから勉強しなくなる)、これを「負の弱化」といいます。

「嫌子」の出現の場合、自発的行動が弱化される訳ですが(例-勉強したら仲間に馬鹿にされるからしなくなる)、これを「正の弱化」といいます。
しかし、「嫌子」が消失すれば、当然、自発的行動は強化されますが(例-馬鹿にされなくなったから勉強する)、これを「負の強化」といいます。

「正」「負」という訳語だけでは分かりにくいので、少し変えてみます。

「正の強化(Positive reinforcement)」=好子が出現(プラス)して行動が強化される、「積極的な強化」。
「負の強化(Negative reinforcement)」=嫌子が消失(マイナス)して行動が強化される、「消極的な強化」。
「正の弱化(Positive Punishment)」=嫌子が出現(プラス)して行動が弱化される、「積極的な弱化」。
「負の弱化(Negative Punishment)」=好子が消失(マイナス)して行動が弱化される、「消極的な弱化」。

このような行動と環境の変化の関係を「行動随伴性」と呼びます。
ある状況である行動をとると、その行動に随伴して状況にも変化が起こるという、その行動と状況変化の随伴的な関係性を、そう呼びます。

 

連続強化と部分強化

行動の後に必ず好子(強化子)を与えることを「連続強化」といい、与えたり与えなかったりすることを「部分強化」といいます。
ある行動を獲得(学習)する際に有効なのが「連続強化」で、行動の維持に有効なのが「部分強化」です。
例えば、博打の元締めは、新参の客には必ず勝たせて(連続強化)博打という行動を学習させ、その行動を学習し終えると、今度は勝ったり勝たせなかったりして(部分強化)その行動を持続させます。
「連続強化」は与えることを止めれば比較的簡単に消去できますが、「部分強化」された行動は、なかば中毒的で、非常に消去しにくいものとなります。

 

心を捨てる心理学

心理学において一番重要であると思われる意識や心を、スキナーはあくまで二次的なデータとして扱い重視しません。

第一の理由として、意識や心という領域はあまりに曖昧で実証的な研究対象として扱うことが難しいため、人間行動の科学としては労力のわりに収穫が少ないという実利的な問題です。

第二に、科学の目的はその因果関係の記述と予測、それによる現象のコントロールにあります。
物理的な環境と違い内的な認知は直接操作できず、因果関係を特定するための科学において最も重要な実験が実施できないという問題です。

第三にそれがなくてもそれほど困らないという理由です。
「のどが渇いたから(意識・内)→水を飲む(行動・外)」の内-外の因果関係は、「一定期間水分摂取していない(環境・外)→水を飲む(行動・外)」の外-外関係として記述できるからです。
むしろ「のどが渇いたから」という目的の意識(内的状態)は、外-外関係の中間に付帯する副次的データに過ぎず、それは先行する環境変化(一定期間水分摂取していない)と後続の行動(水を飲む)を予測させるものでしかありません。
あたり前のはなし、水を飲むという行動の原因は生物体に水分が足りていないという外的環境であり、のどが渇いたという意識ではありません。

 

擬似科学としての心理学批判

意識と目的、いわば意欲や欲求を行動の原因とする既存の心理学の説明は、本当に納得いくものなのでしょうか。
子供がイタズラをするのはお母さんにかまって欲しいからだ、と愛情欲求という目的論で説明されるとなんとなく納得してしまいます。

しかし、スキナーはこれを擬似説明としてしりぞけます。
ただ「かまって欲しいから」という意識をもてば、イタズラという行動が結果として出てくるというのは、よく考えるとかなりナンセンスです。
仮に関係のない第三者の頭の中に「かまって欲しいから」という意識を注入できたとして、そこからイタズラという行動が帰結するなど言えるわけがありません。

過去においてイタズラをするとお母さんが反応するという好子によってイタズラという行動が強化されており、かつそれを発動させるような環境条件(退屈、孤独など)が揃うからこそ、<意識のうちに「かまって欲しい」という感情が湧き>、その行動を起こすのです。
時間的順序として行動の直前に意識が挟まれるため、それがその先にある環境という本当の原因を見えなくさせている訳です。

私が勉強するのは、過去において勉強と言う行為が、環境によって強化されているからであり、学習意欲だとか、権力欲求だとか、昇華された性的欲求などが原因なわけではありません。

この擬似説明のレトリックは、心理学において重要な人格特性の説明などにも使われています。
例えば、ある学者が木からリンゴが落ちるのを見て、「重さのあるものは下方へ向かって運動する、これを『重力』と名づけよう」と言ったとします。
そして後日、なぜリンゴは木から落ちるのかと学生に問われて、「その原因はリンゴに重力がはたらいているからだ」と答えたとします。
多くの人はこれで納得してしまう訳ですが、これは単なる「言い換え」に過ぎません。
物体は下方へ運動する=重力と名づけた上で、下方運動の原因を重力と答えるのは見え透いた詭弁ですが、騙されてしまいます。

「ある人の行動がおとなしいのは内向的人格だからだ」とか、「ある人の行動が自己中心的なのは権威主義的人格だからだ」とか、単なる言い換えという擬似説明が行動の原因としてまかり通るわけです。
おとなしい行動をとる人=内向的人格と名づけておいた上で、おとなしい行動の原因は内向的人格にあるという循環論法なわけです。

これらの擬似的説明で人を納得させ説得することはできるかもしれません。
それによって問題行動が生じるクライアントのルール(行動随伴性を制御する言語刺激)を、より精神的健康を増すような行動を導くルールへ切り替えさせることはできるでしょう。
それによって心理学的問題の解消や治療という目的は果たせます。
しかし、それは科学としての心理学ではありません。
原因結果関係の記述も予測も、それによるコントロールも不可能です。

 

科学的であること

先に挙げたニュートンのすごさは、「重力」を発見したことにあるのではありません。
そんなものはただの「名付け」であって、誰でもできます。
重要なことは、それによって世界の大半の物理的な現象を説明してしまったことです。
万有引力(universal gravitation)とあるように、落ちるリンゴの力が普遍性をもったからこそ、「科学」となったのです。

科学的であることの指標として、説明のシンプルさが挙げられます。
単純な仮定で、より多くのものを説明可能としたニュートンのそれは、理想的ともいえます。
これは科学理論において、無駄なおしゃべりを削ぎ落とす「オッカムの剃刀」として有名ですが、人間の言い訳と同じで、やたら饒舌な人は嘘(誤り)を誤魔化すために必死に仮定を付け足しているのです。

それまでの精神分析や心理学が、人間行動を説明するために、無数の仮定と言語新作を次々と生み出したわけですが、それが極めて疑似科学のあり方に似ているのです。
スキナーは、ニュートンのように、「行動随伴性」という限られた概念のみで人間行動の万有を説明しきろうとします。
それは心理学が科学であろうとする挑戦です。

 

決定論的自由意志論

スキナーの考えが決定論的で人間を物と同等に扱う管理者のように見え、人間の自由や意志を信じるヒューマニストからは非常にニヒルなマッドサイエンティストのように思われます。
しかし、自由意志の盲従から生ずる無批判な行動の行き着く先は破滅です。
誰もが自分の意志を信じ、テレビでいじめを観、新聞で戦争の悲惨を知っても、「私は大丈夫。いじめなんて馬鹿なことしないし、戦争で人を殺すくらいなら自分が死んだほうがマシだ」などと思っています。
しかし、大戦という歴史のふたを開けてみれば、そういう普通の善良な人々が、そういう状況になれば、率先していじめや拷問を行う集団の成員になるわけです。

本当に重要なことは自由意志を信じ駆けることではなく、人間は何ができ何ができないかという限界をまず知りその上で行動を起こしていくという、地に足をつけた牛歩です。
スキナーが人間行動を因果論的に記述する先には、それによって未来に向けてのよりよい行動を導いていくためです。
決定論は「人間は状況の奴隷だ」で終わりますが、スキナーが目指すのは「人間は状況の奴隷だ、しかし状況そのものを選択していくことはできる」というメタレベルの自由意志です。

会社の帰り道、焼き鳥屋の香ばしい匂いが空腹に沁み、ついつい入って無駄遣いしてしまいます。
会社を出る前に自分の自由意志によって焼き鳥屋には絶対入らないと決断してみても、その状況になればやっぱり入ってしまうのが人間です。
けれど自身の行動のその因果関係を知っていれば、会社を出る時に状況そのものを選択することによってそれを回避できるわけです。
「家まで一駅だけど焼き鳥屋の前を通らぬように電車を使って帰ろう。飲み代に比べれば微々たる出費だ」と。

私や共同体に何かこうなりたいというヴィジョンがある時、直接それに成るような方法はなく、ただ状況を選択的に変えていく(環境を整える)ことによって、そのヴィジョンへと間接的に導いていくことができるだけです。

 

おわり

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