ミニマリズムとは何か

芸術/メディア

ミニマリズムの公式

ミニマリズムの本質をうまく表現したものとして“Less is more.(より少ないことは、より豊かなことだ)”という建築家の言葉があります。
この言葉で重要なことは、「より少ないことは、より多くあることだ」と直訳されるのではなく、「より豊かである」とニュアンスを変えられていることです。

分かりやすくこの変化を公式化してみます。

A、少ない・・・量的に貧しい(シンプル)。

B、多い・・・量的に豊か。

C、少ない・・・量は少ないが質的に豊か(ミニマル)。

A~Cの順で豊かになっていく訳ですが、このBからCへの飛躍が、ミニマリズムにとって重要なことで、いわば量から質の豊かさへと転化するということです。
量的に豊かなものからあえて無意味なものを削ぎ落として、質的により豊かになった状態です。

 

具体例1、俳句

分かりにくいので具体例で挙げていきます。

A、語彙の少ない子供の言葉は量的に貧しく、シンプルな状態です。

B、語彙をたくさん学んだ大人の言葉は量的に多く、豊かな状態です。

C、語彙を豊富に持ちながらも敢えてそれを削ぎ落とし、本質的に必要な言葉のみを選び出し、可能な限り少ない言葉で豊かな意味を表現する詩人の言葉、これがミニマリズムです。

その典型が日本の俳句です。
散文表現であれば何百字も要するような情景、感情表現をたった17文字の中に閉じ込めるという削ぎ落とし作業によって、さまざまな要素がより凝縮され、鮮烈に、より美しく表現されます。
ここでは鈴木大拙が『禅と日本文化』において挙げた千代女の俳句を例としてみます。

散文表現

「ある夏の朝、私はお水をくみに井戸へ行きました。すると井戸のそばにとてもきれいな朝顔が咲いていました。けれど朝顔のつるがつるべに巻きついています。お水をくむためにその美しい朝顔を取り除けてしまうのはとても残念に思えました。そのままそっとしておいて私は隣家までお水をもらいに行きました」

詩的表現

「 朝顔に つるべとられて もらひ水 」

※有名な秀吉と利休の『一輪の朝顔』の逸話も、同じくミニマリズムの典型です。

 

具体例2、絵画

小学校の美術の時間に「最も恐ろしい妖怪を描いてください」という課題が出たとします。

A、想像力のないA君は、ありきたりのツノとキバの生えた、単純な鬼さんのような絵を描きました。

B、想像力の豊かなB君は、ツノとキバにつり上がった眼、鋭いツメに双頭と八本の腕、逆立つ髪にいかづちで荒れ狂う背景、等々、想像力の許す限り豊富な恐怖の要素をてんこ盛りにした複雑な妖怪を描きました。

C、想像力のさらに豊かなC君は、画用紙をクレヨンで真っ黒に塗り、その奥に不気味に光る小さな眼と地面に転がる人の手首のみを描きました。

C君は妖怪の姿を徹底的に削ぎ落とし、鑑賞者の無限の想像力にゆだねる事によって、B君の描いた恐怖の要素の最大数を超える、無際限の恐怖の効果を生み出したのです。
ここにおいても、BからCへの飛躍において、豊かさの意味の質的な転化が起こっています。

 

豊かさのパラダイムの変化

このBからCへの飛躍において、豊かさの意味や階層、いわばパラダイムが変わらなければ、ミニマリズムではありません。
“Less is more.”が、「貧しいことは、豊かなことよりも、より豊かなことである(小は大より大である)」では、単なる論理的な矛盾命題で意味内容を持ちません。
この前の「豊か」と、後ろの「豊か」で、豊かさの意味やパラダイムが変わるからこそ、このミニマリズムのスローガンは意味をもつのです。

「物と金と情報に溢れた現代では、むしろそれらを持たないことが豊かさを生む」とミニマリストが言う時、量を所有する豊かさから、質を所有する豊かさへと、豊かさの意味を転換しようと述べているのです。
ベスト(最高)とは、最大(量的)ではなく、最適(質的)を指すということに気付く瞬間です。

上の例に挙げた、詩と絵画の豊かさにおいても、単純語彙の量的な豊かさから、語彙の重層的豊かさ(詩的言語の意味の重層性、例えば「バラ」というひとつの言葉が同時に愛や女性や情熱など複数の意味を持つように)に転化しているということに気付きます。

貧乏で服が買えないのは、貧しさや単なる簡素(シンプル)です。
いくらでも買えるのにあえて買わないという選択によって生ずるライフスタイルの価値変化が、ミニマリズムです。

 

おわり

 

おまけ:一般的なミニマリストの問題

世間一般の多くのミニマリストは、「無駄を捨て、整頓し、人生を最適化すること」を目的としています。
しかし、この理念の実践は、「捨てればいい」と言うような、そう簡単なものではないはずです。
以下に二つの反証例を挙げます。

某有名建築家のデスク周りが散らかっていたことを見かねた事務所のスタッフが、よかれと思って綺麗に整頓したところ、その建築家は激怒し、その無秩序の一つ一つが自分にとって最適化された重要な散乱状態であったことを告げました。
「無秩序とは、単に私たちが求めていない別種の秩序のことである」とは、フランスの哲学者ベルクソンの言葉です。

ある秋の日、利休が弟子に庭の掃除を命じ、弟子は塵ひとつ無いよう綺麗に掃除しましたが、利休は「まだ足りない」と言って庭に出て、木を揺すって落ち葉を散り敷かせました。
木があるのに落ち葉が全くないのは不自然(不調和状態)であり、本当の意味で整える(調和状態)とは、自然である必要があるということです。

物を集めることを止められない人間と、物を捨てることを止められない人間は心理的には同類であり、収集癖が原因のゴミ屋敷の住人と過度に物を持たないミニマリストは、躁鬱病にも似た表裏一体の関係にあります。

その人にとって整頓された状態、最適な状態は、十人十色で異なります。
当然、その環境を作り出すための方法も程度も異なります。
最近流行のミニマリストが述べる「捨てる」という実践方法は、ごく一部の人にしか当てはならない最適化であり、大多数の人にとっては、手段を目的化し本質を見失ったもの、あるいは捨てるという強迫観念への強要にしかなりません。
本当の意味でミニマリストになるためには、木を揺すってあえてゴミ(落ち葉)を散らせた利休のような柔軟な発想が必要でしょう。