真理とは何か(1)

人生/一般 哲学/思想

<序章、二つの真理観>

真理観というものは、大きく分けて二つのものがあります。
ひとつはプラトン的真理観、もうひとつはニーチェ的真理観です。
別に彼らがそう言ったということではなく、思想を大分するためのインデックスラベルとして、ここでは便宜上そう呼ぶだけです。

 

<第一章、ニーチェ的真理観>

真理とは、その人を有利にするための虚偽

これは真理は人間の数だけ存在するという真理観です。
生物種や社会共同体や個人それぞれにとって、都合のよい、利益になる価値体系を「真理」と呼んでいるだけだ、という世界観です。

当然それぞれのもつ真理が異なるので、常に争いが生ずることになります。
そこでは、それぞれの持つ力(特性、武器)によって相争い、勝った者の価値体系が真理として採用されることになります。
要はすべては嘘(虚構)であり、その虚構を真理とするのは「力」のみだということです。
暴力、詭弁術、金、快楽、権力、容姿、脅し、詐術、同情、歴史、権威、世間(同調)、劣等感、羞恥、等々、ありとあらゆる力、手段を用い、人は自分に有利な価値観を「真理」として採用させようとします。

分かりやすく漫画の『ドラえもん』で喩えるなら、ジャイアンは暴力によって、スネ夫は金の力によって、出木杉君はレトリックによって、のび太君は弱さ(同情の力)によって、ドラえもんはテクノロジーによって、しずかちゃんは可愛さによって、他者に自分の「真理(という名の嘘)」を信仰させようとします。

世界は利権争奪合戦の様相を呈し、まさに皆がそれぞれの特性にしたがう形(武器)で、力を志向することになります(力への意志)。
人生とは、自分の武器を磨き強くなり、強者、勝者となり、自分に有利な価値観を「真理」として他者に強制し、支配し、自ら(あるいは己が種、己が共同体)の繁栄を極めることが目的となります。

真理の根拠は真理性ではなく、暴力と利益と情動

よく考えて欲しいのですが、私が今思っている「正しいこと」の保証はどこにあるでしょうか。

ある事柄を私が「真理」と認定するのは、ただ偉い人が言ってるから、皆が言っているから、端正な容姿の人が言ってるから、利益と共に与えられたから、感動と共に与えられたから、そう信じないと暴力や脅しが与えられるから、昔からそう言われているから、そう思わないと恥ずかしいから、そう思わないと不安だから、等々、真理性(真実の確証性)の尺度とは直接関係のない付帯的な事柄の集合によって、真理を決定しているだけです。

裏を返せば、私のもつ「真理」など、金や脅しや蔑視や美少女や権威や常識や同調圧力などによって、容易に打ち負かされ、私は簡単に反対意見に寝返るということです。
例えば、天皇を神と信じていた天皇主義者たちが、敗戦とともに手の平を返し天皇を糾弾しはじめ、一晩で民主主義者となったのは、ただ彼らの天皇への信仰が、真理性ではなく、同調や利益や脅しによって保証されていたものだったからです。
原発反対派は利権に与っていないから反対意見を信仰しているだけであり、自身のサークルが利権のサークルの側に入れば、即、推進派に変わります。
もし宮崎アニメの主人公のナウシカが健気な美少女ではなくキモイ中年男性だったら、エコロジーの大切さなど訴えても、誰も信じません。

私たちの真理を決定するものは、理性的検討ではなく、大部分が損得感情(勘定)や快楽や情動にしたがうものでしかありません。

真理は探究するものではなく、作り上げるもの

この真理の争奪戦に勝つために、やがて人は経歴を偽り、性格を偽り、票を買収し、情報を操作編集し、詭弁術を駆使し、綺麗な僧衣で飾り、紳士の所作を真似、強者のフリをし、弱者のフリをし(同情を買う)、騙し、脅し、裏切り、嘘を吐くことが当たり前の人間に成っていきます。
なぜなら、勝った者が真理になるので、どんな手段を取ろうが、この世は勝った(やった)もの勝ちの世界だからです。
卑劣で間違った手段であっても、勝ちさえすれば、結果がそれを正当化してくれるからです。

この真理観においては、真理とは力と同義のものであるのです。
万人が万物の尺度であるということは、世界のすべては嘘(虚構)であるということです。
そんな中で、真理とは探究するものではなく、戦国時代の陣取りゲームのように自らの力で築き上げていくものだということになります。

真理という名の嘘が人間のデフォルト

しかし、これらは多くの場合、単純に意図的なもの、いわば悪意によるものなのではなく、人間にとって本質的なことでもあります。
皆が無意識のうちかつ必然的に採用している世界観です。

私は自分の利益の偏向、色眼鏡によってしか、物を見られません。
物を見る段階で、自分の利益の規定に従い、情報は取捨選択され(見たいものしか見ない)、不利益な情報が入ってきたとしても解釈を捻じ曲げ(見たいようにしか見えない)、他人にそれを伝える時は上手く編集し、さらに都合よく伝えます。
勿論、多くの人において、これは全て無意識的な過程であり、意図して曲げよう、嘘をつこうとしている訳ではありません。

人は真理なしには生きられません。
真理は自らの行動原理であり、真理は自分の世界に統一を与える重力の中心点です。
真理がなければ、人は意志的な行動を起こせず、真理がなければバラバラな世界の混沌のめまいの中に呑まれ、人は発狂してしまいます。
「真理などない」と言うニヒリストも、その言説のみは真理として認めざるを得ません。
真理などくだらない嘘だと分かっていても、それにすがりつかねば人は生きていけないのです。

プラトンの挑戦

このような真理観、世界観を、本気でヤバイと感じ、何とかしようと奮闘したのが、哲学のはじまりを告げる古代ギリシャの賢人プラトンです。
いわばプラトンは、「真理」の創始者です。
現代社会は、ポスト真実の時代などと呼ばれますが、歴史的に見ればプレ真実の時代への退行です。
私たち現代人は真理の崩壊した真理後(ポスト)の世界に生きているのではなく、真理前(プレ)の世界に逆戻りしているだけです。

元々、プラトンは政治家を目指していたわけですが、真理と力がイコールで結ばれる当時の荒廃した現実政治の世界に幻滅し、哲学の道に入ります。
そして、この問題を解決するカギとなるものを、「対話」に見出します。

(2)へつづく