ヒュームの因果論

因果

例えば私が買ったばかりのお気に入りの服を着たくて、寒い日にもかかわらず薄着で出かけて風邪をひいたとします。
私は案の定「寒い日に薄着で出たから(原因)、風邪を引いた(結果)」という因果関係としてそれをとらえます。

しかし、健康オタクの友人は言います。
「私はいつも薄着だよ。そちらの方が身体が圧迫されず血行が促進されて暖かい。あなたは普段の食事や睡眠、ストレスなどに無関心で不摂生だから抵抗力がなくなって風邪を引くんだよ」と。

医者の知人は言います。
「ウイルスが粘膜につかなければ風邪を引かない。冬場の乾燥してウイルスのつきやすい時期にマスクもせずに人混みに出たから風邪を引いたんだよ」と。

そうやって無数にある事象同士のつながりから、何を基準にして因果関係を成立させるものを決定するのでしょうか。
それは「時間的先行」と「接近」です。

健康オタクの友人の言い分ももっともですが、「風邪を引く」という事象により接近している原因は「薄着で出る」の方です。
「普段の不摂生→薄着で出る→風邪を引く」です。
貧しい私がパンを盗んで罰せられる時、窃盗の原因は最も近い私であって、私を飢えさせた親でも社会でもありません。

では、「先行」「接近」においては同じ程度に見える原因「マスクをせずに出る」「薄着で出る」のふたつから、なぜ私は「寒い日に薄着で出たから、風邪を引いた」という因果関係を必然的つながりとして選択するのでしょうか。

必然的結合

その必然的つながりを生じさせるものは、たんに過去においてつねにあの事象がこの事象に伴っていたという、繰り返しすり込まれた経験「恒常的連接」です。
私は普段マスクを使用しないため、マスクを着けなかったから風邪を引いたという経験をもたないため、そこに必然性が生じません。
しかし、過去において幾度も薄着でいたことによって風邪を引いた経験を繰り返しているため、「案の定、薄着で風邪を引いた」という必然的つながりが私の中で生ずるわけです。

「恒常的連接」が繰り返されることによって、あの事象が起こった後はこの事象が起こるよう、頭の中でそのつながりを再現する期待や習慣や癖のようなものが出来上がるのです。
これが「因果」という観念の正体であるというのがヒュームの主張です。

帰納法批判

そしてこの既存の「因果」を支える支柱になっているものが「帰納法」です。
「今朝太陽が昇った、昨日の朝も太陽が昇った、一昨日の朝も太陽が昇った・・・二千年前の朝も太陽が昇った(という記録がある)」
ここから帰納的に一般則「朝太陽が昇る」を導き出し、演繹的に未来の事象「明日の朝も太陽が昇るだろう」を予測するのが因果論です。

しかし過去事例の枚挙から明朝も同じように太陽が昇るという確証は導き出せません。
なぜなら、明日という日は全く新しい事象であり、過去とは別の位相にあるからです。
過去の事例を集めて帰納によって生み出した自然法則では、未来の予測は不可能です。
また、帰納法を正当化する根拠として、過去に帰納法がうまくいった事例を無数に枚挙しても、経験的推論はつねに帰納を前提とするため、帰納で帰納を根拠づけるという循環論に陥っていまい、その試みは破綻します。

因果論に確証などなく、ただそれは過去の臆見が恒常的連接により習慣化し、いつの間にか確固とした信念に凝り固まってしまっただけのことなのです。
過去の経験を鏡のように反転して未来に投影しただけの閉鎖的な因果論的世界の中では、すべてが必然によって予測可能な決定論的箱庭世界になるのは当然です。

ここから「自由意志」対「決定論」という擬似問題が生じてくるわけです。
因果というものは私たちの自由意志の経験から生ずる「恒常的連接」の習慣化の産物であると同時に、逆に自由意志は因果を前提にしなければ行為そのものが不可能になるという、相即不離なものです。
切符を買ったら電車に乗れるという因果を把握していなければ通勤すらままなりませんし、その因果は過去において私の自由意志によって切符を買って電車に乗った無数の経験が生み出すものです。