語の意味とはその使用である
例えば、ある青年が星空を見上げて「綺麗だね」と恋人に語りかけたとします。
恋人はうなずいて、そばに寄り添います。
一般的にはこの「綺麗」という言葉の意味は、星空のきらめきの美しさを指していると思われます。
さらに言えば、この「綺麗だね」という言葉は、「今からロマンティックなモードに入るから、近くにおいで」という共示義(隠れたメッセージ)をあらわしているということにもなります。
しかし、後期ウィトゲンシュタインはこの既存の言語観「名指す」と「あらわす」を完全に否定して、「語の意味とはその使用である」と言いきります。
青年の「綺麗だね」という言葉は、その状況において恋人が近づくという行為とセットになって使用されるのです。
いわば青年の「綺麗だね」という言葉に対し、恋人が近づくという適切な行為を行うゲームのようなものが想定されています。
青年も恋人も、子供の頃から恋愛漫画やアニメやドラマなどから、「星空の下ではカップルが綺麗だねといって二人寄り添う」という規則(ルール)を学んでおり、ただそれを使用しているだけなのです。
いちいち「綺麗だね」は星空を指しており「今から恋愛モードに入るよ」などというメッセージを読み取った上で行為している訳ではありません。
サッカーの試合で「カズ!」と言われた時、その語に「カズという語は私を指しており、今からパスをまわすぞというメッセージがあらわされている」などと読み取らず、ただパスがきそうな場所にポジショニングしボールを受けるだけです。
既存の「名指す」や「あらわす」言語の意味というものは、この語の使用という具体的なゲームの場から後に抽象的に取り出されるものです。
けっして先に「名指しあらわす意味」などというものがあって、そのメッセージを受け取り、それに沿って行為しているわけではありません。
言語ゲーム
「イタイ」という言葉を覚える前の幼児がこけてヒザを打った時、その幼児の中にあるのは何らかの強烈な衝撃と言葉にならない叫び声「×××!」だけです。
それに対し「痛かったねー、大丈夫?」と近づいてくる母親。
一緒にこけたときに「イタイ!」と叫び泣くお兄ちゃん。
それらの状況の中で幼児は「イタイ」という言葉にまつわるルールを学び、後に適切な振る舞いをすることを覚え、ゲームに参入します。
こういう強烈な衝撃が起こった時は、「イタイ」という言葉を発しかつ泣き、周りは「ダイジョウブ?」という言葉をかけながら近づくというゲーム。
これが「イタイ」という語の意味であり、「語の意味とはその使用である」という具体例です。
この言語使用というゲームは、様々な状況に応じてルールの違うゲームが存在し、数学という言語ゲーム、論理学という言語ゲーム、詩という言語ゲーム、真面目という言語ゲーム、冗談という言語ゲーム、等々無数にあります。
しかし、これらのゲームは互いに独立したオリジナルのゲームでありながら、「家族的類似」という同一性によって、ひとつの大きな言語使用の総体である「言語ゲーム」として把握されます。
家族的類似
一般的に言葉というものは、現実の具体的で多様性のある各々のものから、それらに共通の本質的な部分を抽出してそれに名を付け、全体的にひとつのものとして同一性をもたせます。
リンゴといってもひとつひとつの形や味や色に個性がありますが、それぞれ別々に名前を付けていればキリがないので、それらに共通する本質を基準にして、同じ「リンゴ」とよびます。
しかし、本当に事物は同じ本質をもつものなのでしょうか。
例えば、わさびと唐辛子と和がらしと山椒では、同じ「辛い」といっても実際には別種の感覚としか思えず、共通の本質があるとは思えません。
考える私、無意識の私、中肉中背の私、鏡に映った私、履歴書の私・・・、同じ「私」といってもこれら全てに共通の本質などあるでしょうか。
そこでウィトゲンシュタインが提案するのが「家族的類似」という同一性です。
娘の目は父に似ている、息子の口元は母親そっくりだ、母の太い指は祖母譲りだ、等々。
家族(一族)の成員それぞれ違っていて、皆に共通の本質など取り出せないにしても、個々の部位は類似していて、その連鎖の網目が全体としてなんとなく家族みんなの同一性のようなものを成立させている。
それが「家族的類似」です。
わさびと唐辛子の辛さは似ていませんが、わさびと和がらしの鼻にツンとする刺激は似ています。
和がらしと山椒は似ていませんが、唐辛子と山椒の口がヒーッとなる持続する痺れの刺激は似ています。
考える私と鏡に映った私は断絶していますが、中肉中背の私と鏡に映った私は類似しています。
無意識の私と履歴書の私は断絶していますが、考える私と無意識の私は類似しています。
そうやって各々が断絶しつつオリジナルでありながら、部分的に似ているものの連鎖の網によって全体的に類似のものとして同一性を持っています。