第一章、行為の意味
生きることに意味はあるのか
生きるというのは死ぬまで続く日々の行為の連続です。
生きることの意味を問う前に、先ず行為の意味を考える必要があります。
行為の意味
そもそも、ある行為に意味があるとはどういうことでしょうか。
ある言葉を定義づけるには、反対の言葉から考察するのがセオリーです。
たとえば私が自分のある行為に対して意味が無いと思う時、こう言うでしょう。
「一体こんなことして、何のためになるんだ」と。
ここから分かるように、私のその行為が、何かのためになっている時、そこに意味があると捉えられているわけです。
何のためにもなっていない時は意味が無いと。
私の行為が他の目的を達成するための手段になっている時、その行為に意味が生まれるのです。
一般的に物事の「意味」とは、それが他のものに関係付けられることによって、はじめて生ずるものです。
「意味」とは、それが「何のための」ものかを定義付けてくれるものです。
カナヅチの存在意味は「釘を打つためのもの」であり、ケシゴムの存在意味は「鉛筆の線を消すためのもの」です。
私の行為の意味も同様です。
医者になるという目的のために勉強する人はその行為(勉強という手段)に意味を感じ、子供のためにお仕事を頑張るお父さんにとってその行為(仕事という手段)は意味があります。
だから、「生きることに意味がない」という人の悩みは、多くの場合、その行為という手段と、何かのためという目的の関係性を自覚的に把握し、日々の行為(人生)を設計できていないことから生じているのです。
医者になるため、海外移住のため、ゲーム制作のため、など、何らかの目的を明確にもって勉強するなら、勉強という行為に意味を感じますが、何の目的もなくただ強制で勉強する時、その行為に意味は生じません。
意味を許さない社会
ただ、これは個人の目的意識の問題というより、多くの場合、社会構造の問題です。
社会の生産性を飛躍的に増大させたのが分業制です。
現代社会において私は小一時間働けば、カシオやセイコーの機能的に十分な時計を買うことができます。
ですが、もしこの質の時計をすべて一人で作れといわれれば、たぶん人生すべての時間を使っても無理でしょう。
鉱山で必要な金属を採掘して、ゴムの木からゴムを抽出し、牛を捕まえてベルト革をなめし、材料を揃えるだけで何年かかるか分かりませんし、時計用の精巧なマイクロネジ一本作るだけでも途方も無い時間がかかります。
生産における作業工程を分業化して、各々が専門のプロフェッショナルとして活躍し、各々の生産物を交換するからこそ、この社会の豊かさが成立します。
しかし、この分業というものが、あらゆる事物から自然な手段-目的の関連性を剥奪します。
いわば自然な意味が失われていくということです。
欲する目的のままに生きる自然状態の人間の行為に、意味があるかないかなどという問いを発する余地はありません。
寒くて仕方ないから温まるために毛皮で毛布を縫う時、お腹がすいて肉が食べたいから獣を捕まえるために矢尻を作る時、それら行為が無意味だなど感じるはずもありません。
その自然な手段-目的関係から剥奪された行為、工場で毎日誰かの毛布を縫い、毎日誰かの猟銃を作る時、はじめて自分の行為に何の意味があるのかという問いが生じます。
例えば私が自分の家を欲し、それを自分自身で建てるために、家の建て方を勉強し、資材を集め、そして実際に労働して建てる時、それらの各行為には充実した意味感が与えられます。
自分の家を建てるという目的のために、明確な手段のつながりができており、今の行為はすべて未来の目的のためへと意味づけられています。
一方、高校を卒業して何となく建設会社に就職したA君は、自分とは何の関係もない誰かの家を建てるという目的ために、建築の勉強をさせられ、毎日コンクリートを打設するという重労働をさせられます。
A君の場合、本来建築の勉強と労働が持っているはずの手段-目的の関係性から分離させられた行為をしているため、そこに意味が見出せなくて当然です。
実(未来の目的)が収穫できない果樹をせっせと植えているようなものです。
「何のために俺は建築の勉強をして、何のために家を建てているんだ」と。
学校の勉強がつまらないのも、それが本来持っているはずの自然な手段-目的関係を剥奪された勉強だからです。
この構造は仕事に限らず、社会に生きる私たちの日常生活のすべての行為を覆い尽くしています。
自分自身で意味を取り戻す
だから、現代の分業社会においては、自分自身の力と選択によって、あらたな自分オリジナルの手段-目的の関係性を打ち立て、本来の場所から遊離した行為(手段)を自分独自の目的に結び付け、あらたな関係性の網に組み込まねばなりません。
現代において自分の行為全体の関係性をある程度自由に設計できる(いわゆる夢-大きな目的-を持って生きられる)のは、社会的なヒエラルキーの上部にいる者か、個人で生きていけるだけの財産や才能をもった一部の者のみです。
社会の末端に居る私は、ただ毎日ネジを作ったりセメントを打ったり出来るだけで、全体に関わることは許されていません。
そんな私ができる唯一の方法は、その与えられた限られた手段を、本来持っているものとは別の目的へと向け変え、自分独自の手段-目的の関係性を即興で作ることのみです。
A君でいえば、その建築の勉強と労働などの手段を、本来自然にある「家を建てる」という目的ではなく、「頑張って勉強労働してお金持ちになる」ためだとか、「人より秀でて優越感を得る」ためだとか、「施工主の喜ぶ顔を見る」ためだとか、「恋人にプレゼントを買う」ためだとか、「出世する」ためだとか、本来のものとは別の明確な目的に向け変えることで、そこに「意味」を発生させるしかありません。
おもちゃを買えない貧しい子供には、目の前にある限られたもので即興的におもちゃを作って遊ぶという創造性が重要になってきます。
草で船を作って川に流したり、古新聞で飛行機やかぶとを作ったり、回転イスをひっくり返して自動車の運転席(ハンドル)を作ったり、本来持っている「意味」を自分独自のものに組み替え、「意味」を創出していくという戦略が必要なのです。
高価な車のオモチャを買ってもらえない子供は、座る目的の手段である回転イスを、自分独自の目的である車の遊戯のための手段に変えてしまうことによって、意味を組み替えるのです。
自ずと行為の意味感を与えられる自然人と違って、意味を剥奪する社会の中で生きる私たちには、自分の力でそれを作り出すしか方法がないのです。
第二章、行為の真意
人間存在としての無意味
前項のように、手段-目的の関係性を自覚的に意識し再構築して、人生を自分自身のプロジェクトによって設計することで、社会の中での生の無意味感を脱することができます。
しかし、いずれやってくるさらに強固な無意味感というものが存在します。
いわゆる実存的不安と呼ばれる虚無感や、生老病死と向き合った時に生ずる無力感などです。
手段と目的の関係というものは、延々とさかのぼっていけば、最終的に虚無にたどり着きます。
例えば、今わたしが勉強するのは医大に合格するためであり、医大に行くのは医者になるためであり、医者になるのは地位や経済的な裕福さを得るためであり、その裕福さは快い生を得るためのものです。
しかし、この最終的な「快い生」は、一体何のためのものなのでしょうか。
ここまでくると、手段と目的関係の終点にたどり着き、その先の目的そのものが無くなってしまいます。
富や名声、人生におけるすべての世俗の幸福を手にしたトルストイは、その著作『懺悔』において、その先にある無意味感を吐露します。
前項で述べたように、「意味」というものは、個々の事象間の関係性の網の中でしか生じないものです。
だから、その個々の事象の容れ物である私の人生という全体には「意味」を適用することは出来ないのです。
私の人生そのものに意味がないのは当然のことなのです。
自分の人生を出るという生き方
だから、もし、人生という全体に意味をもたせたいのなら、その私の人生の外部にさらに何か(神や来世や歴史など)を仮設して、人生という全体をその虚構の目的に対しての手段にするしか方法がありません。
老いや病や死に向き合った時、人が神をもとめる理由がここにあります。
人生の全体を知ってしまった時、人生そのものを懸ける究極目的として「神」や「真理」などという目的を立てなければ、私の生のあらゆる行為に「意味」が無くなるからです。
いわば、私の無意味な人生そのものを、神や、来世や、歴史や、仲間や、家族や、美や、真理などの外部の目的ための手段として捉えることで、私の人生そのものに「意味」を持たせることができるのです。
神のために生きる宗教者、国家のために生きる右翼、共同体のために生きる左翼、歴史のために生きる野心家、美のために生きる芸術家、真理のために生きる科学者、から、家族のために生きる、愛護動物のために生きる、仕事のために生きる、趣味のために生きる、一般人まで。
しかし、「自分の人生を超えた真理の追究のために命を懸ける科学者」と「人生(世俗)の内の富や名声のために研究する科学者」との違いや、「自分を超えた神のために生きる宗教家」と「世俗の富や名声を得るための手段として宗教者である者」との違いなどに、本質的な差はありません。
「自分の人生内のための行為」か「自分の人生外のための行為」かは、あくまで程度の問題だからです。
自分の人生内の枠の中で絵を描く(人生設計する)か、他者や世界を含めたもっと大きな枠内で描くかの違いです。
意味という感覚
結局、重要なものはその枠の大きさではなく、自分の行為を他のものと関係付け、目的に向けて走るという行為そのものです。
例えば、こどもがボールを投げる、それを嬉しそうに取りに行く、手にしたボールをまた投げて、またそれを取りに駆け出します。
飽きることなくこの動作をくりかえすこどもは、一体何の目的でそれをするのでしょうか。
それはボールに意味があるからではありません。
単純にその運動が楽しいからです。
大人になっても、それは変わりません。
ボールという目的を未来へ投げかけ、その目的へ向かって走り、それを達成し、また新たにボール(目的)を投げて、それに向かって走る。
人生の意味とは、その「過程そのもの」が生じさせる<感じ>です。
行為の意味の本質とは、論理的なものではなく、行為そのものに伴う充実感や躍動感のような原初的な感覚です。
時々、投げたボールをひろいあげて、ふと考えます。
「何のために私はボールを投げ、それを取りにいくのだろう」と。
それは「走る(生きる)」ためです。
ただ、走るためにボールを投げるのです。
生は活動に似、死は静止に似ています。
生きているという<感じ>は、活動することによってしか得られません。
もちろん活動といっても、物理的なものに限らず、目的を持った精神活動も含みます。
だから、「人生に意味がない」と頭の中だけで考え続けている限り、永久に「意味」は発生しません。
なぜなら行為の「意味」は、目的を持った活動の中でしか生じ得ない概念だからです。
意味は目的の中ではなく、行動の中にある
目的とする対象は、それぞれ各々の人が興味を持って行動を起こす動機付け(モチベーション)を生じさせるものであれば、何だっていいのです。
仮に私が、何秒息を止められるかの記録に人生を懸けたとして、世間の人達はそれを無意味な行為だと言って馬鹿にします。
しかし、それは彼らにとっての目的と私にとっての目的が違うことから生ずる無意味でしかありません。
彼らにとって息を止めることは行動のモチベーションにならないため、無意味だと言っているだけです。
逆に私には世間一般の幸せ、金や権力や出世や家庭の幸福などは行動を起こすモチベーションにならないため、無意味なのです。
神の求道もアイドルの追っかけも、ノーベル賞受賞も会社のゴルフコンペ優勝も、名画収集も川原の石ころ収集も、同じことです。
行為の意味の本質は、目的の社会的な意味と価値による概念ではなく、その人自身が行動を起こし、ボールに向かって走り出させる何かです。
勿体ぶった言い方になりますが、目的に意味があるから追いかけるのではなく、追いかけるから意味がある、わけです。
行為自体の意味とはそのプロセスであり、同時にその際に生ずる感覚です。
第三章、批判とまとめ
目的論への批判
前章、前々章における基本的な考え方となっているのが、古代ギリシャにはじまる「目的論」です。
事物の運動というものが、すべて目的へ向かう過程だと観る世界観です。
特に東洋思想的な考えをもつ人の中には、それを批判する姿勢が目立ちます。
むしろ人生に意味や目的を求めることそのものが、文化が生み出す病だという観点です。
「人間あるがままに生きればいいだけじゃないか。鳥が飛び、馬が駆け、魚が跳ねるように、人間も自然な姿で面目躍如とした生を営めば、<人生の意味>などという文化の病は自然と消失する」と、彼らは言います。
「日日是好日」「今を生きる」「ありのまま」という言葉が流行ったり、東洋的な無為(無目的)の思想やインディアンの哲学などが定期的なサイクルで持ち上げられるわけです。
彼らにとれば、何の意味もない砂漠のような虚無の世界がニヒリズムなのではなく、本来何もないところにありもしない意味(幻想)を立てることそのことがニヒリズムなのだと。
それは何にもない砂漠に勝手に「人生の意味」というオアシスの蜃気楼を見て、行ってみたら何にもなかったと言って落ち込んでいるようなものです。
しかし、これも結局、程度の問題なのです。
人生設計の額縁(枠組み)が、「目的という未来に向けた大きい時間幅」か「日々の営み程度の小さな時間幅」か、の違いです。
仏教のお坊さんが「今、この瞬間を生きる」と言っても、彼は食べる目的のために箸を動かします。
類比的にいえば、鳥や馬や魚や動物は、思考の能力に限界があるため、必然的にその日その瞬間の非常に幅の狭い目的論の中で生きるしかありません。
しかし、人間は想像力の飛躍によって、人生全体という長い年月から、果ては歴史、宇宙の終末まで、その目的の時間幅を引き伸ばすことが出来るため、「人生の意味」などという問題が生じてくるのです。
人間が暗闇にその想像力によって化け物を見て怯えるように、見えない未来と過去の、想像力によって描いた蜃気楼によって勝手に悩んでいるわけです。
前章において、自分の人生そのものの無意味を、自己の外部の目的へと無限に拡張することによって克服しようとしたのとは逆に、無限に小さくすることによって解決しようとするのです。
前者がユダヤ・キリスト教的救済の論理で、後者が仏教的救済の論理です(有名な精神科医の治療で喩えるなら、前者がフランクルの方法、後者が森田正馬の方法です)。
ただ、この「今を生きる」という方法を現代社会の中で実行するのはかなり困難です。
目的論ベースで動く社会の中で個人が無目的(瞬間的な目的)で生きることには大きな齟齬が生じ、精神的にも経済的にも致命的な問題が起こりかねません。
経済的に余裕のあるブルジョワヒッピーや作家や宗教家のような一部の有閑階級には、「無目的の思想」というものが有効であったとしても、リアルな社会の中で生きる人間には非現実的です。
社会の中で無目的の思想は、見世物的真似事やファッション、一時しのぎのスタイルとして消費されるだけで、その本意をまっとうされることはありません。
まとめ
行為の意味とは、行為という手段を目的へ関係付ける事によって生ずる。
手段-目的の関係付けを自覚的に設計することで、行為に意味が与えられる。
しかし、社会構造がそれを難しくするため、創意工夫によって自分独自の人生を設計することが必要になる。
それらの方法によって生きることの無意味感を脱したとしても、いずれさらに本質的な人生の虚無感というものがやってくる。
それを乗り越えるためには、自分の人生をその外部にまで拡張し、他者や世界を含んだ枠組みの中で人生を設計しなおす必要がある。
あるいは逆に、人生(未来の想像的な先取り)という抽象的な枠組みで物事を観ることをやめ、日々の営みに焦点を絞る(今を生きる)ことによって、目的論という想像から生ずる擬似問題を解決する。
これら概念的な「行為の意味」よりもっと本質的な「行為の真の意味(真意)」とは、行為そのもののプロセスの中で生ずる感覚的なものである。
そのため、「生きることに意味が無い」と言って行動を起こさなければ、永遠に生きる意味は生まれない。
行為の目的の概念的な意味や価値は社会的に相対的なものであるため、とにかく目的となる対象は何でもいいから、自分自身が興味を持ったことに対し、歩幅は小さくても自分自身を賭けていくことによって、意味のサイクルを起動することが重要になる。
おわりに
ボールを追いかける子どものように、私たちは生き、そして死にます。
それを無意味だというのは、書斎の窓から公園の子どもを見やる、机上の虚構に縛られ動くことの出来ない大人だけです。
生きる意味は、生きた行為にしか宿りません。
自家発電の自転車のライトのように、車輪を回転させなければ未来の道は照らし出されません。
真っ暗闇で道が無いからと言ってペダルをこがなければ、永久に世界は暗闇のままです。