なぜ人を殺してはいけないか

人生/一般

さまざまな特定の理由

「いけない」ということは、禁止を出すある特定の立場の存在が想定されているということです。
ですので、当然その立場によって、いけない理由が異なってきます。
生物学的な生存本能や、法学的な人権思想や、心理学的な共感の概念や、功利主義的な損得勘定など、偉い大人たちは様々なポジションから、禁止の理由を語ります。

しかし、理由を語る人のポジションとは異なる世界観を採用し生きている人にとっては、異なるルールのゲームに参加しているようなものなので、いくら論理的でも別の立場から語られた理由では納得がいきません。
また、世界観だけでなく、個人あるいは集団によって「人間の定義」も異なります。
理性を人間の本質とみる人は、理性の機能を失った脳死状態の人を人間としてみなさなくなる可能性が高くなりますし、愛国心の強い集団では、他の国の人間を人間の定義から外し動物としてみなす場合があります。

採用している世界観(ポジション、立ち位置)の違いと、人間の定義の違いの掛け合わせによって、「人を殺してはいけない」という禁止の理由や内容が、無数に存在することになってきます。
人を殺してはいけない理由が無いのではなく、理由がありすぎて決定不能の状態と言った方が良いでしょう。
音が無いのではなく、音がありすぎて騒音と言う名の無音状態になっている感じです。

普遍的な理由はない

自分が所有する世界観と人間の定義に合致する特定の人を殺してはいけない理由なら探せば見つかりますが、普遍的絶対的な唯一の理由を見つけることは不可能です。
全人類の世界観と人間の定義を統一すれば可能かもしれませんが、それは現実的に無理です。

そもそも禁止の本質は抑止であって、はじめから不可能なことであれば、誰も禁止などしません。
絶対的普遍的な理由があるのなら誰もしないので、禁止を出す必要すらないという事です。
普遍的理由に無知な場合はやってしまいますが、その際は禁止ではなく理由を語れば済む話です(注1)。
裏を返せば、人殺しを禁止する人は、人殺しの禁止を破る別の合理的理由の存在可能性を暗黙の前提として認めているわけです。
「いかなる時も人を殺してはならない」と命ずる宗教が、自集団と異なる世界観を採用するものとの戦争状態になった時には、むしろ残忍なくらい平気で人を殺すという矛盾は、水面下に隠れて見えていなかったこの事実が露呈したにすぎません。

【注1】
例外があるので、一応、説明しておきますが、読む必要はありません。
禁止を破る人は以下の4パターンです。
1.禁止を知らないのでやる人
2.禁止理由に納得していないのでやる人
3.禁止理由に納得しているが価値観が異なり利益がないのでやる人
4.禁止を破ること自体が目的になっているのでやる人
1~3は普遍的な合理的理由があれば禁止するまでもなくやらない人ですが、例外的に4.のように理由を問わずいかなる場合も禁止を破る人がいます。
例えば、校則を破ることそのものが自己の存在理由となっている不良少年や、法律を破る快感のために万引きをしてしまう優等生。
禁止が無くなると同時に消滅する人種なので、禁止を出さなければそもそも出現しません。

特別扱いされる問い

突き詰めれば、これらは答えではなく、問いの問題です。
例えば、学校の先生に「なぜ不純異性交遊は禁止なのか(いけないのか)」と問えば、「学業の妨げになるから」と明確な理由を答えます。
禁止を出している相手の立場が明確なので、その理由も明確で納得できます。
しかし、「なぜ人を殺してはいけないか」という問いは、その禁止を出している者の立場が曖昧なまま発せられているので、明確な理由が出るわけがないのです。
限界を設定しない不特定の問いに明確な答えなど存在しません。
不特定の問いには不特定の答えが対応するため、ただいけないからというような漠然とした答えが返ってくるだけです。
例えば、中学の一次関数の変域問題で、変数xの変域(範囲)を限定せずに、「yの変域を答えよ」とか言われても答えようがないため、生徒は先生に条件をつけるよう求めます。
答えが出ないのは、問題の立て方に問題があるからです。

分かりやすく言い換えてみます。
「なぜ人を触ってはいけないか」と問えば、「は?どういう文脈だよ。病院の患者に対してか合コンの異性に対してか口論の相手に対してかで答えが違うだろ!」と問いを特定する様に促されます。
「なぜ人を殺してはいけないか」という問いもこれと同じ構造なのですが、これには宗教的(絶対的)戒律あるいはその変奏としての普遍的道徳法則のような意味合いが付加されており、特別扱いされた問いなので、この問いの中にある不完全さが不問に付されます。
この特別扱いを止めない限り、答えは出ません。
「不合理ゆえにわれ信ず」というような論理を超えた不合理な問答無用の宗教的感情と、理由の説明という論理的合理的な作業を混ぜれば、訳が分からないことになって当然です。

「なぜ人を差別してはいけないか」というような問いも同様です。
その差別がどういう事態を指しており、その禁止が誰目線で語られているのかを特定しない限り、答えは出ません。
もしそれが、クラスでのイジメを指しており、禁止を出しているのが担任の先生なら、教育理念としての平等が前提とされているので、その差別の禁止理由は教育理念を作った人に訊ねれば明確になりますが、その文脈を外れれば理由の効力は失われます。

曖昧さに甘えることを止める

人間は基本的にどこかのポジションに属しているので、自分の採用している世界観と人間の定義をハッキリさせれば、「人を殺してはいけない」理由をかなりの確率で発見することができます。
勿論、「人を殺してはいけない」理由のない世界観も存在しているでしょうが、在っても短命で終わるはずなので、人間が採用する世界観として見つけるのは相当難しいでしょう。

多くの場合、人を殺してはいけない理由が無いと思っている人は、1.よく考えていない人か、2.特定のポジションを明確にしていない曖昧な人です。
「なぜ人を殺してはいけないか」という問いが中二病っぽいのは、思考力が中途半端だけれど好奇心は旺盛、かつアイデンティティーが確立しておらずポジションが曖昧な中学二年生と親和性があるからでしょう。

「なぜ人を殺してはいけないか」と、周りの大人に問うても納得のいく答えは出ません。
なぜなら、自分が安定した世界観を持っていること、及びその大人が自分の世界観と合致していること、の二点が揃っている場合にのみ、その大人の語る人を殺してはいけない理由が、納得のいくものとなるからです。
絶対的、普遍的な答えを得て安心したいという子供っぽい欲求を叶えてくれるほど、現実は易しくはありません。
「禁止の理由が無いならやってもいい」というような発想は、禁止を出す上位の管理者に依存する自立できない未熟な従僕が抱く反動的な思考です。

(自分の特定の立場を明確にする作業をしないまま)曖昧な問いを大人に投げかけて、その大人が質問者の特定の立場を理解し親切に教えてくれた上で適切な回答を与えてくれることを期待したり、(明確な答えが存在しないのを半ば分かった上で)曖昧な問いを投げかけて、大人を困らせて喜ぶ小学生のような意地悪をしても、それに付き合ってくれる大人はほぼいません。

自分で探すしかない

「なぜ人を殺してはいけないか」と問われれば、「誰に禁止されたの?」と問い返せば、禁止した者の立場が分かり、ある程度明確な理由が回答できます。
もし、「神様の本に書いてあった」というような宗教的な立場からの普遍的(抽象的)な禁止であったなら、「私は人間(特定の存在者)なので分からない、神様(普遍の存在)に訊いてね」と回答すればよいだけです。
禁止の理由は禁止した本人に訊くのが一番てっとり早いのですが、禁止を出す本人自身が、その禁止を上位の管理者から出されて盲従しているだけで理由を分かっていない場合が多いので、禁止を出した当の本人を遡る源流探しの旅がはじまります。
ニーチェやフーコーの言う系譜学とは、この根拠(理由)の源流探しの旅の事です。

少年ジャンプを読んでいて、「決して人は人を殺してはいけない」というようなセリフがあって疑問を感じても、その理由を台所のお母さんや庭で草むしりしているお父さんに訊いても分かりません。
作者にお便りを送って、直接理由を聞くしかありません。
運良く返事が送られてきたとしても、たぶん「セリフとして格好良かったから描いただけです」みたいな回答が返ってきて、ちびまる子ちゃんみたいな縦線が顔に生じるだけだと思います。
明確な理由を基にした上で禁止を命ずる合理的な人間は極めて少ないので、理由の回答など期待するだけ無駄です(多くの場合、人の述べる明確な理由とは、無知を隠す建前や巧みな言い訳や本心を隠す騙りや教条を売り込む宣伝文句にすぎません)。
自ら根拠(理由)の源流を探す冒険の旅へ出るしかありません。

結論

ざっとまとめます。
「なぜ人を殺してはいけないか」の特定の理由ならたくさん存在するが、普遍的な理由はない。
普遍的理由を語る者(人間)は、隠されたある特定の立場を持っている。
その隠れた前提を突き止め暴き出せば、普遍的に見えた理由は特定の理由であることが判明する。

そうなると、神学の偉い先生がこう怒るでしょう。
「バッカモーン!人間ごとき欠陥だらけの知性が神の完全な普遍的知性を理解できるわけがなかろう。普遍的理由は存在するが、限られた経験しか待たん人間には分からんのだ。黙って従いなさい」

これは正しいと思います。
「ない」ことは証明できないので、「人を殺してはいけない理由が無いのなら、私は人を殺す」と言う人は、永遠に人を殺せないことになります。
訊ねた範囲の人達が理由を知らなかっただけの可能性が必ず残るので、世界中の賢者をくまなく訪ねて理由が無いことを確認しなければなりません。
仮に人類の全世界全歴史の知性を集めたスーパー人工知能コンピューター「HAL」や「Dr.ノウ」に、「なぜ人を殺してはいけないか」と問えば、「現在ノデータデハ答エラレマセン、50年後ニ解答デキル可能性11.8パーセント、100年後ニ解答デキル可能性33.6パーセント…」というように、延々と先送りされるだけです。

私が普遍的理由が無いと言うのは、そういうことではなく、単純に論理の構造として、具体的な答えは具体的な問いにしか生じない、つまり普遍的な問いに具体的な答えはない、という当たり前に事実を述べているだけです。
普遍的(抽象的)な問いに特殊的(具体的)な解答を与えているように見える場合、解答者は隠れた前提として必ず立場や文脈を特定した上で答えています。
例えば、「なぜ人を殺してはいけないか」という漠然とした問いに対し、心理学者は具体的な理由を回答しますが、その場合、言葉にはせずともあくまで心理学者という特定の視点においてです。
アリストテレスは「存在とは何か」というような漠然とした問いに対し、存在のカテゴリーを十以上に分割特定した上で、それぞれの具体的な答えを出しています。
そうしないと具体的に述べられないからです。

「なぜ人を殺してはいけないか」というような漠然としたままの問いに明確な具体的答えを求めること自体がおかしいということです。
ユニクロ(普遍)に行ってビスポーク(注文仕立)の服(特殊)が買えないと憤慨する場違いなお客さんみたいなものです。
賢い先生に具体的な答えをもらっても「なんか違う」と思ってしまうのは、多くの場合、答えが無いからでも間違っているからでもなく、自分の隠れた視点と違う視点からの回答を得て納得がいっていないだけです。

 

おわり

 

 

(おまけ)「人を殺してはいけない」禁止のレベル

専門家の言説と異なり、世間一般の人の場合、単一の立場(視点)を明確にしたうえで世界を見ることは少なく、自覚されない無数の立場を混在させた上で物事を判断しています。
心の中にあるその無数の立場の数だけ、無数の特定の「人を殺してはいけない理由」を所有しており、(質や程度を除き単純に数だけで見るなら)この理由を沢山持っている人ほど人を殺すことへの抵抗が強くなり、少ないほど弱くなります。

例えば、動物的な我欲のみを自己の視点(立場)として世界を捉える単純な人の場合、彼にとって人(同種の個体)を殺してはいけない理由はただ一つ、「刑罰(ムチ)を喰らうから」です。
もし、その理由が無くなるような状況、いわば刑罰を与えられない状況になれば、彼は我欲のために簡単に人を殺します。

例えば、敵兵に襲撃された村人が、自分の娘を凌辱と虐殺から守るために、自らの手で殺し自分も死のうとする場合、多くの人は「人(娘と自分自身)を殺してもいい」と思います。
なぜそうなるかと言うと、この状況が無数の特定の人を殺してはいけない理由の条件を超えているからです。
他人の気持ちを考えろという心の視点から、人を殺してはいけない理由を所有している人にとって、この状況ではむしろ人殺しが最大限相手の気持ちを考えることになります。
法的な理念によって、人を殺してはいけない理由を所有している人にとっては、この戦争状態という法の機能していない法外の極限的状況では、人殺しの禁止令は解除されるので、禁止は無効となります。
先に述べた刑罰の視点を持つ人にとっては、敵に凌辱され虐殺される激しいムチより、近親者及び自分の手でやさしく殺める方がムチとして楽なので、当然、娘を殺すこと及び自分を殺すことを承認します。

先ほど登場した神学の先生なら、このケースでも決して殺してはいけない、と言うかもしれません。
彼(宗教)の立場からの禁止理由が「人間は神の被造物なので、人間ごときが人間を殺すことは、神の所有物を破壊する行為なので決して許されない」であったとすればれば、上のケースはこの禁止理由を超えていません。
「この苦しみはお前に与えられた運命、試練あるいは神罰なので、キリストのように黙って苦しみ虐殺されなさい」と彼は言うかもしれませんが、多くの人はこんな特異な宗教的立場は採用していないので、納得するわけがありませんし、する必要もありません。
どんな状況において人を殺しはいけなくて、どんな状況において人殺しはよいかというその人の判断が、その人の心の内で採用されている立場、視点、世界観を如実にあらわしています。

 

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